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私たちは、戦後教育で「これが正しい」とされてきたもの、あるいは「それがあたりまえの常識」とされてきたものを、今一度、疑って見る必要があると思います。
このままでは、あまりの末孫の劣化に、我々の祖先が悲しむし、我々の次の世代への贈り物が、無責任社会という無秩序社会になります。
これではあまりにご先祖に申し訳なさすぎです。
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◆【お知らせ】◆
<東京・倭塾、百人一首塾他>
6月9日(土)18:30 百人一首塾第27回
6月10日(日)13:30 チャンネルAJER 古事記に学ぶ日本型経営学/戦いの時を古事記に学ぶ
6月30日(土)13:30 倭塾・東京 第52回
7月14日(土)18:00 倭塾・東京 第53回
7月28日(土)18:00 百人一首塾 第28回
8月15日(水)ねずさんと靖国昇殿参拝
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月11日(日)14:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)
選挙によって民衆のリーダーを選ぶことは、おそらく現代日本人なら誰もが「それは当然のことであり、他に代替する方法はない」と思っておいでのことと思います。
「世襲」と聞くと、なにやら身分が固定されたもので、好ましくないものといったイメージもあろうかと思います。
しかし本当にそうでしょうか。
近年、児童が殺害される事件が相次いでいます。
女性に対する暴行事件も頻発していると言われています。
証拠を偽造して国会で文句を言うといったことも行われています。
様々な嫌がらせを受けて警察に相談に行くと、いろいろと言われますが究極的には暴行傷害や殺人などの事件が起きてから来なさいというのが結論になります。
それが本当に良い社会といえるのでしょうか。
「世襲は良くない。選挙が良い」と誰もが思っています。
私から見ると、それは「刷り込み」です。
最近、新潟市西区で女子児童が殺害されるという痛ましい事件が起きました。
何度もこのブログで述べていることですが、これが江戸の昔なら西区の奉行は切腹です。
なぜなら奉行は、そのような痛ましい事件や事故が起こらないようにするために、ありとあらゆる権限を与えられているのです。権限があるということは、責任があるということです。
ですからそのような事件や事故が起これば、権限を付与された奉行が責任を取るのはあたりまえのことです。
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みずから腹を斬れば、お家は維持できますから、奉行は死にますがお家は安泰です。
息子さんが奉行職を継ぎます。
もたもたしていてみずから腹を斬らなければ、藩主から使いがやってきて「上意でござる。腹を召されよ」ということになります。
この場合は、お上の手を煩わせたということで、奉行の家はお家断絶になります。
お家断絶ということは、職を解任されるだけでなくて、家も取り上げられ、一家全員、郎党(これはいまで言ったら雇われ人)まで、全員が翌日から露頭に迷うことになります。
権力を持つということは、応分の責任を持つということなのです。
ですから奉行所のお奉行、いまでいうなら警察署の署長など、誰もやりたくない。
そのような次第で、たとえば選挙でお奉行を選ぶと言ったら、おそらく誰も立候補などしないのではないかと思います。
さらにいうと、江戸時代までの日本的価値観に従えば、仮にもしお奉行を選挙(昔の言い方なら入れ札)で選ぶなら、その選んだ人達にも応分の責任負担が生まれます。
当然です。
選挙権というくらいで、それは権力であり権限なのですから、それには当然責任が伴う。
ですからたとえばガソリーヌなどと言われるほど、公費を流用したことがバレたなら、そのガソリーヌに投票した人たちは、その選ばれた人が使い込んだ国庫の損失額を賠償する責任が生まれます。
そのような人物を選んだのです。
選んだ側にも責任がある。
選挙というものが、権利というなら、当然、それに応じた責任が生じるのが、本来、あたりまえのことなのです。
責任職としてのお奉行になど、誰もなりたがらない。
