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B29といえば、先の大戦のときに「超空の要塞」と形容された、当時にあって世界最先端の爆撃機です。
史実を調べてみると、B-29の総生産数は3,971機です。
我軍は、はるかに性能がおいついていないとされた戦闘機で、そのうちの2709機が損傷、512機を撃墜しています。なんと81%を損耗させています。

B-29
B29
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B29は高度1万メートルの上空を、100機から500機の大編隊でやってきて、地上に焼夷弾の雨を降らせました。
当時の日本の家屋は木造です。
その木造の家屋が密集している大都会に、雨あられと焼夷弾が降ってくるとどうなるか。
その焼夷弾は空中で四分五裂し、バラバラになって地上に落下するようにできていました。
それが家々に突き刺さり発火しました。
この爆撃によって、日本では約55万9千人の死者が出ました。
これは誰がどうみても、非戦闘員への無差別攻撃です。
つまり明らかに戦時国際法違反となる行為です。
広島と長崎に原爆を落としたのもB29です。
 ***

20180326 イシキカイカク大学


B29の正式名称は、ボーイングB29スーパーフォートレス(Superfortress)といいます。
日本語に訳したら「超空の要塞」です。
名前だけ聞いたら、アニメの宇宙戦隊ものか、ゲームに出てくる空飛ぶ要塞みたいです。
しかしB29は、まさに超空の要塞にふさわしい大型爆撃機でした。
全長30メートル、全幅43メートル。
2200馬力のエンジンを4機積み、プロペラは4発で、最大速力は最大速力は時速581キロに達します。
しかもその周囲には、20㎜の機銃1門と、12.7㎜の機銃が12門備え付けられ、どの方位からの攻撃にも完璧な迎撃態勢を敷くという、まさに空飛ぶ要塞そのものでした。
米国はB29の大編隊を、最初は英国に送りました。
ところが偶然ドイツ空軍がその大編隊を発見します。
ドイツはびっくりして、慌てて迎撃用のジェット戦闘機の開発を急がせています。
それが「Ta183」です。

