←いつも応援クリックをありがとうございます。日本文化の持つ深さがわからないと、表面的な形ばかりにこだわるようになります。
実は、このように日本文化の表面的な形にばかりこだわって、その文化の根幹にある精神性を見失っているのが、昨今の汚鮮されたメディアなどによる日本文化の取扱いです。
冒頭の番組なども、その典型です。
俳句でたいせつなのは、相手の心への思いやりです。
その人が、どういう気持でその歌を詠んだのか。
テニヲハや、「何々なりけり」といった表現方法が問題ではないのです。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
本末転倒というお話です。
先日、たまたま食事の時間に点いていたテレビで、俳句のことをやっていました。
俳人の和服の女性が出てきて、キャストの方が詠んだ歌に上下のランクを付けて、その歌の言葉を入れ替えたり、表現を変えたりして、「こうすると、もっと良い句になります」と論評するという番組です。
俳人の方は好感が持てます。
しかし番組の構成がなってません。
あまりにも次元が低い。
番組の企画か、プロデューサーの感覚なのかはわかりませんし、知りたいとも思いませんが、せっかくの日本文化をまったくわかっていない。
番組の構成は、たとえばはじめに若い女性が野原の景色を観ている後ろ姿が出てきて、それを俳句にし、できた句の優劣を競うというものです。
俳句や和歌の楽しみ方は人それぞれとはいえ、あまりの情けなさに、日本の文化をいったいどこまでおとしめれば気が済むのかと、とても残念な気持ちになりました。
俳句を、単に五七五の形式と、言葉の技巧ばかりとしてしか認識していない。
他のことでもよくあるのですが、要するに形式(かたち)だけで、中身がまるでわかっていない。
韓流は、なんでも日本の真似をしたがりますが、毎度のこととはいえ、外観上の形だけです。中身がない。
もちろん、句に、うまい下手はあります。
子供の句と大人の句、素人の句と玄人の句では、やはりできが違います。
けれど、大切なことは心なのです。
つまり、詠んだ人が、どのような心象風景や、気持ちや思いをその歌に託したかが大事なのです。
その意味で、番組の構成が間違っているように感じました。
先にシーンを見せていますが、それは先にクイズの問題の答えを示しているようなものです。
先に答えを見せておいてから、問題を提示し、問題文の優劣を競っているわけです。
それではまるで俳句の意味がありません。
たとえば、3月20日といえば地下鉄サリン事件があった日です。
その映像を見せてから、
春の日に 救護 (95) に困る サリンまく
と五七五で詠んだら、それは俳句でしょうか。
違います。
これはただの年号の語呂合わせであり、せいぜい川柳です。
なぜかというと、
第一に、先に答えが示されている。
第二に、歌からのイメージの広がりがないからです。
俳句といえば有名な加賀の千代の
朝顔に つるべ取られて もらひ水
があります。
昔は、国民学校初等科の國語で誰もが習った歌です。
ある朝、井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶の所につるを巻きつけていた。
水を汲むにはその朝顔のツルを千切ってしまえば済むのだけれど、
なんだかそんなことをしたら健気な朝顔がかわいそうに思えて、
隣の家に水を貰いに行きましたといった句です。
朝というのは、いまも昔も出勤前の忙しい時間帯です。
その忙しい時間帯にあっても、女性らしい、やさしい心遣いを忘れない。
そういう人の心の持つやさしさが、実に自然な形で表現されています。
そして、最低でも、それだけのイメージが、このわずか12文字の短い言葉で説明されています。
つまり句というのは、俳句にせよ、和歌にせよ、その短い言葉自体は、いわばドアのようなもので、そのドアの向こうにある、素晴らしい世界を表現するものです。
そして実は、このことは、最近で言えばインスタの感動的な写真のシェアと同じです。
なぜシェアされるのかといえば、そこに感動と共感があるからです。
実際には、その感動写真の前後には、もっと様々な出来事があったことでしょう。
けれども、それをたった一枚の写真に凝縮する。
そうすることで、その場に居合わせなかった人にも、その感動が伝わる。
だからシェアされるのだと思います。
俳句は、デジカメもTwitterもインスタもなかった時代に、そうした感動や共感を、言葉だけで表現しようとしたものです。
思いや出来事を、長々と言葉を連ねるのではなく、短い言葉に凝縮したのです。
そして、百年以上経っても、いまだに共感できるものが、名作として、世に残っています。
加賀の千代女の上の作品などは、その一例です。
我が国における和歌の歴史は、とても古いものです。
古くは須佐之男命の歌に始まり(これが日本最古の和歌です)、7世紀には、広く庶民の間にまで歌の文化が広がりました。
これを収録したのが万葉集で、編纂は759年ですから、いまから1259年も前のことです。
そして、もともと和歌は五七五七七の31文字でしたが、それが五七五の上の句と、七七の下の句に別れる構造を持っていることから、そこから多人数で続けて読んでいく連歌が室町時代にはさかんになりました。
さらに江戸時代になると、五七五の上の句だけで連作をしていく俳諧連歌が生まれ、明治に入ると、今度は逆に五七五の単体だけのものが俳句として独立しています。
つまり、我が国の歌文化は、とても古い歴史を持つものです。
そして歴史を通じて一環しているのが、日本的「思いやりの心」です。
