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人類史のような数千年から数十万年という長い時間の経過を持つものを語るとき、現代の海岸線や気候、国境・人種・民族をもとに考えると、大きな間違いを犯します。
たとえば稲作がChinaから渡来したなどというのがその典型です。
地球環境は、温暖化や極端な寒冷化を繰り返していて、海岸線が大きく変化しているし、火山の大噴火もあるし、それによる生命体の大量死もあるし、そしてなにより、いまよりもはるかに人口の少なかった時代、そもそも国境なんて存在しなかったからです。

大陸棚はかつて陸地だった。
20170919 大陸棚
Google Earthより

先日ある方からご質問をいただきました。
ある著名な大学教授が書かれた本に、「弥生時代の始まり頃、日本は大陸や半島と比べて千年の文化の遅れがあった。このため日本は、海を渡ってやってきた呉や越の人々から、稲作や建築技術など、様々な文化を教わり、これによって、日本は弥生時代を迎えることになった」と書かれていたのです。
これについて意見を求められましたので、言下に否定させていただきました。
というか、DNAの解析や、稲作の水耕栽培跡など、様々な遺跡の発掘が進み、日本では縄文中期には稲作が行われていたし、穀物保存のために、その時代からすでに高床式住居が用いられていたことなどが、すでに考古学的にも明らかになっているわけです。
にも関わらず、そうした考古学上の明らかな発見を無視して、いまだに上にあるような珍説に固執する学者がいるということ自体が、信じられないことでした。
それは、いったい何が目的なのかと思ってしまうほどです
もっともこの教授の本にも、一点、見るべきものはありました。
それは「稲作が朝鮮半島を経由して日本に渡来した」という説が、全面的に否定されていたことです。
これは、あるわけがないのです。
なぜなら、呉や越(つまりいまのChinaの福建省のあたり)で稲作が行われていたとしても、山東半島のあたりから、遼東半島、そしていまの北朝鮮のあたり一帯までは、気象条件がまったく稲作に適さないのです。
つまり、稲作は、そのあたりでは行うことができなかったわけで、そうであれば稲作が山東半島や遼東半島を経由し、さらに北朝鮮のあたりを経由して南朝鮮に渡来し、そこからさらに日本に渡来したということは、完全に論理が破綻しているからです。


