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12月23日(土)18:30 第21回 百人一首塾
1月6日(土)13:30 第47回 倭塾 公開講座
1月20日(土)18:30 第22回 百人一首塾
2月8日(木)18:30 第23回 百人一首塾
2月18日(日)18:30 第48回 倭塾公開講座
※2月の倭塾・百人一首塾の開催日が変更になっています。
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最近、坂本龍馬がなぜ全国を自由に飛び回ることができたのかの講演を幅広く宣伝されている方がおいでになります。
こうした問題意識を提示されることは、とても良いことだと思います。
人が動くにはお金がかかります。
交通費もあれば、宿泊費、旅先での食事代。
霞を食べて生きるわけにはいきません。
しかも龍馬の場合、亀山社中や海援隊などで人を雇っています。
当時は住み込みで人を雇いますから、彼ら部下の食費や手当だって馬鹿になりません。
そうした資金を、龍馬はどうやって確保していたのか。
そのように考えれば、彼が英国人のグラバーというスポンサーを得ていたこと。
そしてグラバーがお金を出すには、さらに大きな利益期待がグラバーの側にあったということが容易に推察できるわけです。
そのグラバーは、慶応元年(1865)にミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺を薩摩に売っています。
龍馬はこの武器一式を、薩摩から長州に提供させることに成功しています。
もちろん龍馬の人間的魅力もあったことでしょうが、実は、幕府との戦争を前にした長州にとって、この話はとても助かる良い話であったわけです。
ところが不思議なことに、この前の年に幕府が同じ銃をフランス経由で買い付けているのです。
薩長も幕府も、実は同じ装備で戊辰戦争を戦っています。
では、それらの出処はどこかといえば、なんと米国の南北戦争の南軍の装備です。
南北戦争は北軍が勝ち、南軍の持っていた装備一式を押収しています。
これは、ただ捨てるのではもったいない話です。
どこかに売って処分しなければならない。
そこで米国は、薩長に英国経由で、幕府側にフランス経由で同じ装備を売ったわけです。
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米国の南北戦争の終結は1865年4月ですが、その前年の1864年9月の段階で、南軍の本拠地であるアトランタが陥落し、事実上ここで勝敗が決しています。
それ以後も戦いは続き、結局翌年4月に終戦となるのですが、この半年間は、いわば残敵掃討期間であって、我が国の源平合戦でいえば、いわば平家の落人刈りみたいなものです。
つまりアトランタの戦いで、南北戦争は勝敗が決し、南軍から大量の武器弾薬、軍服等が押収される。
その処分先として、日本で美味しい商いをしたわけです。
押収装備は、いまどきの古着の「キロいくら」みたいなもので、仕入れはタダ同然です。
これを売るために、紛争を煽る。
ついでに武器教官まで付録に付けてあげる。
このことは、とても良い商売であると同時に、私たちに大切なことを教えてくれます。
まず武器を売るためには、紛争が必要です。
そして「どうしても勝ちたい」と危機感があることが必要です。
さらに武器の代金を支払ってもらうための金(カネ)が必要です。
逆にいえば、相手に金(カネ)があれば、そこに武器を提供し、紛争と危機感を煽れば、必ず戦いは大きくなり、いわば「骨の髄までしゃぶりとる」ことができるわけです。
そのことを書いたのが5年前のこのブログで、2012年3月の「明治維新と南北戦争の不都合な関係」の記事で書かせていただきました。
また、同じお話を、拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』の第一巻にも掲載させていただいています。