Ta183
Ta-183

このTa183は、結局完成には至らなかったのだけれど、その技術は戦後米国に引き渡され、以後のジェット戦闘機の時代を築きました。
一方、いったん英国に集結したB29は、ヨーロッパ戦線に投入されませんでした。
どういうことかというと、実は、この前年である昭和18(1943)年8月に、ケベックで、米国ルーズベルト大統領と、チャーチル英首相が首脳会談をひらき、中国への支援続行と、ビルマ方面での作戦、対日無差別絨毯爆撃の実行などを決めたのです。
つまり米軍の動きとは別に、ルーズベルト大統領ははじめからB29を用いた無差別絨毯爆撃を対日用に限定して実施すると決めていたのです。
要するに、同じ白人同志の戦いには、こうした明白な戦時国際法違反の軍事行動は、後後のためによろしくないとされ、その使用は、あくまで「黄色い猿」に対してのみ行うという考えであったのです。
先にB29の引退について述べると、対日戦線で猛威をふるったB29は、その後の昭和25年に起きた朝鮮戦争で、ソ連製のジェット戦闘機のミグにさんざん撃ち落とされ、結果、引退を余儀なくされています。
ミグ戦闘機の最大速度は、B29の2倍ほどもあり、また実用高度は1万5千メートルと、これまたB29より、1.5倍もの高高度での飛行が可能です。
ジェット戦闘機が登場することで、B29は超空の要塞ならぬ、低空で飛ぶのろまな、ただの的(まと)になったのです。
ちなみに終戦の少し前、日本では、B29対策にジェット戦闘機が開発されていました。
こちらはドイツ軍と異なり、実際に完成に至っています。
それが中島飛行機が開発した橘花(きっか)で、燃料はなんと松の木の切り株を乾溜させた松根テレビン油でした。
「そんなしょうもない油で」と思われるかもしれませんが、この油は後年、フランスがロケットの打ち上げエンジンの油として用いられています。おかしなものではないのです。
橘花(きっか)は、昭和20年8月7日にはテスト飛行が行われ、終戦時には数十機が量産体制に入っていました。
終戦があと半月遅れていたら、昭和20年の段階でB29は、大空ののろまな的になっていたのかもしれません。
 ***
さて、英国にいったん集結したB29は、昭和19(1944)年6月に、China内陸部の成都にはいりました。
そして準備を整え、昭和19年8月20日に、日本本土空爆のために約100機の大編隊で飛び立っています。
この大編隊は、済州島の上空約8千メートルで、同島にあった陸軍の電波探知所によって発見されました。
電波探知所は、緊急無電で、本土防衛制空部隊に「謎の大編隊迫る」と報告しています。
連絡を受けた陸軍飛行第4戦隊は、直ちに「隼」「屠龍」「疾風」「飛燕」等の新鋭戦闘機に分乗し、曽根、芦屋、雁ノ巣、板付、大刀洗の各陸軍飛行基地から迎撃発進しました。
そして両者は北九州上空で会戦となりました。
B-29は、上下左右といわず、飛行中に全方位からの攻撃に迎撃できる性能をもった空の要塞です。
そのB29が、100機の砲門を全開にして弾幕をはりました。
その弾幕をかいくぐり、日本の戦闘機がB29に果敢に突撃しました。
そしてたちまち13機のB29を撃墜させてしまいました。
このときのものではありませんが、日本の戦闘機とB29の戦いの模様を、当時中学一年生だった北九州の齋藤茂夫氏が手記に書いていますので紹介します。
「8月20日は日曜日で、
 特別な動員命令も下されず、
 学校は休みであった。
 私は午前中は
 大豆畠の草取り等の
 農作業に精を出し、
 午後からは近所の友達の
 加藤清さんや古川喜一さん等と
 直ぐ近くの城瀬の海岸に
 泳ぎにいった。
 そして魚を釣ったり、
 さざえ、あわび、トコブシ、
 うに、みな等を採った。
 当日は日本晴れで、
 波も静かで絶好の磯日和であった。
 当日何時もの様に磯をしていると、
 軽い爆音が聞こえたので見上げると
 約8千メートルの上空を
 真っ白い飛行機雲を
 たなびかせながら、
 3機又は4機編隊で、
 東南東に飛行する
 B29を目撃した。
 もちろん北九州方面爆撃の
 侵入であることは直ぐ解った。
 非常に悔しいが
 いかんともなしがたく、
 出来ることは
 ぐっと睨みつけるだけであった。
 そしてまたしても無差別爆撃で
 無辜(むこ)の乳幼児や
 婦女子等の非戦闘員が
 沢山虐殺されるのかと思うと
 非常に強い憤りを
 憶えずにはいられなかった。
 私はその時、
 しばらく泳ぐのを忘れて
 飛行するB29の
 編隊を見上げていた。
 それはB29の描き出す
 真っ白な飛行機雲が、
 真っ青な空に鮮明に際立ち、
 とても美しかったので
 見惚れていたのである。
 その後私は再び磯を続けた。
 暫くして南の空から
 激しくキーンと云う爆音や、
 ダダッという銃撃音が
 聞こえてきた。
 見上げると多くのB29が
 編隊を乱して
 北に向かって飛んで来た。
 更に良く見ると、
 豆粒の様な我が戦闘機群が
 逃走するB29を
 縦横無尽に攻撃していた。
 壮絶なる空中戦闘が
 展開されているのである。
 私達は機銃掃射を避けるべく
 慌てて付近の岩陰に避難して
 更に繰り広げられる空中戦闘を
 手に汗を握りながら見上げていた。
 空中戦闘が始まった頃、
 加唐島上空辺りで
 我が戦闘機1機が黒煙を吐き
 高度を下げながら南の方向に
 飛行するのが見られた。
 空中戦闘で不覚にも
 被弾したのである。
 私は此の戦闘機が
 無事帰投する事を
 祈らずには居られなかった。
 やがて朦々たる
 黒煙に包まれて
 火達磨になった
 B29が接近して来た。
 良く見ると隼戦闘機が
 上に成り下になりして
 執拗に攻撃を加えている。
 B29は高度をグングン
 下げながら初山村の
 当田海岸に接近した時、
 数個の落下傘が開いた。
 火達磨のB29は更に飛び続け
 久喜の西側の小山の端陰に隠れ
 私の視界から消えた。
 1分~2分の後、
 初山村方面から
 大きな爆発音が聞こえ、
 同時に黒煙が中天高く
 立ち上るのが、
 城瀬の海岸からも
 明確に見えた。
 私は小躍りして、
 手を叩き歓喜を上げて喜んだ。
 純粋培養の皇国小国民である私は
 不逞にも皇土を犯したり
 窺おうとした憎き奴等の
 当然の末路であると思った。
 生田伍長機の「隼」は、
 初山上空を2~3周して
 B29撃墜を確認して
 南方向に飛翔帰投した。
 私は鬼神をも哭かしめる
 生田伍長の阿修羅の如き奮戦に
 最高の賛辞を送るとともに
 飛び去る生田機を
 涙に潤む目で見送っていた。
 9月に入り中学は
 2学期が始まった。
 何日か後の或る日、
 学校帰りに初山村の
 墜落現場を見学に行った。
 現場は墜落してから
 日数を経過していたので、
 残骸等は大方片付けられていた。
 何か戦利品は無いかと
 付近を探したら、
 弾丸の欠片と
 焼け焦げた英文の
 書類片を発見したので
 拾って持ち帰った。」
たまに聞かれる話なですが、次のように言う人がいます。
「B29の編隊が日本の上空にやってくる。日本の戦闘機が迎撃に向かうのだけれど、日本の戦闘機の最高高度は、せいぜい6千メートル。高度が全然届かないし、速力が違いすぎて、追いつくこともできなかった。
加えて、B29は、飛行機の周囲360度に死角のない完全武装だったから、迎撃に向かった日本の飛行機は、見る間に上空から撃墜されて、まるで歯が立たなかった。」
ところが史実を調べてみると、B-29の総生産数は3,971機です。
そのうち512機が撃墜されています。(一説によれば714機)
そしてのべ2707機が損傷し、乗員の戦死者は2982名にのぼっています。
米軍の場合、自軍の飛行機は、戦闘不能状態になっていても、とにかく戦地を離脱できた飛行機は撃墜の数に入れません。
従ってここでいう撃墜は、まさに日本上空で撃墜されたB29の数字です。
そして3971機のうち、2709機が損傷、512機が撃墜ということは、生産されたB29のうち、81%が日本側の航空隊によって、損耗したということです。
なるほどB29と日本のプロペラの戦闘機では、性能差が圧倒的です。
にもかかわらず、具体的な数字を見る限り、日本は実によく戦ったといえるのではないでしょうか。
上の目撃談に出てくる生田憲生伍長の操縦していた飛行機は「隼(はやぶさ)」です。
そうです。あの加藤隼戦闘隊の「隼」です。
「隼」は、全幅約10メートル、全長約9メートル、最大速度515Km/hの飛行機です。

