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「大人が読む日本書紀」の第二回です。
前回は創生の神々である「国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊」が、それぞれ漢字で書かれた御神名の意味と、大和言葉で読んだときの意味が異なるということをお話させていただきました。
ところが日本書紀は、この冒頭の一文に続けて、「ある書にいわく」として、6つの別な説を併記しています。
今回は、その6つの別な説について、読み解いてみたいと思います。

20171116 日本書紀
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<原文>
一書曰、天地初判、一物在於虛中、状貌難言。其中自有化生之神、号国常立尊、亦曰国底立尊。次国狭槌尊、亦曰国狭立尊。次豊国主尊、亦曰豊組野尊、亦曰豊香節野尊、亦曰浮経野豊買尊、亦曰豊国野尊、亦曰豊囓野尊、亦曰葉木国野尊、亦曰見野尊。
一書曰、古、国稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩。于時、国中生物、状如葦牙之抽出也。因此有化生之神、号可美葦牙彦舅尊。次国常立尊。次国狭槌尊。葉木国、此云播舉矩爾。可美、此云于麻時。
一書曰、天地混成之時、始有神人焉、号可美葦牙彦舅尊。次国底立尊。彦舅、此云比古尼。
一書曰、天地初判、始有倶生之神、号国常立尊。次国狭槌尊。又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊。次高皇産霊尊。次神皇産霊尊。皇産霊、此云美武須毘。
一書曰、天地未生之時、譬猶海上浮雲無所根係。其中生一物、如葦牙之初生泥中也、便化為人、号国常立尊。
一書曰、天地初判、有物。若葦牙、生於空中。因此化神、号天常立尊。次可美葦牙彦舅尊。又有物、若浮膏生於空中。因此化神号国常立尊。

<読み下し文>
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)初(はじ)めて判(わか)るるとき、一物(ひとつもの)虛(そら)の中に在(あ)り。状貌(かたち)言い難(かた)し。其中(そのなか)に自(をのづ)から化生(なりい)づる神(かみ)有(あ)りて国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)し、亦(また)は国底立尊(くにのそこたちのみこと)と曰(まを)す。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、亦(また)は国狭立尊(くにのさたちのみこと)と曰(まを)す。次に豊国主尊(とよくにぬしのみこと)、亦(また)は豊組野尊(とよくむのみこと)と曰(まを)し、亦(また)は豊香節野尊(とよかふののみこと)と曰(まを)し、亦(また)は浮経野豊買尊(うきつねのとよかふのみこと)と曰(まを)し、亦(また)は豊国野尊(とよくにのみこと)と曰(まを)し、亦(また)は豊囓野尊(とよかふのみこと)と曰(まを)し、亦(また)は葉木国野尊(はきくにのみこと)と曰(まを)し、亦(また)は見野尊(みののみこと)と曰(まを)す。
一書(あるふみ)に曰(いは)く、古(いにしへ)、国(くに)稚(わか)くして地(つち)稚(わか)き時(とき)、譬(たとへ)ば浮(う)かべる膏(あふら)の猶(ごと)くして漂蕩(ただよ)へり。于時(このとき)に国(くに)の中(なか)に物(もの)生(な)るは、状(かたち)葦牙(あしかひ)の抽出(ぬけいてたる)が如(ごと)し。此(これ)に因(よ)りて化生(なりい)づる神有(かみあ)りて、可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と号(まを)す。次に国常立尊(くにのとこたちのみこと)。次に国狭槌尊(くにのさわけのみこと)。葉木国(はきのくに)、(此(これ)を播舉矩爾(はきのくに)と云(い)ふ。可美(うまし)、此(これ)を于麻時(うまし)と云(い)ふ。)



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古事記3の一部


一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)混(まろか)れ成(なる)時(と)きに、始(はじめ)に神人(かみ)有(あり)て、可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と号(まを)す。次に国底立尊(くにのそこたちのみこと)。(彦舅(ひこに)、此(これ)を比古尼(ひこぢ)と云(い)ふ。)