だから世襲にして、責任をとって腹を斬る覚悟と、切腹の作法を幼い頃から、叩き込んだのです。
なぜならそのように幼い頃から教育されて育った者でなければ、腹など切れるものではないからです。
そんなことはないと思うなら、先日の女子児童殺害事件のあった所轄署の署長さんに聞いてみたら良いです。
「事件が起きた責任をとって腹を切れますか?」と。
おそらく答えはNOです。
もちろん警察署長は選挙で選ばれる人ではありません。
選挙で選ばれる人と、そうでない行政の長を混在させた説明のようにお感じになられる方もおいでかもしれません。
しかしそれは現代的価値観に基づく政治や行政の機構に基づいて考えるからで、逆に江戸の昔の政治や行政の機構とそこにおける価値観からみたら、現代日本は異常です。
なぜなら現代日本は、責任を問わない社会に見えるからです。
行政・司法・立法の三権分立ともっともらしいことを言うけれど、三権という以上、それは権力です。
権力というなら、当然、責任を伴うはずです。
では、その責任は誰がどのように取るような仕組みになっているのでしょうか。
昔の日本の考え方からすれば、そもそも国家とは、人々が豊かに安心して安全に暮すことができ、国全体が、誰もが、よろこびあふれる楽しい国の住民となれるようにするために整えられているものです。
そのためには、世の中に秩序が必要であり、秩序のために権力があります。
そして権力と責任は、常に一体です。
その責任は、では誰が負うのかといえば、その事案の発生に直接権力を及ぼすことのできる人が責任を負うのがあたりまえです。
たとえば日大ラグビー部の事件の場合でいえば、選手に他校の選手を攻撃させる命令権を持った人がその問題の責任者です。命令は権力の行使だからです。
従ってこの事件場合は、監督が命令者(権力者)として責任を取ることになります。
どこかの国ではあるまいし、そもそもあのような蛮行が起こらないようにしっかりと監督をするために、監督という職が置かれているのです。
その職責がまっとうできずに、事件が起きたのですから、監督が責任を取るのはあたりまえです。
またそのような監督を任命した学校側も、任命責任を問われることになります。
今回の事案では、たまたま相手の選手の命に別状はありませんでしたが、万一、死亡事故にでもなっていたのなら、監督は切腹をしなければなりません。
これが日本的価値観です。
甘くはないのです。
そういえばこの事件に関して、監督たちが責任を曖昧にしている(ように見受けられる)ことについて、ある番組で、元お笑いタレントで元県知事だった人が、
「こういう古い体質がいけないのだ」
ということを言っていました。
逆ではないかと思います。
古い体質ではなくて、戦後、あるいは明治維新以降に外来文化によって育まれた無責任体質が問題なのです。
日本の古い伝統的価値観に従えば、権力を揮える範囲が権限です。
その権限を持つということは、同時にそれに応じた責任を負うということなのです。
冒頭に世襲か選挙かということを書きましたが、選ばれた人の行動に選んだ人も責任を負うのであれば、誰も選挙などしたくはないし、自分がしたことではないのに、責任者であるというだけで腹を切ったりお家断絶になるというリスクなど、誰も負いたくない。
だから世襲制度にしたのです。
世襲は決して甘くないのです。
現代社会でも、たとえば政治家は地盤看板算盤の三拍子そろった跡目の相続で、息子さんも政治家になるといったケースがあります。
現代のような責任をとることのない政治家であれば、それが世襲になるというのは、あまりに虫が良すぎる話です。
ですから世襲がいかがなものかという議論が出ることは、当然のこととして頷けます。
しかし、だからといって、昔の世襲まで悪であるかのように言われることは間違いです。
私たちは、戦後教育で「これが正しい」とされてきたもの、あるいは「それがあたりまえの常識」とされてきたものを、今一度、疑って見る必要があると思います。
このままでは、あまりの末孫の劣化に、我々の祖先が悲しむし、我々の次の世代への贈り物が、無責任社会という無秩序社会になります。
これではあまりにご先祖に申し訳なさすぎです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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