当時はだいぶ衝撃的な内容であったようで、随分と批判もされましたが、結局その後、いろいろな方が研究して、結果としてこの「ねず説」が正しい歴史と、いま、なりつつあります。
歴史というのは、因果関係の説明であって、単に年号や事件名を暗記することではありません。
たとえば2009年に民主党内閣が誕生し、鳩山由紀夫氏が総理に就任しましたが、ここで大切なことは、2009年9月16日総理就任という「時点」ではなくて、なぜそのような売国内閣が誕生するに至ったのか、そしてその内閣によって何が行われ、その結果としてどれだけ日本の国益(日本人自身の利益のことです)が失われ、それが現代にどのような影響をし、私たちの未来にどのような影響を及ぼしたのか。
そのことを明確にすることが「歴史」であり、すぎた過去の時代のそうした流れを学ぶことで、今に役立てようとするのが「歴史を学ぶ」ということです。
その筋書きをどのように描くか。
どのように描いたら、もっとも合理的な説明になるか。
それが歴史家の仕事なのですが、実は、歴史は、筋書きを明確にすればするほど、必ず批判がつきまとうものです。
「いや、そうではないということもできる」
という批判です。
そうした多様な批判を経由することで、歴史はまさに生きた学問になるのだと思います。
ところが残念なことに、そこに政治が働くことがあります。
これは政治というよりも利害なのですが、ひとつのストーリーが描かれることによって既得権を得ていた層は、新しい説が出ると、これを徹底してつぶそうとすることがあります。
この潰し方というのも、きわめて特徴があって、最初は否認、次に怒り、3番目に取引、4段階目に悲嘆と絶望の抑鬱、5番目が受容です。
第1段階:否認と孤立(denial & isolation)
第2段階:怒り(anger)
第3段階:取り引き(bargaining)
第4段階:抑うつ(depression)
第5段階:受容(acceptance)
なんと、これはキューブラーロス氏の死の受容の5段階モデルと同じ形になっているからおもしろい。
もっとも日本に住んで日本人のような顔をして日本人でない人たちの場合、第二段階の「怒り」が、むしろ「恨み」となって、執拗に嫌がらせを続けるという傾向があるようで、こうしたところにも民族性がよく現れているのかもしれません。
坂本龍馬は、私も大好きな歴史上の人物のひとりですが、実は坂本龍馬が歴史上高く評価されるようになったのは、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が発表された昭和40年代以降のことです。
この小説は当時のベストセラーとなり、さらに昭和43年に北大路欣也主演でNHKが大河ドラマ化すると、まさに時代の英雄としての龍馬像ができあがりました。
また、小山ゆうのマンガ「おーい竜馬!」も、たいへんなヒット作となっています。
実際にはそれまでは、坂本龍馬を知る人も少なかったし、もちろん一部には高く評価していた人たちもいましたが、産経新聞で『竜馬がゆく』の連載がはじまった昭和37年頃には、まだ明治生まれの人たちがたくさんいましたし、明治維新から数えてもまだたったの90年であったわけです。
実際に幕末明治維新を知る人たちからすると、尊皇攘夷の志士たちというのは、(気を悪くされる方がおいでになるかもしれませんが)いまでいうテロリストのようなもので、暴力的で平気で非道を働き、町中で斬り合いはするし、宿泊費や食事代を平気で踏み倒すし、強盗は働くしと、実はあまり評判の良い人達ではなかったという側面もあります。(もちろんすべてではありません。明治の元勲として活躍した人たちの多くは尊敬された人たちです。)
とりわけ龍馬の場合、薩長側に銃器を与えたことで、戊辰戦争を刀槍の戦いから、銃を使う悲惨な殺し合いに変化させるという結果を招いたことで、実はこれを嫌う人も多かったのです。
だからといって、龍馬を否定する必要はありませんし、薩長同盟を成立させ、また船中八策によって新しい時代の基礎を築いたこと、日本初の新婚旅行の実施者であるなど、幕末激動の時代を生きた人物史としては非常に興味深いところをたくさん持っているし、彼の持つ進取の気鋭は、見習うべき点がたくさんあると思います。