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)初(はじ)めて判(わか)るるとき、始めて倶(とも)に生(なりいづる)神(かみ)有(あり)て、国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。又曰(またいは)く、高天原(たかまのはら)に所生(あ)れます神(かみ)の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)と曰(まを)す。次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)。(皇産霊、此(これ)を美武須毘(みむすひ)と云(い)ふ。)
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)未(いま)た生(な)らざる時に、譬(たと)へば海(うみ)の上(うへ)に浮(う)かぶる雲(くも)に根(ね)の係(かか)るところ無(な)きが猶(ごと)し。其中(そのなか)に一(ひと)つ物(もの)生(な)るは、葦牙(あしかひ)の初めて泥(ひぢ)の中に生(おひい)でたるが如(ごと)し。便(すなわ)ち人(かみ)と化為(な)りて国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。
一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地(あめつち)の初(はじめ)て判(わか)るるときに物(もの)有(あ)り。葦牙(あしかひ)の若(ごと)くして、空(そら)の中(なか)に生(な)れり。此(これ)に因(よ)りて化(な)る神(かみ)を天常立尊(あめのとこたちのみこと)と号(まを)す。次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)。又(また)物(もの)有(あり)て、浮(うか)べる膏(あふら)の若(ごとく)して空(そら)の中(なか)に生(な)れり。此(これ)に因(より)て化(な)る神を国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。

<現代文>
一書には、天地(あめつち)が最初に別れたとき、一つの物が虛中に在(あ)り、その形はなんともいいがたいものであったけれど、その中から国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生られたとあります。この神様のまたの名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)といいます。
次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)(別名を国狭立尊(くにのさたちのみこと)が生(な)られ、
次に豊国主尊(とよくにぬしのみこと)(別名を豊組野尊(とよくむのみこと)、豊香節野尊(とよかふののみこと)、浮経野豊買尊(うきつねのとよかふのみこと)、豊国野尊(とよくにのみこと)、豊囓野尊(とよかふのみこと)、葉木国野尊(はきくにのみこと)、見野尊(みののみこと)といいます)が生(な)られました。(葉木国と書いて播舉矩爾(はきのくに)と読みます。)
一書には、大昔の国も地(つち)もまだ稚(わか)かったときに、たとえてみれば油が浮(う)かんでいるかのように漂(ただよ)う中から、葦牙(あしかひ)が生(は)えるように成られた神様があり、その神様の名を可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と申したとあります。(可美と書いて于麻時(うまし)と読みます。)
次が国常立尊(くにのとこたちのみこと)。
次が国狭槌尊(くにのさわけのみこと)です。
一書には、天地(あめつち)がまだ混(まざ)っているときに、始めに神人が有り、その名を可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)と言いました。(彦舅と書いて比古尼(ひこぢ)と読みます。)
次が国底立尊(くにのそこたちのみこと)です。
一書には、天地(あめつち)が初(はじ)めて別れたとき、始めに倶(とも)に生(な)られた神の名が国常立尊(くにのとこたちのみこと)であったとあります。
次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)が成られています。
また、高天原(たかまのはら)に生(な)られた神(かみ)の名を、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)といい、次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)といいます。(皇産霊と書いて美武須毘(みむすひ)と読みます。)
一書には、天地(あめつち)が未(いま)だ形成されていないときに、たとえば海の上に浮かぶ雲には根がかかるところがないような状況の中で、ひとつ物(もの)が生(な)り、それは葦牙(あしかひ)が初めて泥の中に生(は)えるように人の姿となり、国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号したと書かれています。
