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日本の強さは「歴史が継続している」ところにあります。
我々が神代というのは、実は、千年以上万年の単位で、この日本列島で営まれた長い歴史のことを指します。
それほどまでに古い時代から、日本人は、ずっと歴史を紡いできたのです。
そしてそうした万年単位で日本人を考える時は、日本列島の地形だっていまとは全然異なったものになります。
むしろいまの日本列島の形だけで、祖代の歴史を考えるほうが、どうかしているのです。
◆【お知らせ】◆
<東京・倭塾、百人一首塾他>
9月23日(日)13:30 第54回 倭塾・東京 第54回
東京の倭塾・百人一首塾は10月から会場がタワーホール船堀に変更になります。
10月8日(月)13:30 第55回 倭塾 研修室 1330-160
10月27日(土)18:00 第30回 百人一首塾 407会議室
11月13日(火)18:00 第31回 百人一首塾 307会議室
11月25日(日)18:00 第56回 倭塾 研修室
12月6日(木)18:00 第32回 百人一首塾 301会議室
12月24日(月)13:30 第57回 倭塾 研修室
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月9日(金)19:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)
<国内研修>
12月16日(日)~17日(月) 一泊二日 神話を体感する会
11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。
祖代(そだい)というのは、古代以前の時代のことをいいます。
我が国では、古代といえば6世紀の古代大和朝廷の時代をいいますから、それよりも古い時代が祖代です。
祖代には、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代が含まれます。
当時の人口を考えると、いま日本にもとから住む日本人にとっては、当時の人々はすべて直接の祖先にあたります。
つまり我々日本人の共通のご祖先の時代が「祖代」ということになります。
高天原のあった神代の時代も、もちろん祖代です。
その祖代の高天原について、水戸黄門様がおもしろい論を展開してます。
水戸黄門といえば、徳川光圀(みつくに)のことですが。光圀は徳川御三家のひとつである水戸藩の第二代藩主です。
黄門というのは、光圀が権中納言(ごんのちゅうなごん)で、権中納言の漢風名称(唐名)が黄門であることに由来します。
けれど実は水戸の藩主で権中納言を授けられたのは、初代藩主の徳川頼房、二代藩主徳川光圀、三代藩主徳川綱條(つなえだ)、六代藩主徳川治保(はるやす)、八代藩主徳川斉脩(なりのぶ)、九代藩主徳川斉昭(なりあき)、十代藩主徳川慶篤(よしあつ)と、合計七人います。
もっとも、一般に水戸の御老公とか、水戸黄門といえば、二代藩主の徳川光圀を指します。
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ちなみにこの徳川光圀は、国史をたいへん大事にした人で、史書である「大日本史」の編纂を開始したこともさりながら、神話(昔の言い方だと神語(かむかたり))に出てくる高天原の場所を特定した人としても有名で、高天原が常陸国(現在の茨城県)にあったとしています。
常陸(ひたち)は日立(ひたち)とも書きますが、要するに日の神である天照大御神が立たれたところが「日立」であるというわけです。
また漢字の「常陸」は、要するに「常世(とこよ)の陸(おか)」という意味ですから、はるか祖代の昔から、そこが日本の中心地だったということが、そのまま漢字に当てられています。
この高天原常陸説は、その後新井白石によってさらに追求されました。
新井白石が1716年に書いた『古史通(こしつう)』には以下の記述があります。
「高天原は一般に天上界にあると言われている。
しかし我国の古書を読むには、
いまの字の解釈でその意味を解いてはならない。
古語によってその義を解(と)くべきである。
旧事紀には「高国(たかのくに)」という記述がある。
常陸国風土記にも「多珂(たか)」という記述がある。
古事記には「天と書いて阿麻(あま)と読めと注釈がある。
上古の言葉で「あま」いえば海のことである。
天のことは「阿毎(あめ)」と言う。
播羅(はら)もまた上古の言葉である。
すなわち古語にいう
『多訶阿麻能播羅(たかあまのはら)』は、
多珂(たか)の海上にあった地ということになる。」
