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←いつも応援クリックをありがとうございます。天長節(いまは天皇誕生日)は、今上天皇のお誕生日というだけでなく、実は「西洋と東洋の文化の融合を象徴し、これを祝う日」>という意味を持ちます。
そしてそれが1200年以上の歴史を持って毎年続けられてきているのです。

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1月20日(土)18:30 第22回 百人一首塾
2月8日(木)18:30 第23回 百人一首塾
2月18日(日)18:30 第48回 倭塾公開講座
3月10日(土)18:30 第24回 百人一首塾
3月24日(土)13:30 第49回 倭塾公開講座
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12月23日は天長節で、天皇のお誕生日の祝日です。
もともと旧暦では、人は全員1月1日にひとつ歳をとるとして計算していましたから、たとえば大晦日に生れた赤ん坊は、生れたときが1歳で、翌朝には、たった二日目にして2歳とカウントしていました。
その旧暦の時代に、在位中の今上天皇のご生誕が祝われるようになったのですが、これは8世紀の唐に倣(なら)ってもたらされた祝日です。
もともとのはじまりは、唐の玄宗皇帝が誕生日を天長節として祝ったのがはじまりで、これは西洋からシルクロードを経由してもたらされた景教(けいきょう、キリスト教)が唐にもたらされたことに由来します。
景教は、キリスト教の「ネストリウス派」を信仰するもので、実は西洋では5世紀に異端とされて、西洋を追い出されることになりました。
そして景教は西アジア・中央アジアへと流れ、そして7世紀に阿羅本(あらほん)という人によってChinaにもたらされています。
そして玄宗皇帝の保護を得て、唐全土で大流行しました。
この勢いがそのまま日本に飛び火して、775年の第49代光仁天皇のときに、我が国でも天皇の誕生日が天長節として祝賀の日となり、またこの時代には景教の教会が建てられたり、あるいは光明皇后によって無償の福祉医療センターが築かれたりもしています。
(京都の祇園祭も景教伝来とのつながりを指摘する人もいるようです)
そして8世紀以降、我が国でもずっと毎年、今上天皇のお誕生日を祝賀の日として祝い続けてきているわけです。
従って、天長節(いまは天皇誕生日)は、今上天皇のお誕生日というだけでなく、実は「西洋と東洋の文化の融合を象徴し、これを祝う日」という意味を持つわけです。
そしてそれが、1200年以上の歴史を持って毎年続けられてきているのです。
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戦前には、明治6(1873)年に太陽暦が採用されたときに、太政官布告によって天長節は国家の祝日となりました。
この国家の祝日は、終戦後の占領憲法施行のときに、あらためて祝日法として生まれ変わり(昭和23年)、これに先立って行われた「希望する祝日」の政府の世論調査では、「新年」に次いで「天皇陛下のお生まれになった日」が、ほぼ1位と同票で第2位となり、祝日として復活しています。
当時の日本はGHQの占領下にありましたが、それでも当時の日本人の民意は、天皇の存在によって私達が隷民にならなくて済んでいること、私達が言論の自由その他、人として生かさせていただいていれるのは、天皇という国家の最高権威によって、民衆が「たから」とされているということを、よほど共産主義等に「かぶれ」たごく一部の人を除いては、普通の日本人なら、誰しもが常識として知っていたのです。
ちなみに「唐」の話が出てきましたので、すこし脱線して「中国人」という種族のことをお話します。
Chinaにおける唐の時代は、西暦618年から907年まで289年続いた時代ですが、この時代の唐に「中国人」はいませんでした。
どういうことかというと、居たのは「唐人」であって、「中国人」ではないのです。
このことを戦後の私達はものすごく誤解しているのですが、同様に唐のあとに起こった「宋」の時代なら、そこにいたのは「宋人」であって中国人ではありません。
「宋」のあとの「元」の時代なら、モンゴル人です。
ですから元寇のとき、福建省あたりの兵力(元の南宋の兵たち)が、日本に攻めてきていますが(弘安の役)、その人たちは、中国兵ではなくて、モンゴル兵です。
元のあとには「明」、明のあとには「清」が王朝を形成していますが、同様にそれぞれ「明人、清人」であって、中国人ではありません。
では、中国人というのは、いつ誕生したのかというと、中国という言葉が、いま台湾にある中華民国を略したものであるならば、誕生したのは昭和20(1945)年10月、それが中華人民共和国のことならば誕生したのは昭和24(1949)年です。
「いやそんなことはない。中国語を話し、漢字を使う漢民族がいるではないか」と思われる人がおいでと思いますが、それは違います。
だいいち、現代Chinaにおいても、言語がさまざまです。