一書には、天地(あめつち)が初(はじめ)て別れるときに、ある物があり、それは葦牙(あしかひ)のようでしたが、空中で生まれました。これによって化(な)られた神の名をを天常立尊(あめのとこたちのみこと)といいます。
次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)が生(な)られました。
また物(もの)があって、それが浮かんだ油のように空中に広がるものから生られた神が国常立尊(くにのとこたちのみこと)であったと書かれています。

<解説>
▼一書(あるふみ)に曰(いは)く
日本書紀が本文で採用しているのは、天地が別れ、そのなかの天が先に形成されたときに、天に最初に生られた神様が国常立尊(くにのことたちのみこと)であり、次いで国狭槌尊(くにのさつちのみこと)と豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)が生(な)られたという説です。
ところが日本国内には、そうではないとする異説を「一書曰」として6つ紹介しているのが、この段です。
▼第一の書
その注書きに現れる第一の書には、最初の神様が国常立尊(くにのとこたちのみこと)であったと記されています。そこまでは日本書紀本文と同じなのですが、異なるのは、この神様の別名が記されていることです。
その別名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)といいます。
大和言葉での違いは「とこたち」と「そこたち」の違いです。
「とこたち」は、一段高いところに立たれた神という意味、「そこたち」なら全宇宙の根幹に立たれた神という意味になります。
漢語ですと、「常に立つ」と、「底に立つ」の違いですが、意味の違いは上と同じです。
次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)で、別名として国狭立尊(くにのさたちのみこと)が生(な)られたとあります。
大和言葉では、「さつち」と「さたち」の違いになりますが、「さ」は神稲を意味しますので、「神稲の土」と、「神稲が出現した」の意味の違いになります。
漢語では前に述べましたように「狭槌」は「大鎚を手にして境界を定める」という意味です。
「狭立」は、「立ち位置の境界を定める」ですので、前者の方がすこしおそろしい感じがします。
三番目に出てくる豊国主尊(とよくにぬしのみこと)は、別名が7つも併記されています。
「豊国」は、豊かな国で、これは大和言葉の「とよくに」も、音読みの「ほうこく」も同じ意味です。
では、それぞれの別名はどのような意味になっているのでしょうか。
【豊組野尊(とよくむのみこと)】漢語=豊かな野を組む、和語=ゆたかさを掬(すく)いとる(はぐくむ)。
【豊香節野尊(とよかふののみこと)】漢語=季節の穀物の甘い香り(香りという字は稲穂の稔りを口にした象形です)、和語=ゆたかなかおり。
【浮経野豊買尊(うきつねのとよかふのみこと)】漢語=宙に浮いているものから豊かさを手に入れる(買は財貨に編みをかぶせる象形。豊買で豊かさを手に入れる。和語=同義。
【豊国野尊(とよくにのみこと)】漢語・和語=国が豊かになる。
【豊囓野尊(とよかふのみこと)】漢語=噛み付く豊かさ。和語=おなかいっぱいに噛む。
【葉木国野尊(はきくにのみこと)】「葉木」は、注釈で「葉木国と書いて播舉矩爾(はきのくに)と読む」とありますから、この場合の「葉木」は単なる当て字とわかります。従って「はきの国」ということになるのですが、「haki」はもしかすると「hauki」かもしれません。すると「葉木国」は、伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県の西半分にかつてあった地名)のことかもしれないのではないかと思います。
尚、この「葉」が、実は「豊」という字の書き間違いではないかという説がありますが、賛成できません。もし「葉木」が「豊木」なら、それはどうみても「はきのくに」とは読めないからです。
【見野尊(みののみこと)】漢語=野を見る、和語=みえる。
古事記では、このように神様のお名前が連なるときは、神を消して読むと(この場合は尊)、そこにひとつのストーリーが読めてくるといことを『ねずさんと語る古事記』に書かせていただきました。そこで同じようにここに連なっている神様のお名前から尊の字をとってみますと次のようになります。
「豊国主尊(とよくにぬしのみこと)は豊かさをはぐくみ、豊国は穀物の甘い香りにつつまれ、物々交換がなされ、皆が豊かに暮らし、国も豊かで、誰もがお腹いっぱいな国。そこは伯耆の国に見える(という)。」
ちなみに「伯耆」の「伯」は、「おさ」を意味する漢字、「耆」は老人で、やはり「おさ」を意味します。
伯耆の国という地名は、大昔、そこに偉大な村長(むらおさ)がいたということを意味する名前です。
おそらくこの第一の書は、その伯耆の国の史書もしくは伝承であったのであろうと思われます。
ちなみに現代日本では、東海道のある太平洋ベルト地帯が経済の盛んな土地となっていますが、江戸の昔の物流は河川や外洋の沿岸公開が主流で、とりわけ北回船と呼ばれる日本海側の海上交通は極めて盛んとなっていました。
