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20180501 表紙完成2のコピー
我々戦後世代は、世界の中ではめずらしいほどの平和な日本を戦後70年間作り上げてきました。
このことは、戦前の人たちからみても、素晴らしいことであったことと思います。
どうしたいかによって、未来は変わります。
次のステップは、「よろこびあふれる楽しい国」を取り戻すことです。
私たちの未来には希望が待っています。

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藍色ニワゼキショウ
20180521 アイイロニワゼキショウ
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【お知らせ】
6月9日(土)18:30 百人一首塾第27回
6月10日(日)13:30 チャンネルAJER 古事記に学ぶ日本型経営学/戦いの時を古事記に学ぶ
6月30日(土)13:30 倭塾・東京 第52回
7月14日(土)18:00 倭塾・東京 第53回
7月28日(土)18:00 百人一首塾 第28回
8月15日(水)ねずさんと靖国昇殿参拝
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月11日(日)14:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)

文化というのははるか昔から蓄積された、その土地に合った民族の知恵です。
けれどそれはガラス細工と同じです。
どんなに素晴らしい文化でも、たとえそれが何百年、何千年に渡って積み上げられてきた素晴らしいものであったとしても、破壊され、失われれば二度と戻ることはありません。
なぜならそれは、知性の中にしまわれたソフトウエアだからです。
ソフトウエアは、どんなに破壊されても、片鱗があるうちは復活させることができます。
しかし完全破壊されたら、もはや二度と戻りません。
ハードウエアといえる文明は、完全破壊されても復活させることができます。
ここが文化と文明の大きな違いといえます。
戦後、GHQの占領、それによって利益を得たいわゆる敗戦利得者たちによって、日本の文化の破壊は徐々に進められてきました。
とりわけ近年では、敗戦利得者として裏社会から占領を始めた半島人が、表舞台に進出することで、政治やメディアに深く食い込み、いまもとからある日本文化を次々と破壊しているといわれています。
先日書いた当用漢字もそのひとつです。
日本人の優秀性を破壊しようとしたGHQは、日本人から漢字を奪うために、漢字を簡略化して「当面用いる漢字」として当用漢字を発表しました。
GHQによる占領は昭和27年には解かれていますが、それがいまでもまだ当用漢字が用いられ、文章の表記も現代仮名遣いになっています。
このため多くの人は、ほんの70年前にかかれた文書が読み取れなくなり、また言葉の意味も先日来何度も書いています「学」と「學」の違いのように、意味そのものが入れ替わってしまうという状況を生んでいます。
さらに敗戦利得者となったエセ学者や文科省等によって、近年では文章の読解力さえも失われ、部分にこだわるだけで文全体から文意を察することができなくなっているといわれています。
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そしてこのように文化が失われることで、たとえばひとつの歴史上の事件等についても、その解釈がきわめて表層的になってしまっています。
その良い例が、赤穂浪士討ち入りの理由です。
実際には将軍第一か、尊王かという思想上の対立であった「言えない」事柄が、年寄りにイジメられた若殿様が、キレて殿中で刃傷沙汰を起こしたという話にすり替えられています。
そうは表立ってはいえないから、そのような話に表面上見せかけておいて、でも誰の目にも少し考えたら明らかになるようにヒントを残しておく。
そこから察するということが、日本の文化であり、だから芸事は二度おいしいといわれる。
演芸場で楽しみ、帰りの蕎麦屋で親父からその背景を教えてもらって二度納得。
だからおいしい。
そういうことがそもそも「忖度(そんたく)」の意味なのに、それがまったく別な、あたかも悪事のように言われる。
民主主義も、日本人なら民を主とするというまさに「おほみたから」を意味するものと理解できるのに、それが民衆の目をつぶしてものを見えなくして主人が贅沢をするという意味に誤用される。
それらいずれもが日本で熟成された日本文化ではなく、お隣の半島の文化のゴリ押しだから呆れます。
あるいは一時的に大儲けをするアメリカンドリームが、あたかも素晴らしいことのように宣伝される。
そうではなくて、本当に大切なことは、地道に努力することでみんなが豊かに安心して安全に暮らしていけるようにしていくことなのに、その重要なことが忘れられてしまう。