しかも古代の記録を見れば、いまの南朝鮮のあたり一帯は、倭国の一部であり、倭人たちが入植していたことも明らかになっています。
だから古墳も出土しているのです。
倭人たちが入植したから、南朝鮮のあたり一帯では稲作も行われるようになったのです。
そうであれば、稲作が朝鮮半島から渡来したとは、韓国の考古学者、古代史学者がどのようなファンタジーの夢を見ようが、彼らの夢は、夢でしかない。
おもしろいなと思ったのは、その本を書いた教授さんも、こうした事実から、さすがに「朝鮮半島経由で」という説は、どうやらひっこめたようなのです。
ところが、だからなのかは知りませんが、日本文化は稲作を含めて福建省から渡来したという説にこだわり、それどころか、「その頃の日本は、大陸と比べて文化に千年の遅れがあった」などと書いているわけです。
私などは人柄が悪いので、「先生、その千年というのは、具体的にどのような根拠に基づくのでしょうか」と思わず質問してしまいそうです。
というより、学術本のような体裁を取りながら、何の根拠もなく「千年の遅れ」という表現を使うほうが、学問をする人として、私から見たら、とても残念に思えます。
さて、ここからは、仮説になります。
現在把握されている考古学上の遺跡からわかっていることは、日本でおよそ8千年前の縄文中期には、水田があり、そして稲作が行われていたという事実です。
しかし、おそらく実はもっとはるかに古い時代から、日本では稲作が行われていたのであろうと思います。
というより、「日本では」というのではなくて、日本から台湾、フィリピン、インドネシアといった一帯で、稲が食に用いられていたであろうと思うのです。
というのは、地球上の最終氷河期のピークは、いまから1万8千年前のことです。
この頃の年間平均気温は、現代と比べると、▲10度以上も低いもので、このため南極や北極圏の氷河が発達し、海面の高さはいまより、150メートル以上も低かったことが、近年の研究で明らかになっています。
そして、その寒冷状態は、いまから約1万年前で続いています。
そうなると、現在大陸棚となっているところの多くは、海上に露出していたことになります。
そして、日本列島から琉球諸島、台湾、フィリピン、ボルネオ、スマトラをつなげる大陸棚は陸上にあって、そしてこのラインが、ユーラシア大陸の東の外れの海岸線になっていたことが明らかになっています。
ところがその寒冷化の時代から、およそ7千年前までの間に地球気温は+10度も上昇していきます。
すると何が起きるかというと、その陸地だった大陸棚が、海に沈むのです。
そしてその頃に山だったところの先端だけが海上に露出するようになっていきます。
こうして陸地として残ったのが、日本列島であり、琉球諸島であり、台湾であり、澎湖島であり、フィリピン、ボルネオ、スマトラであるわけです。
縄文時代の遺跡の多くが貝塚であることに明らかなように、そのあたり一帯に住んでいた人々は、海に面したところで、貝や海藻を採って暮らしていたことがわかっています。
こうした人々は、海岸線が後退すれば、いまのように土地の所有権や国の領有権などない時代ですから、当然、住まいを移動させていきます。
もともとは、血を分けた本家と分家のような関係を持つ村々であったとしても、こうして海岸線の後退によって、分断され、互いの住まいが海に隔てられて行くわけです。
そしていまから7千年前から5千年前にかけては、地球気温は急速に上昇し、この時期には日本列島の西日本一帯が熱帯地方になります。
熱帯であれば、稲は自生します。
縄文時代の遺跡の調査結果から、当時の人々が、木の実や粟、ヒエ、コメなどを採取して食べていたことは明らかになっています。
つまり、実の多い稲は、貴重な食料であったろうし、それが自生していれば、食べていないと考えるほうがどうかしています。
そして気象状態が、寒冷化に向かい、熱帯だった西日本が温帯に変われば、そのままでは稲は自生できません。
だから、熱帯だった当時にあった雨季と乾季を人工的に演出して、稲を騙して生育するようになったのが、水耕栽培です。
日本では、陸稲と水耕栽培の稲の両方が時代を変えて出土していますが、それにはそのような背景があったものといえようかと思うのです。
ちなみに少し時代を戻しますが、1万8千年前に、なぜ地球が大寒冷期を迎えたかというと、これにはシベリアの火山の連続した大噴火が原因であったといわれています。
この噴火で、火山灰が気流にのって世界中に広がり、地上を覆いました。
このため太陽光が十分に届かずに、地上が冷えて大寒冷期となったのです。
噴煙はたいへん多くのガラス質を含みます。
ですから噴煙を吸い込んだ動物は、もちろん人間もですが、肺にガラスが突き刺さり、命を失います。
つまりこのときに、東亜の人口は東亜全体でも、1万人程度、もしかすると千人くらいにまで減少したのではないかという説があります。
地球全体でも、人類は合計して1〜2万人になったと言われています。
そこから、生き残った人々が、いまの人口になったわけです。
このような地球環境変化の中に、東亜の人々が暮らしていたとするならば、まさに東亜の人々は、1万8千年遡れば、実は、みんな親戚ということにもなりそうです。
そしてその親戚同士が、地球の温暖化とともに分断されて、いまの東亜諸国を形成しているわけです。
このように考えると私には、稲作が福建省から渡来したとか、いやいや日本から渡ったのだとかいう議論自体が、馬鹿げているように思えます。
もともと発祥の地は、いまでは海にしずんでしまっている大陸棚にあったと考えたほうが合理的だからです。
また、縄文時代の遺跡が貝塚であるように、原始生活においては、山間部の陸中よりも、海に面した沿岸部の方が、食料を得やすく生活に適しています。
人類が「毛のない猿」であることも、森での生活ならどうみても体毛があったほうが合理的ですが、海で暮らすなら、体毛がないほうが、体が早く乾きますので、これまた合理的です。
人類はいまは沈んでしまっている大陸棚にかつて住んでいた。
そして、その海に沈んだ大陸棚で生活し、生まれた技術を持った人々が、Chinaに、台湾に、琉球諸島に、日本列島に、ボルネオに、フィリピンに、インドネシアに、ベトナムに分散して住むようになったのであろうと思います。
まさに、人類みな兄弟。
東亜の人はみな兄弟です。
共産主義などにかぶれて、互いの対立を煽るより、そのような発想のところから、本当の意味での対話や冷静な議論ができるようになるのではないかと思います。
そしてそれは、私たち日本人が、もっとも古い昔からの伝統を保持した民族であり、そこで生まれたシラスを東洋社会の常識にしなければならないことの重要性をも示唆しているように思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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