紙幣さえも5ヶ国語で金額が書かれているくらいです。
私達日本人は、日本が古くて長い歴史を持ち、共通の言語でひとつの日本文化を形成してきているから、それがあたりまえのことくらいに思っていますが、世界は違うのです。
早い話、仮に日本が清国に征服されて日本語が禁止となり、公文書がすべて清国の言語となり、役人も全部清国人になったとします。
こうなると、2〜300年のうちに混血が進み、気がつけば純血種の日本人などいなくなってしまいます。
そして全員が、清国人となります。
想像もしたくない話ですが、これが現実になっていたのが、実はChinaの歴代王朝の興亡史です。
要するに「中国人という民族自体が20世紀まで存在しない」のです。
このことは私も宮脇淳子先生から教えて頂いて、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けたことです。
けれど考えてみれば、まさにその通りです。
そもそも「中国人」という呼び方も、「日本人」という種族がいたから、彼らはこれに対抗して自分たちを「中国人」と呼び始めたのです。
彼らは「中国4千年」とか「中国5千年」とか言って、日本人よりも前から中国人がいたように装っていますが、実はそれ自体が、「古いほうが正統性がある」という、彼らなりの「競争意識」の産物なのです。
もちろん戦前にも大陸に人がいました。
しかし彼らは、王朝が交代するたびに、風俗も言語も習慣も変わってきました。
そのような人たちを呼ぶ適切な言葉がないので、古代の「秦の始皇帝」の時代の「秦(China)」という名で、世界中が彼らのことを呼んでいるのです。
日本に対抗意識を持ったのは、Chinaばかりではありません。
アメリカも同じです。
GHQは、なんとかして日本を破壊しようとしました。
そこでGHQが行ったことが、昭和23(1948)年のA級戦犯とされた7名の烈士の処刑です。
彼らはこれを、当時の皇太子殿下(いまの今上陛下)のご生誕の日、つまり次の天皇の誕生日である12月23日に、意図して行いました。
戦後、米国は大東亜戦争を太平洋戦争と読み替え、「自由と民主主義の勝利」と宣伝してきました。
しかしその結果をみれば、戦後にスターリン・ソ連を育成し、Chinaに毛沢東を育成し、彼らによってすくなく見積もっても2億人以上の無辜の民が殺害されています。
果たして米国は戦争に勝ったのでしょうか。
いまにして思えば、この戦争のはじまる前に、もし、米国が蒋介石を支援せず、米国がす早く仲裁に入っていたらどうなっていたか。
日蒋が戦えば得をするのは共産陣営です。
このことは当時共和党のフーバー元大統領が明確に指摘し続けたことでした。
にもかかわらず、ルーズベルトは共産主義の危険性が判らず、日本を憎み、ソ連のスターリンと仲良くしました。
結果、ルーズベルトは、資本主義国家同士の闘争を狙ったスターリン戦略にまんまとしてやられ、115億ドルもの巨額な戦費を騙し取られたあげく、多くの米国人の生命の犠牲をもたらしています。
そして大東亜戦争のあと、共産主義陣営は大躍進し、周辺国への大侵略を開始しています。
結果からみれば、これでは米国は何のために戦争したのか、わからない。
結果として、米国は東亜における植民地はぜんぶ失いました。
そして共産主義との冷戦を招きました。
さらには共産主義国内での大量虐殺を放置しました。
さらに昨今では、米国国土をChina人たちに蹂躙され始めています。
米国はまる7年間、日本を占領しました。
この占領行為も、国際法上の違法行為のオンパレードです。
そもそも占領統治にあたっては、軍はその国の法律、習慣、宗教等を尊重しなければならないのに、こともあろうに憲法を押しつけ、東京裁判をひらき、なんとありえない事後法によって被告人を裁くという暴挙をしています。
これは米国が、正義ではなく、ご都合主義の力に頼る国であるということを、世界に晒した結果になります。
さらにいえば、日本が戦前アジアにおいて果たした役割を、戦後、米国は丸抱えにしましたが、それによって米国が支払ったコストが、どれだけ高いものについているか、もし、日本を支援していれば、そのコストは、すべて日本が負担していたことを考えれば、米国は、結果としてみれば、大損をしているわけです。
それもそのはずです。
結果として彼らは、自分たちがキリスト教国でありながら、大統領さえも神に誓をたてることで、大統領としての権力を発揮できるという国でありながら、東西文化融合の象徴である天長節を、東西文化融合の破壊の日として報復的処刑の実行の日としたのです。
彼らのその後の失敗は、ご神意というべきものであったかもしれません。
いづれにせよ、東京裁判というものが、戦勝国によってなされた壮大な茶番であったとことは、もういい加減、日本人の常識として定着すべきことです。
※この記事は2009年以来、毎年少しづつ切り口を変えながら毎年掲載しているものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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