神話ひとつをとっても、そもそも神話という言葉自体が、幕末の造語であって、我が国でもとから伝えられた神語(かむかたり)という我々と直接血のつながった祖先の物語が、ギリシャ神話やケルト神話のような根拠のない作り話としての英語の「Myth」と同じ意味に矮小化されてしまう。
いずれも戦後に文化破壊が進んだ結果なのだけれど、そういう破壊され劣化させられた「日本文化もどき」の中に我々自身が、そうと気付かないうちに置かれてしまっているわけです。
だから「このままでは日本文化は破壊されてしまう」からと、破壊者たちを攻撃する。
それは、必要であっても十分ではないことです。
攻撃(反撃?)も大事でしょうけれど、そもそも我々日本の持つ文化の深さは、その程度のものではありません。
もっと深くてもっとやさしさやおもいやりのあるものです。
だからこそ、その日本文化そのものを取り戻していくという努力が必要なのです。
実際には、その日本文化は、戦後に破壊されて、いまやその片鱗をとどめるのみになっています。
けれど、失われてはいない。
冒頭に述べましたように、文化は完全破壊されてしまったら、二度と戻ることはありません。
しかし幸いにして我が国の文化は、たった70年やそこいらで破壊され尽くすほどヤワなものではありません。
つまり我々はまだ取り戻すことができるところにいるのです。
ただし、そこにあるのは、ジグソーパズルの切片のような破片だけです。
その破片を組み合わせて、もういちど日本文化という絵柄を完成させていく。
それがいま、大切なことだと思います。
なぜならそれは、日本文化の根幹、つまり私たち日本人の価値観の根幹を取り戻していくという行為だからです。
「パブロフの犬」という有名な実験があります。
犬に餌を与える際に、必ず前もってベルを鳴らすようにする。
これを何度も繰り返すと、犬はベルを鳴らしただけで、よだれを垂らすようになるのだそうです。
これが、「与えられた条件」と、その条件への「反射的行動」ということで、条件反射と呼ばれます。
気に入らないことがあったら怒るというのは条件反射です。
パブロフの犬と同じです。
気に入らないという条件に、怒るという反射的行動をしているだけだからです。
我々は人間です。
犬ではないのですから、その「条件」と「行動」との間に、「判断」という思考を挿入することができます。
昔、武士が街中で町人の与太者に絡まれるということがよくありました。
武士は剣術をしていますし、腰に二本の刀を差しています。
武士は斬り捨て御免で相手の町民を斬ることもできます。
しかしそのようにすれば、斬った責任をとって、自分も腹を斬らなければなりません。
さりとてくだらない挑発に乗って喧嘩して人を斬ったとなれば、お家の恥です。
もし刀を抜いていながら、逆に相手に斬られたとなれば、これまた武門の恥です。
それはお家断絶を意味します。
では、からまれた武士はどのようにしたでしょうか。
絡むような町人はヤクザ者です。
武士に対してもそうやって絡むくらいなヤクザ者です。
他の人に、もっとひどく絡んで、人を困らせているに違いない。
武士の役割は、そのようなくだらない挑発をするような町民が出ないようにきちんと世を正すことにあるのです。
そもそも絡まれるようなところにいたこと自体が不徳です。
我慢して、どうしたらそのようなやくざ者がノサバラない世にできるかを考えかつ実行する。
それが武士の役割です。
絡まれたから反応するのではないのです。
絡まれたことと、反応の間に、価値観という判断の物差しがあるのです。
10年前、この活動を始めたとき、「もう時間がない。戦おう!」という人たちがたくさんいました。
ほんとうにそう思いました。
けれど10年経って、ではどうなったのでしょう。
結局のところ、目の前にある政治課題もさりながら、日本人が日本人であることを取り戻す、つまり日本人としての価値観を明確に打ち立てるということがなければ、おそらく日本は変わらない。
逆に、日本人が日本人としての価値観を復活させていけば、必ず日本は変わる。
そのように思うのです。
それは、おそらく大きな回り道です。
けれど、いちばん近道であると思っています。
では、その価値観とは何か。
先祖伝来のものです。
「よろこびあふれる楽しい国にする」
それは日本書紀に書いてあることです。
決してむつかしいことではない。
けれどあらゆる価値判断の物差しとなることです。
よろこびあふれる楽しい国にするために、国会でもりかけが必要なのか。
大事なことは何なのか。
憲法改正論議の前に、そもそもどういう国に日本をしたいのか。
それは百年経っても千年経っても色あせない希望なのか。
そういうことを、しっかりと踏まえていく必要があると思うのです。
ドアのてっぺんよりも背の高い人が、そのドアを通り抜けるときには、腰をちょっとかがめなければなりません。
そうしなければ、おでこをドアの上の鴨居にぶつけてしまいます。
それを、腰をかがめずに何度も同じことを繰り返しておでこをぶつけ続ければ、見ている人は、「あれは馬鹿だ」とか、気でも狂ったかと思うことでしょう。
同じ行動からは、同じ結果しか生まれません。
