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20180501 表紙完成2のコピー
地方によっては、県や市のホームページに、教育委員会が中心となって作った郷土史や郷土の名所を紹介しているところもあります。
そうした動きが、小中学校や、地元の高校を通じて、もっと盛んになっていくことを希望します。
人間にとって、小さな歴史こそ、人をつくる大きな歴史なのですから。

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【お知らせ】
<東京・倭塾、百人一首塾他>
6月9日(土)18:30 百人一首塾第27回
6月10日(日)13:30 チャンネルAJER 古事記に学ぶ日本型経営学/戦いの時を古事記に学ぶ
6月30日(土)13:30 倭塾・東京 第52回
7月14日(土)18:00 倭塾・東京 第53回
7月28日(土)18:00 百人一首塾 第28回
8月15日(水)ねずさんと靖国昇殿参拝
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月11日(日)14:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)

近くの八幡神社に、乃木大将の「忠魂碑」があります。
高さ3メートルくらいの大きな石碑です。
表には、「忠魂碑 希典書」と書かれ、後ろには、地元から日露戦争に出征して亡くなった英霊の名が刻まれています。
この「忠魂碑」は、一時、地面にまるごと埋められていました。
それは昭和20年、日本が戦争に敗れ、GHQがやってきて、我が国の軍神像などを片端からつぶしていったときのことです。
昭和20年といえば、1945年です。
日露戦争が1905年です。
たった40年しか経っていません。
つまり終戦当時、日露戦争に従軍し、まさに石碑の後ろに名前が刻まれてた兵隊さんの、父母や兄弟姉妹が、まだ存命だった時代です。
いくら日本が敗れたとはいえ、身内の名前まで消されてはかなわないと、近所のおじさんたちが集まって、石碑を土に埋めました。
そしてサンフランシスコ講和条約の締結によって、我が国が主権を回復すると決まったとき、また近所のおじさんたちが集まって、この碑掘り起こしました。
昭和26年(1951)の夏のことです。
サンフランシスコ講和条約の発効は、翌年4月です。
けれど、そんなものを待ってなどいられなかったのです。
だから、決まったときに、みんなですぐに掘り起こしました。
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20180326 イシキカイカク大学


大好きだった兄、勇敢で明るくてしっかり者だった息子が、名誉の戦死を遂げたのです。
その死を悼んで、乃木将軍が、大きな碑を建ててくださったのです。
その碑は、地域のみんなで大事に大事に、地元の神社に建立されていたのです。
だから、日論戦争の後、毎年、何か用があって神社に行くたびに、この碑の前で、お父ちゃんに手を合わせていました。
その碑が、日本が戦争に負けたときに、地面に埋められていたのです。
ようやく6年経って、その碑が掘り起こされたとき、もちろん重機なんかありませんから、ぜんぶ手作業です。
近所のおじさんたちが集まって、みんなでエンコラって掘り起こし、碑をきれいに洗って、再び社内に建てました。
神主さんが、祝詞をあげてくれました。
兄を亡くしたおばあちゃんは、そのとき地面にひざまづいて、両手を合わせて泣いていたそうです。
もらい泣きで、その娘さんも一緒に涙を流していました。
汗とドロで真っ黒になっていたおじさんたちも、そんな姿に涙をこらえきれず、あちこちで嗚咽がひびいたそうです。
おばあちゃんには、その碑が亡くなられた兄の姿に見えたのかもしれません。
夫が帰って来た、そんなふうに感じた奥さんもいた。
境内で、碑を起こす人夫さんたちに大声で指揮をとっていたおじさんは、まだ3つだった頃に、伍長だった父を亡くしました。
そんな息子さんも、もう49歳でした。
まだ残暑が厳しい日でした。
お天道様が西の空に沈んで、夜になって、氏子会館で、簡単な宴が催されました。
なつかしいおじいちゃん、青春の日のおじいちゃん、勇壮な出征のときの様子が語られる。
乃木将軍のことが語られる。
「碑が建てられたときはね、県知事さんや、市長さんたちも来てね・・・」
「おめえ、いたずらこいて、兵隊さんに怒られてたろ?」
「やめてよ母さん。あれはもう50年も昔の話でねーか」
宴が終わって、帰り道、またまた境内で、両手を合わせ、深々とお辞儀をして二拍する人々。
そんな歴史が、いま住んでいる、すぐ近くの神社にありました。
この忠魂碑は、いま、全国の主だった神社に建てられています。
そして、そのひとつひとつの忠魂碑に、涙なくしては語れない歴史が刻まれています。
そんな歴史は、紙にも文にもなっていません。
もう90歳になる近所のおじいちゃんが亡くなったら、もう「忠魂碑」が、なぜ、いつ建てられ、戦後の一時期、みんなでそれを埋めて、講和条約のあと、また掘り返したって話は、おそらく消えてなくなってしまうのかもしれません。
本当であれば、近所の小中学校や、高校などが主体となって、地元の様々な歴史を掘り起こし、それを取りまとめて、文書にしていかなければならないのではないかと思います。
なぜなら、歴史というのは、実際の出来事ではなく、書かれたものが歴史となるからです。
出来事は、時の経過とともに失われていくのです。
だから、私達は文字や絵や映像の力を借りて、その失われる出来事を記録し、記憶に留め、それが失われないように、ストーリーを組むのです。
それが歴史です。
戦前は、こうした郷土史などは、市町村の教育長さんが中心となって市町村内の旧制中学などに呼びかけ、学校の教師や生徒たちが郷土史の編纂に取り組むということが、よく行われていました。
いまも、そうした郷土史は、和綴じ本となって市町村に保管されていますが、戦後の市町村の統合によって、いまではそのほとんどが埋もれてしまっていると言われています。
残念なことに、戦後にGHQの指導によって生まれた教育委員会は、小中学校の教職員の人事には関心はあるものの、市町村の郷土史には、ほとんど関心が払われていないと言われています。
本当ならば、郷土史こそ、郷土のほまれであり、郷土を愛する人々のアイデンティティの基礎になるものであるはずです。
地方によっては、県や市のホームページに、教育委員会が中心となって作った郷土史や郷土の名所を紹介しているところもあります。
そうした動きが、小中学校や、地元の高校を通じて、もっと盛んになっていくことを希望します。
人間にとって、小さな歴史こそ、人をつくる大きな歴史なのですから。
お読みいただき、ありがとうございました。
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