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←いつも応援クリックをありがとうございます。古事記と日本書紀は、それぞれが実に明快に、その目的を冒頭に述べています。
それが、
諸命以(もろもろのみこともちて・古事記)と
豈国無歟(あにくになけむや・日本書紀)です。

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古事記と日本書紀の違いについては、諸説あって、どれもなんだか帯に短したすきに長しという具合で、「これだ!」という決め手になるような違いを説明したものが見当たりません。
よく言われるのは、古事記と日本書紀の成立年代とか、著作者の名前、あるいは巻数の違いなどですが、それらはいわば物理的な違いであって、「なぜ古代において2つの史書が書かれたか」を示すものではありません。
さらに、なぜ古代において2つの史書が書かれたかになると、古事記は日本語の音を漢字で表記する和化漢文体で書かれているが、日本書紀は美しい漢文体で書かれているとか、これまた群盲象を撫づのような解説が並び、あげくは古事記は偽書ではないか、などといった議論がなされはじめたりします。
古事記・日本書紀が書かれた目的となると、古事記は国内向け、日本書紀は対外的な史書として書かれたと、これまた目的というよりも、むしろ利用手段の説明になっていて、書かれた内容の目的外の議論になっていたりします。
ところが目からウロコが剥がれ落ちるとはこのことで、古事記と日本書紀は、それぞれが実に明快に、その目的を冒頭に述べています。
それが、
諸命以(もろもろのみこともちて・古事記)と
豈国無歟(あにくになけむや・日本書紀)です。
なお、以下に述べることは、記紀を神学として読む立場や、史書として読む立場とは一線を画するものです。
記紀は、いずれも1300年前に書かれたものであるだけに、その解釈をめぐっては諸説ありますし、また神学として神々への尊崇という立場、あるいは歴史書としてこれを読む立場等によって、様々な解釈がなされます。

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私自身は人の身であり、神界の出来事まではわかりかねます。
神界がどのような世界なのかはまったく計りかねますし、摩訶不思議な世界というならば、たとえばそこには本当に頭が八つある蛇がいたやもしれません。
また記紀に述べられた神語が史実かどうかも、私はその時代を見てきたわけではないのでわかりません。
しかしそれをいうなら、記紀を書いた人たちもまた同じです。
記紀は人が書いたものであって、人が理解しうる範囲の出来事を、人が理解しうる範囲で、できる限り矛盾を廃して後世に伝えるために書いたものであろうと思うのです。
そうであれば、記紀がが「何を伝えようとしているのか」、またそこに書かれた神語が「何を伝えようとしているのか」を、しっかりと読み込むことが、記紀を読む基本的な姿勢として大切なことではないかと思うのです。
神語だから大事だとか、古事記だから大事だという見方もありますが、それ以上に「伝えようとしていることに大事な要素がある」と、そのように思います。
1 諸命以
これらの言葉は、いずれもイザナキとイザナミがオノゴロ島を創ろうとするシーンで出てきます。
古事記では、二神が天の浮橋に立たれて、諸命以(もろもろのみこともち)て天の沼矛を下の方の混沌に差し入れます。そして矛を引き上げたときにできたのがオノゴロ島です。
日本書紀も同様に二神が天の浮橋に立たれるのですが、このとき「豈国無歟(あにくになけむや)」と語り合って、底下の混沌に矛を差し込みます。
矛を引き上げたときに生まれたのがオノゴロ島というところは同じです。
「諸命以」はわかりやすいと思います。
「全ては上位の神々の命(みこと)のままに」という意味です。
したがって古事記は、イザナキ・イザナミ二神の天の沼矛を用いた行動も、すべてはより上位の神々の命(みこと)に基づいてのことだと述べているわけです。
イザナキとイザナミも神様です。
では、その上位の神々とはどういう神様たちかといえば、天之御中主神からはじまる創生の7神を指します。
天之御中主神というのは、御神名から、天空の、つまり大宇宙のすべての、もしくはすべての時空間の中心にある神様です。
続く高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は、高次元(つまり高み)での産巣(うぶす)、つまり高次元での結び(むすび)の神様です。