その龍馬について、もうひとつ、実は大事な視点が昨今抜けてしまっていることは非常に残念に思うことです。
幕末の志士としての側面ばかりが強調されていますが、彼はもともと「土佐勤王党(土佐勤皇党)」の出身です。
このことは、幕末の動乱が「尊王攘夷派と開国佐幕派の戦いだ」とする司馬史観や、戦後の歴史学のなかでは、非常に説明のしにくいことであるため、いきおい無視されがちなのですが、実は彼が「勤王の志士」であったということは、時代を考える上において、非常に大切なことといえます。
といいますのは、実はこのことと、昨今の平成天皇(今上陛下)のご譲位のことが関係しているのです。
今上陛下はご譲位に先立って、光格天皇の事績の調査を2006年にお命じになっておいでになります。
その光格天皇というのは江戸時代中期の天皇なのですが、同時に、現時点における最後のご譲位を実施され、かつ太上天皇、つまり上皇となられた方です。
つまり今上陛下は、光格天皇と同じ道をいま、お進みになれれているのです。
光格天皇の時代というのは、江戸中期で、まさに国が安定し、江戸泰平の時代となっていた、江戸時代がもっとも江戸時代らしい雰囲気をもった時代でした。
ところがこのことが、政治権力の中心地であった幕府内では、政治の腐敗を招いてもいたのです。
本来幕府というものは、天皇のもとにあって、天皇の「おほみたらか」である民たちが、豊かに安心して安全に暮らせるように最善をつくすことが使命です。
そのための政治の出張所として、幕を張った将軍の御在所だから「幕府」といいます。
ところが不思議なもので、時代が安定してくると、いわゆる危機感がなくなってきて、幕府内に内向き思考と内部の出世競争と腐敗が生まれます。
結局組織が自己の保身と、出世欲の巣窟になってしまって、肝心の「民を守る」ことがおろそかになってしまうのです。
これは昨今の上場企業にもいえることで、高度成長期に、「サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ」として、同期入社組のなかでの出世競争しか頭になくなったような人たちが組織の頂点に立つようになると、組織の目的が、たとえば企業なら、いかにお客様に喜んでいただくかとか、社員を家族として慈しむとか、会社が社会に役立つために何が必要かだとか、会社の利益をあげるために必要なことは何かとか、そういう基本的なことがおろそかになり、組織内部の権力争奪戦だけが組織の目的になってしまうのです。
こうして会社の頭脳であるはずの技術畑の人や、製造現場で特別な技術をもっている人、あるいは凄腕の営業マンなど、仕事そのものに打ち込む人よりも、目が二つとも上についていて出世のことしか頭にないような人が組織幹部として要職を占めるようになります。
すると、能力を持った人は、会社で結果として冷遇され、会社存続の根幹である知性や技術が外部に流出することになる。
国際化社会ではまさにそれを狙っている周辺国もあるわけで、気がつけば会社の技術に世界に誇れるものは何もなくなっていて、昨今では、信じられないような巨大な会社が倒産や買収、企業の分割に至ったりしていることは、みなさまご存知の通りです。
これらはすべて、現状に甘え、ものごとの本質を見誤った結果です。
これと同じことが江戸中期にもあったわけです。
なかでも最大の事件が、京都の大火でした。
京都中が炎に包まれ、火災によって何もかも失った都の人々が難民化し、ついには餓死者が続発するというたいへんな事態が起きたのです。
ところが当時の江戸幕府は、ちょうど将軍が交代するときで、幕閣も幕臣も、保身と出世のために、誰に着くのか、どこに付け届けをするのかばかりに意識が傾いていて、都の大火の難民への対策は、まるっきり放置状態となりました。
あまりのことに、みかねた光格天皇が、勅命をもって幕府に対策を命じました。
これは本来は、あってはならないことです。
なぜなら勅命が出されたということは、幕府は政権担当能力を疑われたということになるからです。
ちゃんとしていれば、勅命が出されることはないのです。
