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戦後左翼評論家の「ああだ、こうだ」のご託宣よりも、現実にあった歴史の後に、どういうことが起きたかをキチンと見ることの方が余程真実に迫るのではないかと私は思います。

20171008 インパール作戦
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 *****
大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現在名ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦しました。
けれど補給の不備で果たせず、空と地から英国軍の反攻を受けつつ退却しています。
負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患し、退却途中で大半が力つきて、退路には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、白骨街道と呼ばれました。
生還した兵の記録に次のようなものがあります。
小田敦巳著『白骨街道生死の境』
 道ばたに腰掛けて休んでいる姿で
 小銃を肩にもたせかけている屍もある。
 手榴弾を抱いたまま爆死し、
 腸わたが飛び散り鮮血が
 流れ出したばかりのものもある。
 たいてい傍らに飯盒と水筒が置いてある。
 ガスが充満し牛の腹のように
 膨れている屍も見た。
 地獄とは、まさにこんなところか。
 その屍にも雨が降り注ぎ、
 私の心は冷たく震える。
 そのような姿で屍は道標となり、
 後続の我々を案内してくれる。
 屍を辿った方向が分かるのだ。
 皆これを白骨街道と呼んだ。
 屍の道標を頼りに歩いた。」
英国軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせています。
日本兵の死体のみならず、負傷し罹患して動けない兵をも生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。
こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は、戦後あらゆる罵声を浴びせられました。
負ければ賊軍は世の習いです。
しかし、幾らそんな評価をしても失われた生命が帰ってくることはありません。
むしろ戦争を知らない世代を生きる我々は、歴史を評価するのでなく「何を学ぶか」が大切なことだと思います。
そのインパール作戦には、戦争を知らない我々には不思議なことが幾つかあります。
◇ ◇


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古事記3の一部


昭和18年9月の御前会議で絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域と定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。
その基本戦略に反してインドに撃って出ようというインパール作戦は、最初に書いたようにその翌年3月のものです。
どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのか。
反対していた大本営も、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズの強い要請を受けて作戦の実施を認めています。
インドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなって来た大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたためだったといわれています。
守る英国軍は15万です。
攻める日本軍は9万、他にインド国民軍4万5千がいました。
加えればほぼ並ぶのに、日本軍はそのインド国民軍をまるごと温存しています。
つまり作戦遂行にあたって「置いてきた」のです。
世界の普通の国ならこうした場合、インド軍を寧ろ前に立てて自国軍主力の犠牲を少なくしようとします。
ましてインド独立のための戦いです。
インド国民軍を前に出して何が悪いと考えるのが普通です。
ところが日本軍はそれをしていません。
自分たちが戦いの先頭に立っています。
個別に少数のインド兵を配属された日本軍の下級将校も皆そうしています。
戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどういう困難な戦いになるかは分かっていたのでしょう。
だからインド兵は後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指しています。
日本軍の心意気は必ずやインド兵に伝わり、インドの決起を促すであろうと、或いは末端の兵士はそこまで考えていなくとも、虐げられたアジアの尖兵として戦うという本能的なアジアの心は、大東亜戦争の日本軍将校が共有していたのではないかと思います。
果たして遠からずインドは独立しました。
ということは、インパール作戦は成功したのです。
その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人としてパル氏を判事として送り込んだのではないかと思われます。
 ◇ ◇
戦争を知らない我々にとって二つ目の驚きは、こういう惨烈な戦いに終始日本兵の士気が高かったと聞くことです。
インパールは補給を無視した無謀な戦いであると戦後の誰でもが書いていますが、もともと国力の隔絶している日本がやむを得ず世界を相手に広いアジア全域で正義の戦いを始めているのです。
第一線への補給の困難は分かりきった話です。
ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。
そこはジャングルの中です。
食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も猖獗する日々を、遠路はるばる二ヶ月を戦い抜きました。
かのワーテルローの戦いはたった1日です。
戦いの二ヶ月というのは、ものすごく長い期間です。
後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。
その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となって英国軍と戦い続けています。
しかもひとりも降伏しない。
誰も勝手に退却しない。
軍の形は崩壊しても、一人一人の日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令の来る最後まで戦い抜いています。
そうした闘魂の積み重ねで一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。
前半戦は勝っていたのです。
◇ ◇
三つ目の不思議はその軍規である。
餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちが、だれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。
既に何日も食べていない。
負傷もしている。
病気にも罹っている。
けれどビルマ人の民家を襲って食物を奪い、家畜を殺し、ついでに女を犯すといったことは、まったく伝えられていません。
銃を持った敗残兵がそうのようなことをするのは世界史の常識です。
戦場になったビルマ人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的であったと聞くのは、そういう不祥事がなかった証拠です。
更に驚くべきことに、戦後のインパール戦記は沢山書かれたけれども、民家を襲うようなことはしなかったと誇る記述を誰一人も残しておられないのです。
戦争に関係のない民家を襲わないなんて「当たり前」のことだったからです。
むしろ、退却途中でビルマの人に助けて貰った、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多いのです。
それが日本人だった。
そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。
◇ ◇
最後の不思議です。
この戦いは英軍15万と日本軍9万の大会戦です。
有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万ですから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。
にもかかわらず、英国はこのインパールの戦いの勝利を誇るということをしていません。
戦いの後、インドのデリーで、英国に胡麻すりのインド人が戦勝記念式典を企画していますが、英国軍の上層部が差し止めたと伝えられています。
何故か、理由は判然としませんが、以上の戦いの回顧をして、私は何となくわかる気がするのです。
第一線で戦った英国軍は勝った気がしなかったのではないか。
自分たちは野戦食としては満点の食事を摂り、武器弾薬も豊富に持ち、次々と補給される。
そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。
それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しも何処かに負傷し、そして弾の入っていない銃剣を握りしめて、殺しても殺しても向かってくる。
それが何と、インドの独立のため、アジアの自立のためです。
そんな戦いが60日以上も続いたのです。
ようやく日本軍の力が尽きた後に、何万もの日本兵の屍が残っていました。
それを見たときに、英国人たちは、果たして正義がどちらにあるのか、自分たちがインドを治めていることに、正義があるのか、根底を揺さぶられる思いをしたのではないでしょうか。
実際、インパールで日本軍と戦った後、インドに起きた独立運動に対する英国駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応として、あまりにも手ぬるくなってます。
やる気が感じられないのです。
ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。
以前の英国軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を打ち込むくらいのことはしていたのに、です。
そして、戦後の東京裁判で、英国はインドがパル判事を送り、パルが日本擁護の判決付帯書を書くことについて容喙していません。
そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じます。
戦後左翼評論家の「ああだ、こうだ」のご託宣よりも、現実にあった歴史の後に、どういうことが起きたかをキチンと見ることの方が余程真実に迫るのではないかと思うのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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