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いまどきの日本では、いまこの瞬間のお金だけが「豊かさ」の象徴のように言われます。
けれど経済的豊かさだけが「豊か」であることにはなりません。
「蔵の宝より身の宝 身の宝より心の宝」というのは、武士の生き方そのものであったのです。

ヒメマスの稚魚
20180202 ヒメマスの稚魚
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 *****
樋口一葉といえば「たけくらべ」で有名な明治の女流作家です。
以前は五千円札にも顔が載りました。
明治28(1895)年当時、売れっ子作家になっていた樋口一葉は、東京・渋谷に住んでいたそうです。
その頃の渋谷というのは、いまのような繁華街ではありません。
東京市のはずれにある、さびしい土地で、貧乏長屋のあるところでした。
樋口一葉は、その渋谷の貧乏長屋に住んでいて、明治を代表する売れっ子作家だったけれど、とても貧しい生活をしていました。
本人の稼ぎは良かったけれど、親への送金が忙しくて、本人の生活費がなかったのです。
着る者も1枚しかなくて、その服を洗濯して乾すと、他に着るものがないから、腰巻き1枚ですごしていたそうです。
その頃の長屋といえば、土間+1部屋の平屋です。
入口の障子をあけると、裏庭まで見通せるつくりでした。
そんな長屋で、若い樋口一葉は、裸に腰巻ひとつで、たけくらべを執筆していたわけです。
それが明治の中頃の東京市民の普通の暮らしでした。


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そんな明治日本は、日清・日露の戦争を立派に戦います。
明治政府は、軍艦も、鉄砲も大砲も、基本、ぜんぶ日本国内で製造しました。
そのための大量の雇用も促進しました。
それでも戦費が足らない分は海外から資金調達しました。
世界中が、絶対に日露が戦えば日本は負けると見ていた中で、積極的に日本にお金を貸してくれたのが、2009年に倒産したリーマン・ブラザースでした。
さて話が脱線しましたが、ともあれ明治政府は、富国強兵を柱として、日本国内で軍需産業の育成を図りました。
雇用の確保を図り、鉄砲や軍艦を作りました。
軍隊にも人を雇い入れました。
そのために多くの人が職を得て、消費が活気づくようになりました。
その消費が文壇にもまわるようになり、日本は漱石や一葉など、世界に誇る文豪を輩出できるようになりました。
要するに、政府が積極的にお金を使うことで、日本経済そのものが活気づいて行ったのです。
近年の日本は、政治もメディアも、しきりに政府の歳費の切り詰めや、公務員のクビキリ、給与のカットなどを主張します。
しかし、公務員の給与カットや、大がかりなクビキリなどを実際に行うと、上に書いた明治という国家が力をつけ、経済力と国力を増していったことの、正反対の効果が起こります。
雇用が減り、国内に流通するお金が減るのです。
つまり、日本は、ますます貧しくなる方向に拍車がかかります。
民間が四苦八苦しているのに、公務員がいい給料をもらうのは許せない、というご意見は多いけれど、政府が公務員を粗末にしたら、国内景気はますます弱化するのです。
しかも粗末にされた公務員は庶民を粗末にします。
官が、質素になれば、庶民生活はもっと質素になる。
良いことなんてひとつもないのです。
もっとも、日教組に所属している教師などの給料を半分にカットしたり、彼らをクビにすることには大いに賛成ですが・・・。
話がますます逸れました。
えっと、樋口一葉です。
一葉が、大ヒット作「たけくらべ」を書いたのは、そんな日露戦争開戦の9年前のことです。
まだまだ日本が貧しかった時代のことです。
冒頭にも書きましたが、この時代、長屋に住む多くの人の着物といえば、一張羅(いっちょうら)です。
一張羅というと、いまではたくさん持っている衣類の中の、特別な被服くらいに思われていますが、この時代の一張羅は、いま着ている、その着物、一枚しか着るものがない、まさに一張羅でした。
一葉に限らず、男性なども、着ている着物と褌(ふんどし)を、を井戸端で洗濯したら、他に着るものがないので、素っ裸で、疎チン丸出しのまま、干した着物が乾くのを待ちました。
なにせ乾くまで他に着る者がないのです。
全国の人と富が集中する東京ですら、そんなです。
地方にいくと、もっと貧しくて、樋口一葉が、ちょうど「たけくらべ」の執筆をしていたころ、秋田県鹿角市(かずのし)の武士の家に生まれた、和井内貞行(わいないさだゆき)も、秋田県小坂町にあった小坂鉱山に勤務したのですが、住まいは十和田湖のほとりでした。
十和田湖は、お隣の青森県の湖です。
面積は61.1平方キロメートル。
日本で12番目の面積規模があります。