思いやりは、相手の心を察する文化です。
自分が良くなることではなく、誰かを助けたり、支えたり、相手の気持ちをおもんばかる文化です。
自分さえ良ければという思考は、上下の支配と隷属を生みます。
つまり人のものを奪う文化です。
思いやりの文化は、人に与える文化です。
奪う文化には、あたりまえのことですが、思いやりはありません。
逆に思いやりの文化には、人から奪うという思考はありません。
そして思いやりのことを、古い言葉で「明察(めいさつ)」といいました。
「お見事!ごめいさつ!!」の「めいさつ(明察)」です。
この明察が、我が国の憲法になったものが、604年の聖徳太子の十七条憲法です。
第11条に「明察功過」という語があります。
つまり相手の心を察することが、我が国では7世紀のはじめには憲法になっていたのです。
その察する能力を磨くために、歌は広く一般庶民の間にまで広がりました。
そして広がったことによって、一般庶民が詠んだ歌の数々が、我が国最古の歌集である万葉集に収録されています。
冒頭の番組の構成は、そうした日本文化の持つ思いやりとは対極にある構成です。
思いやりをもって察すべき心象風景を、先に答えとして見せてしまい、できた歌の優劣を競っています。
歌の優劣を競うことは、平安時代の歌会などでも行われていましたが、ぜんぜん違うものです。
どこが違うかというと、歌の言葉の使い方の優劣など、二の次、三の次でしかなかったからです。
表現の形式ではなく、その歌がもたらすイメージの広がりの多寡を競ったのです。
百人一首に、中納言朝忠の歌(44番)があります。
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに
人をも身をも恨みざらまし
簡単に意訳したら、「男女の関係が世の中からなくなれば、相手のことも自分のことも恨まずに済むのに」となるのですが、歌の心はまったく逆です。
「男女がさまざまに思い悩みながらも恋することを素晴らしいじゃないか」という心情を述べています。
そしてこの歌を、数々の恋を経由して、いまや老境に入った朝忠の歌です。
還暦を過ぎ、もともとあまりモテたという経験のない私などが、この歌を詠めば、ただの愚痴にしか聞こえないし、いい年して何をバカなことをと一笑されてしまいます。
しかし、モテ系の朝忠が詠んだのです。
今風にいえば、モテ男の中条きよしさんあたりが詠むようなものです。
印象・イメージはまるで違う。
この歌は、朝忠が詠んだから、意味があるのです。
同じ歌でも、誰が詠むかによって、意味が随分と違ってくるものです。
実はこの歌は、内裏の歌合せで、藤原基真の歌と勝負になった歌です。
おもしろいことに、この時代、勝負という言い方さえしていません。
番(つがひ)といいました。
藤原基真の歌は、
君こふと かつは消えつつ ふるものを
かくてもいける 身とや 見るらん
という歌でしたが、こちらも良い歌ですが、老境の身で、「まだいけまっせ」と詠んだ歌より、朝忠の歌が清らかです。
だから、当時も「清明なり」ということで、朝忠の歌の勝ちとなりました。
歌のテクニックではなく、歌の意味や内容が勝敗を分けています。
しかし、ここでいう勝敗も、上下や支配とはまったく異なるものです。
どこまでも、相互の歌の持つ思いや心の深さを察しあうものです。
なるほど、形の上では、勝負に似ていますが、勝ったからといって、相手を支配できるわけでもないし、どちらが上ということでもありません。
勝っても負けても、全力で出詠し、その経験を活かして、さらに一層の自己研鑽に励むためのものです。
こうした日本文化の持つ深さがわからないと、表面的な形ばかりにこだわるようになります。
実は、このように日本文化の表面的な形にばかりこだわって、その文化の根幹にある精神性を見失っているのが、昨今の汚鮮されたメディアなどによる日本文化の取扱いです。
冒頭の番組なども、その典型です。
俳句でたいせつなのは、相手の心への思いやりです。
その人が、どういう気持でその歌を詠んだのか。
テニヲハや、「何々なりけり」といった表現方法が問題ではないのです。
ところが日本人のような顔立ちをしていて、日本語を話し、日本国籍を持っているけれど日本人でない人たちには、そうした日本文化の根底にある察する文化、思いやりの文化がわからないようです。
彼らにとって大事なことは、どちらが支配するか、どちらが上かであって、上に立てば、下の気持ちや下の人の幸せなど、はっきり言ってしまえば、どうでも良いことです。
自分さえ贅沢ができれば良いと考える。
そうした精神構造のもとでは、思いやりなどというものは、一切関係なくなります。
ただ、相手が詠んだ歌に優劣をつけて、批判の対象にしたり、テニヲハばかりを沙汰します。
まったくわかってない。
このことは、心技体を重んずる日本武道が、半島系の人にかかると、体技心に変わってしまうのとよく似ています。
もともと日本武道は、神語に出てくる「たける」に由来します。
「たける」というのは、歪んだり斜めになったものを、竹のように真っ直ぐにすることをいいます。
そのために武があると考えるのが日本人古来の姿です。
だから、「ただ試合に勝てば良い」というのではなくて、厳しい修練を通じて、何よりも心を鍛え、何事にも動じない心を養うのです。
番組を観て、長年、俳句に親しんできた俳人の先生が、なんだかかわいそうに思えてきた次第です。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。
nezu3344@gmail.com