さらにいえば、日本は江戸時代に限らず、歴史上、たびたび鎖国を実施していますが、開国していた時期には、日本海に流れる海流を利用した海上交易が非常にさかんに行われていました。
この関係で、特に古代においては、おそらく伯耆の国あたりは、まさに海上交通の中心地として非常に発展をしていたといえますので、その意味で伯耆の国をここでは「葉木国尊」としているのかもしれません。
▼第二の書
二番目に紹介されている書では、最初に成られた神様を可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)としています。
二番目と三番目は同じで、順に国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさわけのみこと)となっています。
はじめの神様だけが名前が違うわけです。
そのはじめの神様のお名前にある「可美」は、そう書いて于麻時(うまし)と読むと注釈されています。
「葦牙(あしかひ)」は、葦の芽のことで、それが「うまし」ですから「良い葦の芽」、「彦」は才能のすぐれた男性で、「舅」は男性の老人のことです。
従って、はじめに「最初の萌芽が優れていたために、歳をとっても優れた男性がいた」ために、国ができ(立ち)、国の境が生まれた(狭槌)といった意味になります。
この三柱の神様のお名前を通しで読めば、「はじめに優れた男性がおいでになられたおかげで、国ができ、国境も定められた」といった意味になります。
▼第三の書
三番目に紹介されている書では、最初に現れたのが可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)であり、次が国底立尊(くにのそこたちのみこと)であったと書かれていると日本書紀は書いています。
ここでの「彦舅」は、「ひこぢ(比古尼)」と読みなさいと注釈しています。
和語の「ひこぢ」は、今風にいえば「彦爺」で、男性のお年寄りという意味です。
その人が、国の基礎を成したということが「国底立尊(くにのそこたちのみこと)」というご神名で見て取ることができます。
▼第四の書
ここの記述は、古事記、もしくは古事記がもっとも史実に近いとの判断の依拠とした書を指しているものと思われます。
ここでは、天地(あめつち)が初(はじ)めて別れたときの初めの神様を国常立尊(くにのとこたちのみこと)、次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)としていますが、それ以前のまだ天地が別れる前には高天原(たかまのはら)があり、そこで最初に成られた神様を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、次が神皇産霊尊(かみむすひのみこと)であったとしています。
また、「皇産霊」と書いて「みむすひ(美武須毘)と読む」と注釈しています。
日本書紀は、対外的に書かれた史書ですが、要するにこの四番目の書では、我が国の祖は国常立尊であるけれど、そもそもの宇宙創生は天御中主神であり、その後に高所における神の「みむすひ=御結び」があったのだということを述べています。
▼第五の書
五番目の書は、そうではなくて、天地創造の際に葦の芽が泥に生えるように混沌とした中に人の姿をした神様が現れて、その名を国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号したとしています。
▼第六の書
また別な書(第六の書)では、最初の神様が、国常立尊ではなく、天常立尊(あめのとこたちのみこと)と記されているとあります。
特定のエリアである「国」ではなくて、「天」になられた神というわけです。
二番目が可美葦牙彦舅尊(うましあしかひひこぢのみこと)で、これは「良い葦の芽のような男性の老人の神」が生(な)られ、そしておそらくその後のことだと思うのですが、浮かんだ油のように空中に広がるものから国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生(な)られたとであったとしています。
▼一書曰は箇条書きか?
この「一書曰(あるふみにいわく)」という表現については、「第一、第二、第三」等と同じ、単に箇条書きを示したものにすぎないというのが通説です。
しかしそれなら単に「一、」とすればよいだけのことです。
あきらかに「一書」と書いてあるのです。
私はこれは、日本書紀が編纂された時代に、編纂の参照として「別に書かれたものがあった」ことを示していると思います。
そもそも「書」という字は、手で筆を持って台に置いた紙や板に何かを書いている象形文字です。
従って、「一書」というのなら、どうみてもそれは「書かれたもの」です。
むしろそう書いてあるのに、単なる箇条書きだと決めつけるほうがおかしいのではないかと思います。
ところが日本書紀よりも先に書かれた書として、現存しているのは古事記だけとされています。
古事記は711年に提出され、日本書紀は720年の完成なのですが、その古事記の序文には、記紀編纂のきっかけは天武天皇の681年の詔(みことのり)であったということが書かれています。
