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20180111 増女
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「能面」が、ひとたび舞台の上に立つと、実に豊富極まりない表情を持ちます。
増女でいえば、うつむいて手が涙を拭くように動けば、まさに面が泣いているように見えるし、逆にすこし上向き加減になれば、晴れ晴れとした喜びの表情が浮かび上がります。
これほど自由自在に、かつ微妙に心の陰影を表すことができる面は、まさに世界で能面だけが達した世界です。

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お能について、まずはその字からお話したいと思います。
「能」という字は、実は「熊」から生まれた派生文字です。
「熊」という字は、大きく口をあけた動物の象形がもとになっています。
そこから動作を示す語となり、「ある動作をすること」や、そのための「能力」を示す漢字となりました。
いまでも「芸能」という言葉がありますが、これは「技術を真似る」という意味を持つ漢字の熟語で、要するに仮想現実の舞台をこなすのが、もともとの「芸能」の意味であったわけです。
「お能」が生まれるのは14世紀の南北朝時代ですが、それ以前の時代ですと、猿楽・田楽が有名です。
「田楽」というのは、田植えの際に景気づけと疲労軽減のために歌って踊る楽しみの芸能です。
「猿楽」は、もともとは軽業、手品、曲芸など多岐に渡る芸事全般を意味しましたが、その猿楽師集団の中に、奈良盆地の南部あたりで活躍する山田猿楽美濃大夫という人がいました。
この人が、伊賀国の生まれで優秀な清次君を養子にとり、この子が長じて演劇集団を引っ張る座長となってはじまったのが、いまに伝わる「お能」です。
その創始者の名前を、観阿弥清次(かんあみきよつぐ)といいます。
世阿弥は、その息子さんです。
永和元年(1375年)、室町幕府の三代将軍足利義満が、京都で観阿弥と世阿弥による猿楽を鑑賞しました。
彼らの芸にたいへんな感銘を受けた足利義満が、観阿弥・世阿弥親子を庇護すると、上流武士を中心に、お能への関心が一気に高まり、さらに都の公家社会との接点も生まれることで、観阿弥・世阿弥の親子は「お能」をさらに洗練させていきました。


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なかでも父の観阿弥は、「現在能」といって、もともとの猿楽に田楽のもつ曲舞の面白さを採り入れて、これをドラマ化させることに成功しました。
代表的なもののひとつにあげられるのが「安宅」という作品で、この作品は義経と弁慶の主従が奥州へ落ち延びようとしているところに、石川県の関所で、関守の富樫左衛門が一行を怪しみ、弁慶の機転によって難関を脱出する様子を描いた作品です。
この作品は、歌舞伎では「弁慶の勧進帳」として、特に七代目松本幸四郎の弁慶役が有名だったりします。
これを受けた息子の世阿弥は、「夢幻能」といって、主役をむしろ「神仙」の側に立て、「神仙の世界から現実世界を見るという構造を「お能」にもたらしました。
「羽衣」などはそのひとつで、天女が主役の「シテ」となって、生身の人間を脇役「ワキ」としています。
羽衣伝説といえば、静岡県静岡市清水区に伝わる三保の松原のものが有名ですが、他にも『近江国風土記』に滋賀県長浜市の余呉湖を舞台とするもの、『丹後国風土記』にも京都府京丹後市峰山町を舞台とするものが掲載されています。
なかでも『近江国風土記』の羽衣伝説は、我が国最古のものとされています。
この舞台で、特に大事な点は、
「羽衣を返したら、舞を舞わずに帰ってしまうだろう」と疑う白龍に、天女が、
「疑いは人にあり、天に偽りなきものを」と返すところです。
天に偽りがないこと、そしてそのことに感動して衣を返す白龍の姿は、常に公明正大・正直誠意を大切にしてきたひとつの日本文化の象徴ということができます。
「羽衣」で使われる能面は「増女」または「泣き増」と呼ばれる面が使われています。
「若女」という面が、ハタチ前後の女性なら、それよりもすこし年上の、気高く神聖な表情を持ち、すこし憂いを含んだ引き締まった顔立ちをしています。
世界中、どこの国や民族にも、面を着ける芸能は存在します。
そしてそのいずれもが、活き活きとした表情を持ちます。
一方、我が国の能の面は、人の顔立ちから表情を抜き去っています。
まさに「能面」という言葉が示す通りです。
ところがそんな「能面」が、ひとたび舞台の上に立つと、実に豊富極まりない表情を持ちます。
増女でいえば、うつむいて手が涙を拭くように動けば、まさに面が泣いているように見えるし、逆にすこし上向き加減になれば、晴れ晴れとした喜びの表情が浮かび上がります。
これほど自由自在に、かつ微妙に心の陰影を表すことができる面は、まさに世界で能面だけが達した世界です。
物理的には、本物の人の顔よりも、たとえば上の瞼が、下の瞼よりもかなり出っ張って造られていたり、下の唇がごくわずかに前に出ているとかいったことによって、顔の上下運動などによって、独特の表情がかもしだされるように工夫されているのだということになるのですが、私にはむしろ、それはまるで面が命を持ったようにさえ見えます。
さて、江戸時代には、武士は「お能を観るもの」とされていました。
歌舞伎や芝居小屋には、武家は入るものではないとされていたのです。
このことは、主人となる武士だけでなく、その家の妻女や子にも、ある意味、徹底されていました。
これには実は理由があって、全国各地、かなり方言が強かったのですけれど、武士は、江戸城内において、あるいは学問所において、そんな地方の武士たちと互いの意思疎通を図らなければならなかったわけです。
そこで共通語の必要が生まれ、その共通語に用いられていたのが、実は「お能言葉」でした。
つまり、「お能」は、単に武家社会によって庇護された芸能文化というだけでなく、実は、標準語としての武家社会の共通の文化だったわけです。
そんなことにも思いを寄せながら、お能の舞台を鑑賞できたら良いなと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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