要するに高天原は、茨城県の水戸市から北茨城市にかけての一帯の沖合いで、いまは海中に沈んでしまっているところにあったのではないかと、新井白石は紐解いているわけです。
新井白石が慧眼(けいがん)だと思うのは、古文書に基づいて結論を出していながら、祖代の海岸線について、いまとはまったく違った海岸線であったろうことを明察していることです。
実際、約6500年前〜約5000年前に縄文海進と呼ばれる極めて温暖な時期があり、その時期、海面はいまよりもずっと高くて、関東平野はほぼ海となっていました。
約5500年前には海面は現在よりも平均で4.4メートルも高く、また神奈川県小田原市羽根尾貝塚になると、なんといまの標高22メートルの高さのところまで、海に面していたことが確認されています。
そしてこの頃はいまよりずっと温暖で、しかも黒潮がいまよりもずっと北まで北上しており、そのため岩手、青森あたりまで、たいへん温暖な気候であったことが確認されています。
青森にある三内丸山遺跡は今から約5500年前頃の遺跡ですが、まさにその当時は海面が高くて、いまよりずっと温暖で、青森のあたりの気候は、いまの九州あたりに近く、そのあたりが人々が住むには、もっとも適した土地となっていたわけです。
ところがそれ以前の1万年ほど前には逆に気温が低く、その時代には海面がいまよりもずっと低くて、山陽地区と四国九州は全部陸続きで瀬戸内海はいま海の底になっているところが、陸上に露出していました。
そういうことが、最近の地学で明らかになりつつあるのですが、新井白石は、まだそのようなことが判明するよりもはるか以前に、海面がいまよりもずっと低い時代があったということを、文章学の立場から述べているわけです。
まさに慧眼といえると思います。
日本は本当に歴史の古い国で、3万年前には磨製石器が使われていました。
これは明らかに世界最古で、その磨製石器を用いていた人たちの血筋を、現代日本人はそのまま受け継いでいるわけです。
高天原の所在地は、天上説、いまご紹介した常陸説の他にも、実は奈良説、宮崎高原説、宮崎高千穂説、熊本説、岡山県真庭市説、群馬県上野村説、長崎説、鳥取説、和歌山説、長野県佐久説など、さまざまな説があり、現在のところ、そのなかのどこが本当の高天原の所在地だったのかは、わかっていません。
しかし思うに、いまよりもずっと人口が少なくて、日本列島全土でまだ20〜30万人の人口しかなく、土地の所有などという概念がなかった時代のことです。
おそらく人々は、もっとも居住に適した気象環境にあって食べ物を得やすい住みよいところに、その住処を変えていったことでしょう。
食を得るには海に近いことが要件であったことは、縄文時代の遺跡のことごとくが貝塚を持っていること、つまり人々が海から採れる貝を獲て食べていたことが明らかです。
そしてその海の高さが、数千年という長い歳月の間に上がったり下がったりしていたとするならば、神々と呼ばれる古い時代の我々のご先祖が住んだ場所が、北上したり南下したり、気象環境や土地の環境に合わせて、あちこちに移動していたであろうことは、当然にいえることです。
だいたい飛鳥時代では、天皇の御在所となる都は、天皇が代わるたびに、移動していたくらいなのです。
現代だって、実家は九州だけど、いまは東京や大阪に住んでいるという人がほとんどです。
人が住みよいところに移動して生活することは、個人体験を振り返ってもあきらかなことです。
日本人の営みは、この数十年だけのものではありません。
縄文時代だけでも、1万4千年の営みがあり、それ以前の旧石器時代からすれば、最古の石器からは12万年前にまで日本列島における日本人の営みは続いてきたのです。
日本の強さは「歴史が継続している」ところにあります。
我々が神代というのは、実は、千年以上万年の単位で、この日本列島で営まれた長い歴史のことを指します。
それほどまでに古い時代から、日本人は、ずっと歴史を紡いできたのです。
そしてそうした万年単位で日本人を考える時は、日本列島の地形だっていまとは全然異なったものになります。
むしろいまの日本列島の形だけで、祖代の歴史を考えるほうが、どうかしているのです。
もっというと、大昔の祖代、いまのような国境なんてなかった時代、日本人は昔は倭種とか倭人とか言われていましたが、その倭種の活動エリアは、現代日本人が考える日本列島の中の日本人というだけでなく、実は北米、南米、中東、アフリカ、シベリア等々に至る広大なエリアで倭種は活動をしてきました。
だから蒙古斑が世界に広がっているし、主語+目的語+動詞という日本語の語順の言語が世界中に広がっているし、縄文式土器が世界中から発掘されるのです。
このことについての詳細はまた今度。
お読みいただき、ありがとうございました。

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