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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
斜めの人の目には、真っ直ぐなものが斜めに写ります。
けれど、そのような人たちが世界の信頼を勝ち得ることは絶対にありません。
なぜなら、人には良心があり、国はそれぞれが独立しているからです。
いくらChinaやKoreaの政府が自国民の言論を抑圧して、無理を通したとしても、それで世界が納得することは絶対にありません。
それならば、まずは日本人である私たちが、真っ直ぐなものを取り戻すことです。
そしてそれを私たち自身が、常識として、世界に向けて堂々とそれを発信できるようになることです。
そのための学びは、実はものすごく楽しいことです。
◆【お知らせ】◆
5月5日(土)18:30 百人一首塾 第26回
5月19日(土)18:30 倭塾・東京 第51回
6月9日(土)18:30 百人一首塾第27回
6月10日(日)13:30 チャンネルAJER 古事記に学ぶ日本型経営学/戦いの時を古事記に学ぶ
6月30日(土)13:30 倭塾・東京 第52回
7月14日(土)18:00 倭塾・東京 第53回
7月28日(土)18:00 百人一首塾 第28回
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
8月15日(水)ねずさんと靖国昇殿参拝
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月12日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月11日(日)14:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)
西暦608年の第三回遣隋使で日本は、「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」と書いた国書を隋の皇帝に渡しました。
隋という、当時にあって東亜最強と謳われた強大な軍事帝国に対して我が国は、実に堂々と対等な関係を打ち出したのです。
このことは、当時の日本が朝鮮半島南部を領土の一部にしていたことを考え合わせれば、いかにすごいことかわかります。
それは、当時の我が国は「大陸と陸続き」だったということだからです。
ちなみに日本列島が陸続きというのではありません。
当時の日本は、朝鮮半島南部が日本の直轄地、つまり日本の領土となっていました。
その北側に、緩衝地帯として百済と新羅があり、その向こうには倭国と敵対する軍事国家の高句麗があり、その向こうに隋の大帝国ができたわけです。
半島南部に直轄地があるということは、その隋と日本が陸続きとなったということになるのです。
そうでありながらここまで堂々と、隋の大軍事帝国に対して対等な関係を突きつけたというところに、実に日本らしさがあります。
どちらが上でどちらが下かではないのです。
隋だから対等を要求したということよりも、どんなに強大な帝国であっても、あるいは逆に弱小国であったとしても、日本は堂々と対等な関係を求める。
それは、人と人との間には、上下の関係などなく、たとえば武力では劣るかもしれないけれど、学問では上である等々、良いところもあれば欠けているところもあるのが世の常なのだという日本的価値観が根拠になっているものです。

世の中に秩序は必要です。
ですからたとえば百済や新羅は、この時代、我が国に臣下の礼をとっています。
しかし彼らはそうすることによって、国民のひとりひとりまでもが、天皇の「おほみたから」とされたのです。
社会的秩序のための上下関係と、人としての対等関係は両立するものです。
たとえば仕事の上では、A君が部長、B君が係長なら、その上下関係は職務上、十二分に尊重されるべきものです。
しかしゴルフではB君が指導者で、A君がその生徒なら、ゴルフをするときの立場は逆になります。
それが映画化されたのが「釣りバカ日誌」ですが、こうした関係観は、上下関係ばかりを意識する社会では成立し得ないものです。
そして対等な関係を重んずる社会が我が国において実現し得たのは、我が国が万世一系という誰も否定できない天皇という国家最高権威の存在を、古い時代から確立できたことによります。
天皇の存在があることによって、我が国は国家最高権力者よりも、上位に国家最高権威を置くことができたのです。
そしてそうあることによって我が国は、一般の民衆が権力者の奴隷ではなく、むしろ権力者は民衆の生活に責任を持つ者という自覚と社会制度を確立することができたのです。
その天皇という呼称が、冒頭の国書に用いられています。
このときの国書が、我が国が、対外的に「天皇」という語を用いた最初の出来事です。
我が国が日本という国号を正式に採用したのは、西暦689年の飛鳥浄御原令からです。
つまり天皇という呼称は、日本という国号よりも古い。
ということは、我が国は「日本があって天皇があるのではない」ということです。
先に天皇があって、その「天皇のもとに日本がある」のです。