結びの概念がどういうものかは、アニメ映画「君の名は」にも出てきますので、なんとなくご理解いただけようかと思います。
三番目の神様は神産巣日神(かみむすひのかみ)です。
神々同士の結び、あるいは神々との結びを意味する神様です。
つまり古事記は、こうしたすべての中心と、その中心との結びの神々らの命(みこと)のままに、オノゴロ島をつくり、そこに降臨し、日本列島という国土を生み、八百万の神々を生み、そして黄泉の国との一線を敷いて、天照大御神、月読命、須佐之男命らをお生みになるわけです。
それら「すべてが、神々の命(みこと)のままに」行われているということが古事記の立場です。
そして神々の命(みこと)を行なう者は、八俣遠呂智(やまたのおろち)のような困難があっても、絶対にくじけずにこれと戦うこと、そして続く大国主神話には、冒頭に根無し草である「菟」と、和船の帆掛け船を意味する「和迩」を登場させて、大国主が築いた大いなる繁栄をした国家が、実は商業流通国家であったことを述べます。
ところが商業は、できるだけ安く仕入れて、できるだけ高く売れば、その差益が大きくなって儲かる仕組みです。
言い換えれば、一次生産者である農林水産業の人たちは、常に貧困下に置かれます。
これは神々の命(みこと)に反するということで行われたのが天孫降臨で、迩々芸命(ににぎのみこと)が地上に降臨されます。
迩々芸命の御神名を見ると、「迩」が「近い」、「芸」がモノづくりの技術を意味します。
つまり迩々芸命は、身近に技術を置くという御神名で、まさにここから日本のモノづくり大国が始まっているわけです。
そしてそれらすべては、冒頭の「諸命以(もろもろのみこともちて)」行われてきたのだ、というのが古事記の立場です。
そこから古事記は、人々の上に立つ人たち、つまり御皇族や公家、高級神官といった世の中の頂点に立つ人たちを対象に、我が国の施政のすべてが、神々の命(みこと)のまにまに行われなければならないということを、説いた書であるということができようかと思います。
2 豈国無歟
これと並ぶ日本書紀は(ここで「これと並ぶ」と書かせていただきました。普通ならここは「これに対する」と書くところですが、いまでは「対」という字が共産主義史観に染まって敵対するような意味としてしか用いられなくなってしまっています。本来の日本語では「対」と書いて「ならぶ」と読むくらで、並び立つことで互いに刺激しあい、成長しあっていくことを意味する文字であったわけです。誤解されないように、あえて「これと並ぶ」と書かせていただきました)、やはり冒頭のイザナキとイザナミがオノゴロ島をつくる段で、二神が「豈国無歟(あにくになけむや)」と書いています。
「あに〜や」というのは、現代の古語教育では下に打消の語や反語表現を伴なうことで、たとえば
「あによからんや」といえば「決して良くはないであろう」
「あにまさめやも」といえば「どうしてまさろうか、いや、まさりはしない」
といった訳語であるとしか教わりません。
その説に従えば、「あにくになけむや(豈国無歟)」も「決して国はないであろう」とか、「どうして国があるであろうか、いや、ありはしない」となり、そういいながら、二神は底下に矛を差し入れて、オノゴロ島を作ったことになってしまいます。これでは意味が通りません。
しかし日本書紀は、日本語で「あに〜や」と書いているわけではなくて、漢語で「豈国無歟」と書いています。
そして漢語は、漢字一字ごとに意味がある字です。
その字の組み合わせによって意思を伝えるものです。
そこで一語ずつの漢字を見ていくと、「豈」という字は、そもそも楽太鼓(がくたいこ・冒頭の写真)を象形化した文字であることがわかります。
太鼓には様々な種類がありますが、「楽太鼓」というのは、よろこびの時、うれしいときに鳴らす太鼓です。
つまり「豈国」というのは、「よろこびあふれる楽しい国」という意味になります。
その「よろこびあふれる楽しい国」が「無也(なけむや)」というのです。
そしてその「よろこびあふれる楽しい国=豈国」とはいかなる国なのか。
すこしもとに戻って、創生の神々を見ると、最初の神様から順に、
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狹槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
となっています。