ヒメマス
ヒメマス

いまの十和田湖は、年間200万人近い客が訪れる東北有数の観光地です。
十和田湖で有名なのが、ヒメマスです。
ヒメマスの漁獲高では、十和田湖が日本屈指です。
ところが、和井内貞行が、十和田湖に住んだ頃には、十和田湖に魚は一匹もいませんでした。
鉱山技師だった和井内貞行は、
「この十和田湖に魚がいたら、
 このあたりの人たちは
 新鮮な魚を食べられるようになる。
 食うに困らなくなる」
と考えました。
そこでいろいろな人に相談をして十和田湖に魚を放してみました。
和井内貞行26歳のときのことです。
貞行は、はるか遠くの港まで買い付けにいって、最初は鯉(コイ)を600匹放したのです。
どこからも資金なんて出ません。
全部、自腹です。
繰り返しますが、着るものさえ、一張羅が普通だった時代です。
その時代に、一生懸命貯金をして、その貯金をはたいて、みんなのためにと自腹で鯉を買い、それを自分で山道を運んで、十和田に放したのです。
この頃、地元には、古くからの言い伝えがありました。
それは、
「十和田湖の神様は魚が嫌いじゃ。
 だから十和田湖には魚は住まねえ」
というものです。
だから土地の人たちからは、
「バチがあたる。
 たたりがあるぞ」
と言われました。
5年たちました。
鯉は十和田湖で大きく育ってくれました。
悪口を言っていた土地の人たちも、大喜びでした。
みんなで鯉を獲り、腹いっぱい食べました。
ところが、あまりにみんなが喜んで鯉を収穫したので、肝心の鯉が、湖からいなくなってしまいました。
ひどい話です。
十和田湖は、再び、魚のいない湖に戻ってしまいました。
和井内貞行
和井内貞行

それでも貞行は、また少しづつ給料を貯めては、いろいろな種類の魚を仕入れ、湖に放し続けました。
しかしどの魚も育ちませんでした。
12年後、38歳になった貞行は、小坂鉱山を辞めて、退職金で、十和田湖で魚を育てることだけに取り組むことにしました。
自分のお金でいろいろな種類の魚を十和田湖に放しました。
カワマス
日光マス・・・etc...
しかし、何年かかっても魚は育ってくれません。
和井内貞行は、ついにお金をつかいはたしてしまいました。
それでも貞行はあきらめませんでした。
借金までして魚を放し続けました。
ただでさえ苦しい生活です。
それでも、貞行はあきらめません。
貞行44歳のときのことです。
貞行は、ヒメマスの稚魚を買い、十和田湖に放しました。
ヒメマスは3年たつと、放した場所に大きくなってもどってくるという、噂を耳にしたのです。
この頃の貞行は、近所からは変人扱いされていました。
生活は乞食同然です。
家族はおかゆをすすり、家族全員一張羅で、継当てだらけのボロボロの服・・・それが服と呼べればだけど・・・を着ていました。
もう、あとに続く資金はありませんでした。
このヒメマスの稚魚が彼にとって最後のチャンスだったのです。
3年経ちました。
貞行は47歳になっていました。
ある秋の日、貞行は、今日はヒメマスたちは帰ってくるか、明日は帰ってくるかと、毎日、湖畔に立っていました。
昨日までは、ヒメマスの姿はありません。
「今日もだめかな」、と思ったそのとき、水面の下で何かが動いたそうです。
(まさか・・・・)
覗いてみると、なんとそこには、あの3年前に放したヒメマスの稚魚たちが、大きく育って帰ってきてくれていました。
このとき、和井内貞行は、呆然と立ちすくんでしまい、声も出なかったそうです。
ただ何も言わず、滂沱の涙を流していました。
それは、貞行が、ようやく十和田湖に魚を育てるという夢をかなえた瞬間でした。
最初の鯉(恋ではありません)に失敗してから、なんと22年が経っていました。
貞行は、魚を育てただけでなく、美しい十和田湖を全国に紹介もしました。
そして十和田には、自然とおいしいヒメマス料理を求めて、多くの人が訪れるようになりました。
和井内貞行は、自分を犠牲にしながら、人々の飢えから救うために、魚の棲まない十和田湖で魚を育て、十和田湖の観光の基礎を作った人です。
戦前の日本には、そういう「他人のために、あるいは公のために自分の人生のすべてを捧げる」という生き方が、たしかに存在していました。
それこそが日本の武士道です。
自分が豊かになるのではなく、「おほみたから」のために、自分を捧げる。
それが武士の「義」でした。
和井内貞行は、経済的にはとても貧しい人でした。
けれど、彼は多くの人に愛され、没後百年以上経ったいまでも、地域の人たちに愛され続けています。
いまどきの日本では、いまこの瞬間のお金だけが「豊かさ」の象徴のように言われます。
けれど経済的豊かさだけが「豊か」であることにはなりません。
「蔵の宝より身の宝 身の宝より心の宝」というのは、武士の生き方そのものであったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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