そして古事記は、それからまる30年、日本書紀はまる39年の歳月をかけて編纂されています。
なぜそんなに月日がかかったのでしょうか。
古事記はこのことについて、「諸家にもたらされている歴代天皇記(帝紀)や我が国の神話や伝承(本辞)」をもとにして書いたとしています。
これはどうみても「諸家に伝わる伝承」です。
この時代の日本は、諸国の豪族たちのゆるやかな連合体です。
それら諸国の豪族たちは、皇族との縁戚関係があったことは、容易に察することができます。
日本は国土が狭くて歴史の長い国なのです。
何千年、何万年にもわたって血の交わりが「なかった」と考えるほうが、実はどうかしています。
天武天皇の詔は、それら諸家に伝わる帝紀や本辞と述べられています。
おそらくもとの出処はひとつでしょう。
縄文時代の日本の人口は、わずか20万人余であり、その状態が1万5千年も続いたのです。
血が混じらないと考えるほうがおかしいし、もっというなら、もとは一組のカップルから、それだけの人口が生まれ、全国に広がっていったと考えられるのです。
ですから諸家に伝わる伝承は、おそらくもとはひとつの物語であったと考えられます。
しかし長い歳月の間に、それぞれの豪族ごとに、自らの家にとって都合が良いように、だんだん伝承が変わっていく。
たとえば沖縄には「あまみこ」が立派な島をつくったという伝承があります。
奄美諸島の奄美(あまみ)は、その名から生まれた名前なのだそうです。
その「あまみこ」は、天照大御神を指しているともいわれています。
いまとなっては、どれが本当の原初の神語であったのかはわかりません。
しかしあまりにも歴史の長い日本では、日本書紀が編纂された当時においても、おそらくいまと同じような状況だったといえるのではないでしょうか。
全国の諸豪族が、いくつあったのかはわかりません。
その数だけ、原初の神語を変形した伝承が行われていたわけです。
これを中央の朝廷で、ひとつにまとめようとするとき、どうしても無視できない有力豪族の伝承は、「一書曰」として添え書きするしかなかったのではないでしょうか。
そして、その有力豪族が、当時六家あったから、「一書曰」は、6つの伝承を併記したといえるのではないかと思います。
そして、それが「一書」と書かれているということは、それは「書かれたものであった」ということです。
その書かれた書は、いまでは日本書紀以前の書としては、古事記以外には「ない」とされています。
しかし、私は違うと思います。
なぜなら、我が国には神代文字があるからです。
神代文字は江戸時代の贋作というレッテルが貼られていますが、源頼朝や義経、あるいは菅原道真が書いたとされる神代文字の奉納の幣(へい)が現存しています。
また、神代文字は「使われていない」とされていますが、いまでも少し古い神社に行けば、そこでいただけるお守り袋の中味には、ちゃんと神代文字が書かれています。
いまでも使われているのです。
それに、あきらかに江戸時代以前に建てられた石碑もあります。
もっというなら、ひらがなは万葉漢字の草書から発展した文字であることは間違いないでしょうが、カタカナは、漢字の一部を切り取ったというよりも、神代文字から発展した文字と考えたほうが、辻褄があうのです。
そもそも、つい戦前まで、ひらかなは女性専用文字であって、男性はカナ文字を書くときにはカタカナを用いるべしとされていたものです。
カタカナが、神代から続く文字なら、男性が用いるべしとされたのは、わかる気がします。
そして諸家が神代文字で書かれた史書を仮に保有していたとするならば、その諸家が有力豪族であり、諸家ごとに使用している神代文字が異なるという状況にあれば、どの神代文字を使うかは、これはたいへんな難題になります。あちらたてれば、こちらたたずになり、まとまらないのです。
しかも、その諸家ごとに、それぞれの家に都合が良いように、内容が少しづつ違う。
その一方で、当時の日本は、唐と新羅の連合軍に白村江で大敗し、国の紐帯が崩れて国家が崩壊しそうなところへ、さらに追い打ちをかけるように唐と新羅の連合軍が海を渡って日本に攻め込むという計画をねっているという情報までもたらされていたのです。
そうした危機状況の中で、日本中の諸家に伝わる伝承をひとつにまとめ、それを文字にして書にしたためるのなら、しかもそうしてまとめた史書を、日本の国際的信用を増し、諸家をひとつにまとめて日本の国力を強くして、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)を避けようというのなら、それはむしろ外国文字である漢字で書いてしまうことが、もっとも合理的な選択となります。
放置すれば、日本はいつまで経っても地方ごとの豪族たちの集合体でしかないのです。
なにがなんでも、まとめなければならない。
ただどうしても、ひとつにまとめきれない部分を、こうして「一書曰」として添え書きにしたというのが、正解ではないかと思います。
(続く)
お読みいただき、ありがとうございました。
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