外国の人が漢字で読んだら、国常立尊は矛を手にして立つ神様、国狹槌尊は大鎚を手にした武神、豊斟渟尊は水を操る水神であるかのようです。
けれども、なぜかこの三神は、「こくじょうりつそん、こくさついそん、ほうしゃくていそん」と音読みするのではなく、あくまでも訓読みで、
くにのとこたちのみこと
くにのさつちのみこと
とよくむぬのみこと
と読むようにとされています。
しかも、「尊」という字について日本書紀は、とても尊いものを尊(みこと)と書き、そのほかは命(みこと)と書くと、注釈をしています。
つまり三神は、とても「尊いもの」であるわけです。
そして大和言葉でこの三神の御神名の意味を読むと、
「くにのとこたちのみこと」は、クニのトコにタツみことです。
クニというのは、縄文の昔から、人々が生活するところがムラ、その周りにあって食べ物などを供給してくれるところがハラ、そのハラの向こうにあるのがヤマ、そのヤマの向こうには、また別なムラがあって、それらのムラの集合体がクニです。
そのクニのトコで、トコは「床の間」などでも使われるように、一段高いところを意味し、そこにタツ(立つ)尊いものというわけですから、クニの一段高みにおわす尊いみこと、ということになります。
「くにのさつちのみこと」の「さ」は、もともと神稲を表す言葉です。
ですから「さくら」といえば、神稲の蔵という意味で、桜が満開に咲くと、その下で、その年の豊穣を祈って、みんなで花見をして酒を飲んで楽しみます。満開の桜を豊作となる稲に見立てているのです。
「つち」は、そのまま「土」ですから、国の神稲と土の尊いもの、という御神名です。
「とよくむぬのみこと」の「ぬ」は、浅い沼のことで、「くむ」は水を汲むというように、すくい取ることをいいます。つまり浅い沼から収穫していくのですから、まさに田植えと収穫の御神名とわかります。
つまり日本書紀は、「稲作を中心として、よろこびあふれる楽しい国を築くには」ということがテーマとなっているわけです。
けれどひとくちに「よろこびあふれる楽しい国」とはいっても、毎日が「よろこびあふれる楽しい」状態であれば、そのことのもたらす意義も幸せも忘れてしまって、いつしかそれを「あたりまえ」の常態と錯覚してしまうのが人間です。
むしろよろこびも、たのしさも、苦しさや困難を乗り越えて、成長したときにこそ、本当の意味でのよろこびがあるし、感動があるし、幸福感があるものです。
ですから日本書紀は、それぞれの時代において、尊(みこと)たちが、苦労をしたり、取り返しのつかない失敗をしたりしながらも、それでも前向きに生きてきた物語を、綴っています。
そしてそのことを、我々の祖先は神語(かむかたり)とし、我が国の史書としてきたわけです。
わかりやすくいうと、次のようになります。
「神様は、
よろこびあふれる楽しい国にと、
この世界をつくってくだすったんじゃ。
じゃが、よろこびも、たのしさも、
毎日のことになったら
誰もが、それをあたりまえにして、
誰も成長しなくなってしまうじゃろ?
じゃから神様は、
我々にいろいろな試練を課すんじゃ。
人生、山あり、谷ありじゃ。
ワシらの祖先はの、
幾度となく、
そういう試練にあい、
それを乗り越え、打ち勝ち、
この国をのこしてくだすったんじゃ。
じゃから、わしらも、
祖先に恥じないように、
決してくじけず、あきらめず、
ひとりひとりがすこしでも
よろこびあふれる楽しい国に
近づけるように、
日々、努力していくのじゃ。
それが、日の本の国なのじゃぞ」
だから日本書紀は、奈良平安の昔から、我が国の史書として、一般の教科書としてずっと使われてきたのです。
古事記、日本書紀に限らず、書かれたものというものは、必ず書かれた目的を持ちます。
司馬遷の史記にはじまるChinaの史書は、すべて、現王朝の正統性を示すためのものです。
記紀も史書ですが、我が国では、天皇の正統性は血筋そのものであって、その血筋は各時代に明確ですから、あらためて正統性を主張する必要がありません。
ですから古事記においては、皇室を中心とした我が国統治の根幹が、すべて神々の命(みこと)を受けたものであること、すなわち「諸命以」であることを、そして日本書紀は、その目的が「我が国が庶民の一人ひとりに至るまで、誰もがみな、よろこびあふれる楽しい国を目指していこうという決意を込めて書いた史書になっています。
古代の日本人って、すごいです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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