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日本人にとって、いちばんたいせつなものは「大和魂(やまとだましい)」だとよく言われます。
では、その大和魂というのは、いったいいかなるものなのでしょうか。
戦争で勇敢に戦うことでしょうか。
それとも、武道などの試合に勝つことでしょうか。
あるいは正論を述べ、政治的に対立し、いがみあいをすることでしょうか。
いずれも違います。
我が国は、天皇が民を「おほみたから」とする「知らす国」です。
その「知らす国」を護り育くむご先祖伝来の魂の働きのことを大和魂というのです。
どこの国においても、国家最高の存在は、王、皇帝、大統領、書記長など、名称がどうあれ、それらはすべて、ありとあらゆる権限を持つ国家最高の権力者です。
「権限」を持つ力が「権力」です。
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本来、「権限」というものは、常に「責任」とセットになるべきものです。
「責任」があるから「権限」もあるのです。
ところが、国家最高の存在が「権限」を持った「権力者」であると、その「権力者」は、絶対に責任をとりません。
なぜなら責任を追求するための最高責任者が、最高権力者なのです。
自分の罪は、誰か他人に負わせて、自分では決して責任を取らない。
それがどれだけおそろしい結果を招くことか、それは歴史が証明しています。
これは言い方を変えると、最高に無責任な者が、最高権力者になっているということです。
これが異常な社会システムであることは、少し考えたら誰にでもわかることです。
我が国は、その弊害をなくするために、国家最高権力者の上位に、国家最高権威を起きました。
それが天皇です。
天皇に権力はありません。
けれど、国家最高権威者として、民衆を「おほみたから」とします。
これによって、権力者は、自分よりも上位にある天皇の「おほみたから」を預かる立場となります。
自分が最高権威であり、かつ最高権力者であれば、その下にある民は、権力者の私有民です。
これは言い方を変えれば、隷民である、ということです。
もっといえば、民衆は権力者の奴隷です。
奴隷というのは、人ではありません。
ただの「モノ」であり、権力者の私物です。
かつて台湾で、占領軍として乗り込んできた国民党が、台湾の市庁舎の上に設置した重機関銃を乱射して、台湾の民衆を虐殺したことがありました。
あるいは天安門事件で、戦車に轢き殺された学生は、1万人に至るとも言われています。
どうしてそのような非道を公然と行えるのかといえば、台湾の市庁舎前に集まった民衆も、天安門広場に集まった学生も、権力者からみて「人」とは認識されていなかったからです。
そこに集ったのは、ただの「モノ」であり、権力者の私物なのです。
ですから権力者にすれば、自分に逆らうモノは、機関銃で撃ち殺そうが、戦車で轢き殺そうが、権力者の勝手なのです。
我が国は、こうした事態を防ぐために、権力者よりも上位に天皇という存在を置き、権力者は、その天皇の「おほみたから」が、豊かに安全に安心して暮らせるように面倒を見ていく立場としたのです。
それが「シラス(知らす、Shirasu)」という我が国の形です。
そのカタチのもとに、我が国の民衆はあります。
ですから我が国の民衆は、ひとりひとりが、すべて天皇の「おほみたから」です。
ひとりひとりのすべてが「おほみたから」なのですから、君も「たから」、私も「たから」です。
だから互いを「たから」と認めて、少しでも他の「たから」となっている人々のために、自分にできる最大のことをしようとします。
これが「和」の心です。
そしてそのような、ご先祖から綿々と続く我が国のカタチを護る心を、大和魂と言います。
人々は、その大和魂のもとに、民衆のひとりひとりが愛と喜びと幸せと美しさを求めて生きることを目指したのです。
そうではなく、権力者が領土領民を私有することを、我が国の古い言葉で「ウシハク」と言います。
「ウシ」は主人、「ハク」は大刀を腰に佩(は)く、というように、自分のものにする、私有化する、私物化することを言います。
統治のためには、この「ウシハク」は必要です。
そうでなければ、人々の中には、必ず「自分さえ良ければ、他人などどうなったってかまわない」と勘違いする者が生まれるからです。
しかし、その「ウシハク」権力者が、国家の最高の存在となると、無責任体勢が生まれます。
ですから我が国では、古来、ウシハク権力者の上に、知らす存在である天皇を置いたのです。
そして天皇の存在によって、我が国の民衆は、「ひとりひとりが天皇の「おほみたから」という自由と平等と博愛を育むことができたのです。
先日の天皇誕生日に、8世紀の聖武天皇の時代にキリスト教の神社である「大避神社」が出来たことを述べました。
大避というのは、こう書いて実は「ダビデ」と読みます。
つまり「大避神社」というのは、「ダビデの神の社(おやしろ)」という意味です。
京都の祇園祭も、実は「シオン祭り」であり、あれは失われたアーク(聖櫃)を運ぶことを再現したお祭りだと言われています。
我々現代日本人が勘違いしやすいのは、日本には神社があり、仏教のお寺があり、キリスト教の教会があり、イスラム教の礼拝堂があり、それぞれが神社・お寺・教会・礼拝堂などと言葉を分けているために、なんだか古来、別々なものとされてきたように、つい思い込んでしまうことです。
これらはすべて、英語に直したら「Church」です。
日本でも同じように、もともと、いかなる神様であれ、仏様であれ、それら神様をお祀りする施設を「神様のお社(やしろ)」という意味で「神社」と呼んだのです。
ですから神社は、もともと多種多様な神様をお祀りする施設全般のことを言ったのです。
それを明治政府が、欧米諸国のキリスト教に倣って、我が国の国教として神社神道を置こうという政治的な無茶をしたから、なんとなくいまの日本では多くの人が、神社神道は宗教だというように思い込むようになってしまったのです。
全然違います。
神社というのは「神のお社(やしろ)」であって、宗教宗派を問わず、その礼拝のための施設のことを言うのです。
それはちょうど英語があらゆる宗教施設のことを、単に「Church」と呼ぶのと同じです。
日本人は、宗教に寛容とか言いますが、なるほどそのような側面もありますが、実は、もともと神社というのは、そういうものであったのです。
少し考えたらわかることです。
神社は、それぞれに御祭神が異なります。
これは仏教的な言い方をすれば、神社ごとに御本仏が異なるということです。
キリスト教的な言い方をするなら、それぞれの神社ごとにそれぞれ一神教なのです。
つまり現代風の言い方をするならば、神社・お寺・教会・礼拝堂など、すべてを、もともと「神々のお社(やしろ)」、つまり「神社」と呼んでいたわけで、どうしてそのようなことが日本で可能であったのかといえば、我が国が知らす国であり、民衆がそれぞれの施設を通じて、愛や喜びや幸せや美しさを得ることができるのならば、それらは国家最高権威のもとで、すべてOK(ALL OK)とされてきたということにほかならないのです。
つまり日本人の宗教に関する寛容性も、実は、もとをたどれば、天皇の知らす国であるということに依拠するのです。
そしてそれら寛容性も含めて、「おほみたから」である人々、それぞれが、豊かに安心して安全に暮らすことができ、それぞれがそれぞれの人生を通じて愛と喜びと幸せと美しさを求め続けることができるようにしてきた、この大昔からご先祖たちが築いてきてくれた日本という国のカタチを護り抜く心こそ、まさに大和魂なのです。
つまり要約すれば、
「大和魂とは知らす国を護る魂」
ということになるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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