現行憲法は(これは憲法というよりGHQに与えられた日本国民の服務規程ですが)、天皇を国民統合の象徴と書いています。
なぜ国民統合の象徴になるかといえば、天皇が日本より古い存在であり、日本国の、いわば生みの親だからです。
その意味からすれば、現行憲法よりも天皇は、はるか上位の我が国の最高権威であり、我が国の国長(首長)です。
政治や行政、司法といった国権の発動は、それぞれの機関が責任を持つとして、天皇がその上位にある国家最高権威であることは、現行憲法下においても、何ら変わることはありません。
もしそうではなく、天皇さえも憲法下の存在であるとするならば、天皇の地位は行政・司法・立法府という国家権力機構と並列ということになります。
すると国民は、権力の下に隷属する国民ということになります。
いくら国民主権を唱えたところで、ひとたび国権の長を選べば、その国権の長は、国民や国民生活の生殺与奪の権を持つのですから、国民は隷民にしかなりません。
そうではなく、政治や行政が、国民や国民生活に責任を持つという体制を保持したいのなら、国民は国家最高権威としての天皇のもとにある「おほみたから」でなければならないのです。
従って、天皇の御存在を否定するような人たちは、国民こそが「おほみたから」であるとする、日本に古来からある世界中の国々の過去から現在に及ぶ様々な体制の中で、最もすぐれた究極の民主主義を否定する、おそるべきテロリストたちであるということになります。
おもしろいのは、このような人たちの集団に限って、世界平和とか戦争反対といった、絶対に誰も反対し得ない耳障りの良いことを常々口にすることです。
上辺だけ調子の良いことを言って、その実、腹は真っ黒という人種には決してだまされないことです。
日本書紀は、神々が「よろこびあふれる楽しい国」を築きたいと、この世を造ったと記されています。
しかし、そのような国であっても、神々でさえも、さまざまな苦難を襲います。
そしてその苦難を乗り越えた先に、よろこびがあり、そのよろこびもつかの間、また苦難が神々を襲います。
それでも負けない、くじけない。
そうした強い心を育み共有していくことにこそ、幸せあふれる楽しい国があるのだということを、教えてくれています。
決して、甘いことばかりではないのです。
今月号の『玉響』(http://www.nihoniyasaka.com/book/)で勉強させていただいたのですが、「体(からだ)」というのは、もともとは「からだま」の略なのだそうです。
「からだま」というのは、魂の入る殻(から)を意味します。
人は死ぬと「仏(ほとけ)」になりますが、その「ほとけ」は、もともとは「ほどける」から来ているのだそうです。
つまり、肉体から魂がほどける。
肉体は有限ですが、魂は無限だという、古い昔からの日本人に根ざした魂観から、日本語が生まれているわけです。
その魂の集合体が、大和魂です。
その大和魂は、過去から現在、未来に至る日本人の魂の連続した集合体です。
その連続の中に、いまを生きている私達ひとりひとりの魂があります。
せっかく日本人に生まれながら、いつまでも戦後的な低い価値観に拘泥したり、衣の下から鎧(よろい)がチラチラとのぞいている天皇制反対とか世界平和とか言っているペテン師達に騙され続けて一生を終わるのは馬鹿げています。
日本人として目を覚まし、あらためて日本を取り戻すための一歩を踏み出して行きたいと思います。
ChinaやSouthKoreaや在日Koreanが日本の悪口を言います。
もちろん反論や論証は必要です。腹も立ちます。
しかし、だからといって彼らと同じレベルで、我々日本人が彼らの悪口を言い続けたら、100年言い続けたら、何が変わるのでしょうか。
少なくとも、彼らが変わることはありません。
千年前からずっと変わっていないのです。
たかが百年で変わるはずもない。
では、反論だからと彼らの悪口を言い続けた日本は100年後どうなっているでしょうか。
世界は日本を、彼らと同じレベルの国としかみなくなるのではないでしょうか。
「困ったときには原点に還れ」ということは、誰もが知る常識です。
ならば、日本を取り戻すには日本の原点にまで立ち返って日本を学び、日本を知ることです。
そして私たち日本人が常識として、日本を日本人を、そして日本の歴史を堂々と語れるようになることです。
それが「身を正す」ということなのではないかと思います。
斜めの人の目には、真っ直ぐなものが斜めに写ります。
けれど、そのような人たちが世界の信頼を勝ち得ることは絶対にありません。
なぜなら、人には良心があり、国はそれぞれが独立しているからです。
いくらChinaやKoreaの政府が自国民の言論を抑圧して、無理を通したとしても、それで世界が納得することは絶対にありません。
それならば、まずは日本人である私たちが、真っ直ぐなものを取り戻すことです。
そしてそれを私たち自身が、常識として、世界に向けて堂々とそれを発信できるようになることです。
そのための学びは、実はものすごく楽しいことです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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