ちゃんとしていないから勅命が出されたということは、幕府が政権担当能力を失っていることを公開されたに等しいのです。
幕府は慌てて米2千俵を京の都に持ち込んで、なんとか都の人々難を救いましたが、このことがまた、幕府内部の派閥抗争に発展しています。
本来なら、これは責任問題になるべきものです。
みかねた光格天皇は、天皇位を譲位され、自ら太上天皇(上皇)となられました。
太上天皇というのは、はじまりは持統天皇にさかのぼります。
もともと7世紀の大改革は、天武天皇と持統天皇のご夫妻によって遂行されたものです。
天武天皇がご存命のときには、閣僚を置かず、天武天皇が知らす役割、そして皇后の鵜野讃良姫皇子(うののさらのひめみこ、後の持統天皇)が、事実上の政治権力者として辣腕をふるうという退勢がとられました。
ところが天武天皇が崩御されてしまったために、やむなく皇后の鵜野讃良姫皇子が皇位に就きます。
そうして誕生したのが持統天皇なのですが、皇位に就いてしまうと、政治権力の行使ができません。
そこで持統天皇は早々に皇位を孫の文武天皇に譲り、自らは太上天皇として政治権力を揮うお立場になられました。
要するに天皇であれば政治に口出しはできないけれど、それは天皇が神々と直接つながる知らすお立場であるからで、皇位を譲って上皇となれば、政治に関与できるようになるわけです。
我が国では、その後、天下がたいへんな状態になったとき、度々、上皇が現れて、国の立て直しが図られています。
光格天皇は、そうした過去の前例を踏まえて皇位を譲って上皇となられると、水戸藩の支援を得て京の都に学習院を開かれました。
学習院は、国学を学ぶ学問所です。
国学は江戸時代初期から水戸藩などで研究が進められたり、あるいは賀茂真淵や本居宣長といった市井の研究者たちが苦労して国学の普及に勤めたりしていましたが、それらの研究成果を踏まえた、いまでいうなら総合大学が誕生したわけです。
もともとは学習院は、貴族の子女たちの教育のためという名目でつくられたのですが、いざ開校してみれば、なんといっても上皇のお墨付きの学校です。
全国の諸藩から、優秀な若者たちが集まり、学習院は大盛況となります。
そしてここから、幕末に向かっての勤王(勤皇)意識が全国的に高まるのです。
土佐藩では、この勤王精神が、とりわけ下級武士である郷士たちの間に、広く普及しました。
もともと郷士というのは、もとの長宗我部家の家臣団です。
その郷士たちは、ドラマやマンガでは、いかにも貧しそうに描かれますが、実は半農半武の大地主たちで、よほど親が博打で財産を持ち崩したといった事情でもない限り、上士と呼ばれる山内家の家臣たちより、はるかに生活にゆとりのある人々でした。
ただし、出世は望めません。
このことは、いまでいうなら、上級国家公務員の資格がなければ公務員の上に立つことはできないけれど、初級・中級の公務員資格しか持っていない人たちのほうが給料が良くて所得が高いようなものです。
経済的に余裕のありながら身分の低い郷士たちにとって、国学にある「天皇とおほみたから」という概念は、まさに夢のような思想となりました。
こうして武市半平太が主催する土佐勤王党(土佐勤皇党)は、一時は500名を越える郷士たちを集めて、たいへんな勢力を持つようになるのです。
一方、上士たちの学問は、四書五経であり、儒学です。
これらは社会の秩序のために、身分を絶対視する思想です。
このように書くと、当然そこで対立が起こったなどと想像する方がおいでかと思いますが、この時代に「対立」という概念はありません。
文字として「対立」と書いても、それは「ならびたつ」と読むものであって、儒学と勤王思想は、同時に並び立つ、それをどのように確立していくかこそが、学問というべきものと考えられていたわけです。
この武市半平太の組織する土佐勤王党は、組織が大きくなってくると、さまざまな物入りが必要になります。
要するにお金が必要になるのです。
そこで勤王党内部で、影響力を持ったのが坂本龍馬でした。
彼の生家は、もともと農業と商業の兼業農家です。
莫大な財産をもち、郷士株を買って士分に取り立てられていました。
要するに龍馬は、いいとこのボンボンで、なにせお金がありますから、なにかというと頼りにされるようになる。
