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←いつも応援クリックをありがとうございます。皆様学校で、何の疑問も持たずに「当用漢字」を習ったことと思います。
実はその「当用漢字」は戦後に誕生し、GHQによる日本破壊工作の一環として生まれたものであると申し上げたら、どのように感じられるでしょうか。
以下は今週の月曜日に発行した「ねずさんの有料メルマガ」に書いたものの一部です。

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◆【お知らせ】◆
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2月18日(日)18:30 第48回 倭塾公開講座
3月10日(土)18:30 第24回 百人一首塾
3月24日(土)13:30 第49回 倭塾公開講座
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「当用漢字」は、GHQの指導に基づき、昭和21年11月5日に国語審議会が答申し、同年11月16日に内閣が告示しました。
要するに戦後の占領政策の一環として誕生しました。
もともとは、日本占領時に、日本精神弱化のために日本の公用語を英語にしてしまおうという動きもあったのですが、日本には1億からの人がいるし、日本人が英語が堪能になって逆に文化侵略をしてくるのも恐ろしい(笑)ということから、日本語そのものに手を加えようとして実行されました。
はじめに日本語の文章で使用頻度の高い1850字が「当用漢字表」に、「さしあたって用いる文字」として選ばれました。
そして実は、これによって日本人は國語文化の大切な部分を失いました。
たとえばいくつか例をあげますと、わかりやすいのが礼儀作法の「礼」という字です。
「礼」は、もともとは「禮」と書きました。
字を見たらわかりますが、「禮」は「示(しめす)へん」に「豊(ゆた)か」です。
つまり、おじぎをしたり、お礼を言ったりする礼というのは、相手にわかるように、はっきりと豊かにそれを体の動きで示す、だから「禮」だったわけです。
ところが、それが「礼」という字になると、いったいなんのことだかわからなくなる。
学校の「学」に至っては、ものすごく重要な文化が失われました。
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もともと「学」は、「學」と書きました。
「へん」のところが複雑な書体になっていて、「X」が上下に二段並んでいますが、これは人の手で、両側にあるのが大人たちです。
つまり「學」という字は、複数の大人が、みんなでひとりの子を立派な人にするために「引っ張り上げる」という意味を持つ漢字であったわけです。
ところがこれが「学」になると、むしろ「子」が主体で、自力で学ぶことが「学」というように錯覚します。
要するに、教育者の側が子のレベルを引っ張り上げるというのが、もともとの「學」、子が自力で学ぶというのが、新字体の「学」です。学ぶ主体が逆なのです。
そもそも「教える」という字も違います。
昔は「敎」と書きました。
この字は、上にある「X」の部分が、大人を意味します。その下に子がいます。
そして、つくりの部分は、右手で殴ることを意味する象形です。
要するに、子の成長と未来に責任を持っている大人が、立派な大人になるように子を殴りつけでも成長させるというのが「敎」という昔の字なのです。
ところが新字体の「教」になりますと、老獪な老人が子を殴りつけるという字体になっています。
要するに子の未来に責任があるわけではない狡猾で老獪な老人が、若者をカタに嵌(は)めて言う通りにさせて自己の利益を図るというのが「教」という漢字です。
責任の所在の有無によって、意味が逆転してしまうのです。
Korean社会は、いまもアポジと呼ばれる60年安保を仕掛けた反日主義の老人が在日社会を牛耳り仕切り、若者たちを操って自己の利益を追求しているといわれていますが、まさに新字体の「教」を地で行く社会になっているわけです。
我が国の教育も、ですからもともとは「敎育」です。
この成長と未来に責任を持つ大人が、子を一人前にするために子を殴りつけででも育(はぐく)み育てるのが「敎育」であったわけです。
「教育」と「敎育」では、意味が違ってしまうのです。
要するに、使われる漢字が新字体と呼ばれる、別な字になることによって、実は、意味だけでなく、社会道徳や慣習まで影響を受けてしまうわけです。
漢字は、もともと異なる言語の人たちが、漢字の持つ意味によって、文字でコミュニケートするためのツールとして発達したものです。
ですから漢字は、その文字の持つ意味によって、様々な使われ方をします。
たとえば古事記では、天照大御神(あまてらすおほみかみ)が天岩屋戸(あめのいわやと)にお隠れになったとき、世界が闇に閉ざされて、そこで「万妖悉発」と書いています。
これで「よろずのわざわひ、ことごとくおこる」と読み下すのですが、ここで「わざわひ」という大和言葉に、「災(わざわ)い」ではなく、意図して「妖」という字を用いているわけです。
「妖」という字は、女性が体をくねくねさせて男性を誘惑する姿をあらわす漢字です。
つまり、暗闇の中で、女性がくねくねと体をくねらせて男性を誘惑するようなことを、古事記の作者は「わざわひ」だと断じたのです。災害が起こったのではないのです。
このことと対をなす行動として、次に天宇受売(あめのうずめ)の岩屋戸の前でのダンスが描かれています。
そこから古事記は、天宇受売のダンスが、決して怪しい男性を誘惑するようなエロチックなダンスではない、ということを、明快に表現しているわけです。
ところがそういうことをちゃんと読まないと、あたかも天宇受売が「ちょっとだけよぉ〜」と、まるでヌードダンサーのような怪しい踊りを踊ったようにとらえられてしまい、古事記を読み間違えてしまいます。
漢字の意味を理解することは、大事なことなのです。
実際、よく使われる「当用漢字」が幼年教育に採り入れられることによって、現実に我々日本人は、日本的な精神性の大切な部分を失うに至ったということができます。
「禮」という字を子供に教えるのはむつかしいという人もいるようですが、子供というものは、むつかしい字であっても、意味がわかれば、それなりに吸収するものです。
昭和30年代のことですが、ある子は幼稚園に市営バスで通園していました。
乗るバスは「西循環」という市内西部を循環するバスです。
いろいろな行き先のバスが次々とやってくる中、その子は、ちゃんと「西循環」という漢字を理解して、間違えずに毎日の幼稚園の行き帰りにバスに乗っていました。
しかもその子は、自分の乗るバスの行き先の漢字を覚えて、ちゃんと紙に書くこともできたそうです。
大人がちゃんと「學(まな)ばせればできる」のです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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