ということはより良い結果を得るためには、価値観という物差しと、それによる明確な目標、これに基づく行動が必要です。
どんなに苦労することがあっても、必ず最後には勝つ。
本質が正しく、手段方法にも間違いがないから勝つのです。
ペルーに有名なマチュピチュの遺跡があります。
高山の山麓に建てられたこの遺跡は、ほんの500年前までは、実際に人々がそこに住み、使われていたものです。
いま、その石組みや建物跡は残っています。
しかしそこにどのような社会があり、どのような文化が営まれていたのかを、現代において知る人はいません。
「失われた」のです。
たった500年です。
500年前といえば、日本では室町時代です。
その時代に築かれた城や町はいまもちゃんと残っていますし、当時の歴史もちゃんと残っています。
当時の日本人が、いまの日本人の直接の祖先であったこと(つまり血がつながっていること)を疑う人はまずいないと思います。
それどころか、1000年前の日本文化であっても、我が国ではそれなりにちゃんと継承されています。
その頃に創建された寺社は、いまなお、立派に建てられています。
歴史がつながり、文化が継続しているのです。
しかし、上に述べたペルーしかり、北米のインデアンしかり、あるいはアフリカの王朝しかり、東アジア諸国の王朝しかり、いまではそれらがどのような統治がなされ、どのような文化が営まれていたのかさえ、まったくわからなくなっています。
これらの事実が示すことは、文化は滅びて消えてなくなってしまうことが現実にあるのです。
かつて半島の南部、今のSouth Koreaの南半分のあたりは、倭国、つまり日本の直轄地でした。
そこには倭人(日本人)たちが住み、倭国(日本)の文化が営まれていました。
けれど新羅によって征服され、そこにあった日本人たちの社会も文化も破壊されました。
明治以後、35年間にわたって半島は日本の領土となりましたが、それでもそこに住む人々に倭人(日本人)としての文化性が戻ることはありませんでした。
建物などのハードは、いくらでも再建が可能ですし、模倣も可能です。
しかし文化はソフトウエアです。
失われれば二度と復活しません。
それだけに、日本人が古くて長い歴史を通じて築いてきた文化性は、私たちの世代で決して見失ってはいけないものだと思うのです。
しかもその文化は、実は3万年前にはじまる磨製石器の時代から、1万7千年前に始まる縄文時代、その後の弥生、大和、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和と培われてきた、世界最古の文化であり、いわば人類の宝ともいえる文化なのです。
ひとくちに3万年といいますが、紀元1年から、まだたったの2000年しか経っていないのです。
3万年というのがどれだけ長い期間か。
そんな途方もない時の経過の中で、おそらくは私たちの祖先は、様々な試行錯誤を行ってきたのではないかと思います。
それは、一部の人が贅沢の限りをつくして、人々から収奪を繰り返すような世界であったり、強いものがひたすら弱いものから奪う文化であったり、人々が道徳性を失って欲望のままに生きるような時代もあったかもしれません。
そうした様々な試行錯誤を経て、これこそが誰もが豊かで安全で安心して暮らすことができ、ひとりひとりが人生において、愛と喜びと幸せと美しさを追い求めていくことができる社会、言語、習慣、価値観、道徳観を育くみ、その結果生まれたのが、日本文化であったのではないかと思います。
なぜそのようにいえるかといえば、日本は、新石器時代から続く血脈がずっと保持された国であるからです。
誰もが一代限りの人生であり、生きている間に自分勝手な欲望を満たすことだけだけが人生のすべてと考える文化を持った国は、歴史上も、現代においても、幾多の例があります。
しかしそのような国においては、貧しい人たちは人間性さえも否定される人生しかありません。
しかもそのような人たちが、人口構成の上では圧倒的多数を占めます。
そうした世界にあって、日本は、末端で生きる人々こそが「おほみたから」とする文化が営まれてきたのです。
これはすごいことだと思います。
築いてきた日本人の高い精神性を伴った文化性は、片鱗でも残っていれば、復活の可能性はあります。
同じものにはならないかもしれませんが、再構築して発展させることは可能です。
しかし完膚なきまでに打ち砕かれたら、二度と復活することはできません。
文化は、まるでガラス細工のようなものなのです。
だからこそ、大事に丁寧に日本文化を掘り起こすのです。
我々戦後世代は、世界の中ではめずらしいほどの平和な日本を戦後70年間作り上げてきました。
このことは、戦前の人たちからみても、素晴らしいことであったことと思います。
次のステップは、「よろこびあふれる楽しい国」を取り戻すことです。
私たちの未来には希望が待っています。
お読みいただき、ありがとうございました。
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