そして気がつけば、武市半平太の高弟となって影響力を持つようになっていました。
勤王党は、要するに天皇を中心とした世こそを大事とする団体です。
龍馬はそこの幹部ですから、当然に思想の根幹は勤王(尊王)にあります。
土佐藩も尊王は同じです。
ただし、儒教が学問の中心でしたから、政治はあくまで既存の政治的上位者が行うべきものという考え方をとります。
したがって、藩の思想は、尊王佐幕公武合体に向かいます。
一方、土佐勤王党は、郷士たちの集まりですから、尊王を基礎とした幕藩体制否定派です。
そのためには、夷狄を打払い、国の形を抜本的に改める必要があるという思想です。
そしてそのためには、国内体制の変革と、欧米列強に負けないだけの軍事装備が必要となります。
龍馬は長崎に亀山杜仲をつくり、英国人のグラバーに接触して軍事物資の調達を図ろうとします。
こうして実現したのが、薩摩藩名義でミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺を買い付けて、長州藩に売るという武器の買い付け斡旋です。
さらに龍馬はグラバーから蒸気軍艦のユニオン号を買い付け、その船で幕府と長州藩の会戦である下関開戦に、長州藩の海軍として参戦したりもするのですが、その後は公武合体のために動くことになります。
ところが持ち船の「いろは丸」が、紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没してしまう。
龍馬は国際公法を元に、紀州藩と直談判を行いますが、相手は徳川御三家です。
土佐の郷士の浪人者では相手にされない。
このときに紀州藩側の窓口として交渉の任にあたったのが、後に東京府知事になる三浦安(みうらやすし)です。
やむなく後に三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎に交渉をバトンタッチすると、弥太郎は土佐藩の正規の藩士だから、紀州藩も捨て置けず、やむなく賠償金を払うことになります。
ところがその賠償金の支払いが決まった数日後、龍馬は京都の近江屋で暗殺されるわけです。
この暗殺の際に、龍馬は数カ所を斬られていますが、その中で致命傷となったのが額の傷で、これによってほとんど即死しています。
問題は、その額の傷です。
京都の昔の建築物は、天井が非常に低く造られています。
つまり刀を上段からふりかぶって額に打ち込むことはできません。
では、どうするかというと、中段からの面打ちになります。
龍馬は、この面打ちを刀で受けていますが、当時としてはかなり体力に恵まれ、北辰一刀流の達人でもあった龍馬が、腰につけた銃を抜く間もなく、全力で中断からの打ち込みを愛刀を鞘に入れたままで受けながら、額を致命傷に至るまで深く割られているわけです。
中段からの面打ちを、横にした刀で受けていながら、その上からかぶせるようにして額を割る。
このような離れ業ができるのは、当時の時代の剣豪の中にあっても、おそらく全国に何人もいません。
つまり龍馬を斬ったのは、名だたる剣豪であったということです。
この事件後、陸奥宗光らが、龍馬の敵討ちにと、三浦安を襲撃しています。
このとき三浦安は、身の危険を察して新撰組に護衛を依頼していました。
陸奥宗光らは、護衛の新選組と斬り合いになり、三浦安は、顔を10針ほど斬られる被害にあっています。
これが天満屋事件です。
新撰組の近藤勇は、後に官軍によって捕縛されていますが、このときに斬首となったのは、土佐藩の強い要求による天満屋事件の意趣返しであったといわれています。
そのようなことから、2010年9月に、竜馬暗殺について、紀州藩説をこのねずブロに書かせていただきました。
歴史には、さまざまな側面があります。
ひとつの歴史観に埋没するのではなく、様々な見方で、そのストーリーを把握し、未来を築いていくことが、いまを生きる知恵になるのだと思います。
お読み頂きありがとうございました。

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