隼

この日、生田伍長は、僚機とともに福岡上空で索敵中に、約5千メートルの高度で逃走するB29を捕捉しました。
生田機は限界高度である高度約5500メートルの上空でB29の後方に舞い上がり、B29の背後から機体に12.7ミリ機関砲を叩き込んでいます。
そして更に反転して、今度はB29の真っ正面から、銃撃を浴びせました。
B29は、炎上し、高度を下げながらも、なおも飛行を続ける。
生田機は、逃走するB29を確実に撃墜すべく、壱岐上空まで追撃して、更に弾丸を発動機に叩き込んでいます。
猛火に包まれたB29から敵の飛行士7名が、落下傘で脱出しています。
そしてB29は初山村・梅津新田の山中に墜落し、爆発炎上しました。
生田伍長は、初山村上空を2周して撃墜を確認した後、母基地に凱旋帰投しています。
B29から降下した米兵のうち、2名は死亡だったそうです。
そして5名が憲兵隊に捕獲され、壱岐要塞司令部の営倉に連行され、翌日福岡の油山捕虜収容所に護送されています。
この5名は、この日のすこし前に、北九州各都市を無差別に爆撃して、数百名の住民を虐殺した兵です。
当時、米軍の中では、日本軍に捕虜になったときには、大人しくしていれば、危害を加えられる心配はない、という指導がなされていたそうです。
なるほど一部には、名古屋の岡田資(おかだたすく)事件のように、捕獲した米兵を斬首している事件もありますが、これは戦後のBC級裁判ですら、米軍側が「名古屋空襲は無差別爆撃であり国際法違法である」との見解を導き出しています。
つまり「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃の搭乗員は、ハーグ条約違反の政争犯罪人であり、捕虜とはいえない」のです。
東京大空襲による死者
東京大空襲による死者

北九州で逮捕された米兵5名のその後については、てもと資料がないので、どうなったのかはよくわかりませんが、ただ、ひとつ、このときに墜落したB29の乗組員のうち、亡くなられた2名の米兵は、日本軍と地元住民とで、現場付近で丁重に埋葬され、十字架を立てて野辺の草花が供えられました。
これは壱岐要塞司令官であった陸軍少将、千々波幸次将軍(陸士26期・陸大38期)が、副官に命じて埋葬させたもので、戦後の昭和20年末、埋葬された米兵の遺骨は、進駐軍が掘り出して米国に持ち帰っています。
このとき進駐軍の上官は、日本軍が丁重に葬った正義と温情に対して、感謝の念を伝えています。
圧倒的な機体の能力差があっても尚、果敢に立ち向かった私達の先輩たち。
そして撃墜し亡くなられた米兵に対しても、きちんと埋葬し、野辺の花を手向けた私達の先輩たち。
すくなくとも、そういう日本人の心は、これから先、日本が日本である限り、ずっとずっと大事にしていきたいものだと思います。
※この記事は2010年4月の記事に加筆して再掲したものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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