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今回は古事記の持つ奥行きの深さを、軍事という面から考えてみたいと思います。

20161012 古事記

【お知らせ】
 9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
 9月21日(木)13:00 埼玉縣護國神社奉納揮毫
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
11月 5日(日)第45回 倭塾 公開講座
11月25日(土)第20回 百人一首塾
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古事記の神語の冒頭にある重要な言葉のひとつに、
「修理固成(つくりかためなせ)」という語があります。
諸々の天の神々が、イザナキ、イザナミの二神に、
「この漂っている国を修理固成(つくりかためなせ)」と命ぜられて、天の沼矛(あめのぬぼこ)をお授けになり、二神は天の浮橋(あめのうきはし)に立って、その天の沼矛を差し下ろし、塩をコオロコオロと画(か)きなして引き上げると、矛の先端からしたたり落ちた塩が積もって淤能碁呂島(おのころじま)になったと書かれています。
ここで「修理固成」について、新たに築くのにどうして「修理」という語を用いているのかについては、以前にもこのブログでご案内させていただきましたし、また拙著『ねずさんと語る古事記 壱』にもその旨は書いていますので、今回はその部分は割愛します。
今回お話しますのは「固めなせ」、つまり「かためなさい」と命じられた神様が、そのために「天の沼矛」を渡したという点に注目したお話です。
神様は、どうして「沼矛(ぬぼこ)」を渡したのでしょうか。


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20170526 古事記弐


「沼」という字は、「氵(さんずい)」と「刀」と「口」でできた漢字です。
この「刀」は、もともとは「人」という字の変形ですから、口で人を呼ぶ→人をまねく、と変化したものです。
「氵(さんずい)」は河川を示しますが、もともと沼というのは神秘的なところ、霊的なものを感じさせる混沌とした場所を意味します。
「矛」は、文字通り長い柄の先に鋭利な刃物を取り付けた武器の象形で、ただ突くだけでなく、切り払う機能をもった槍、または薙刀のような武器のことです。
つまり「沼矛」というのは、霊的かつ神秘的な混沌とした場所に用いるための武器ということになりますから、「この漂っている国をつくりかためなさい」という神様のご指示と、沼矛(ぬぼこ)は、見事に対になっている言葉とわかります。
天の沼矛を用いて固めるべき場所は「漂っている国」です。それはまだ固まっていない、流動的な状態にあるということです。
別な見方をすれば、国が「国家の体をなしていない」状態です。
その「国家の体をなしていない国」を固めるのは「矛」だと、古事記は書いています。
このことは、価値観がバラバラで、人々が共通の国家観やアイデンディディを持たず、それぞれの個人が手前勝手な幻想でおのれの欲望ばかりをぶつけているような社会、つまり統一的国家としての、あるいは国家家族としての団結も結束も国家国民としての使命感さえも失われたような、混沌とした状況をまとめ上げるのは、「霊的な力で人々を呼び招く、矛の力しかない」ということを古事記は述べているということになります。
もっというなら、国民の意識がバラバラな混沌にあり、それを修理し、固めるためには、その混沌の中に矛、つまり武器を差し入れて、ぐるぐるとかきならすしかない、ということを古事記は説いている、もっというなら、日本の神代からの知恵、もしくはそれが縄文以来の日本人の知恵である、ということになります。
要するに「固成(かためなす)」ためには、「矛(ほこ)」の力が必要であるということを古事記は説いているわけです。
「武」が必要なのではないのです。
「矛」が必要なのです。
そう古事記は書いています。
「武」というのは、「矛を止める」と書いた字です。
つまり、矛を止めるのが「武」、
止めずに用いるのが「矛」です。
要するに古事記は、我が国の神代の昔からの知恵として、固めるためには「むしろ積極的に矛を用いよ」と述べているのです。
これがChinaの文化と日本の文化の違いです。
Chinaの文化では、武は、どこまでも「矛」を止めるためのものです。
つまり守るために戦うことが正義とされるわけです。
逆にいえば、「守るためなのだ」と言いさえすれば、いくらでも武を用いることができることになります。
このことが結果として、争いを招き、度重なる戦乱を招いてきたことは、Chinaの歴史が証明しています。
これに対し我が国の神代からの知恵は、混沌としているものをまとめあげるのは「矛」の力である、と説いているわけです。
強力な武装、圧倒的な武力こそが、余の混沌を鎮め、修理し、固め成していくのだと説いているわけです。
これは武力を行使するとか、戦いをして殺戮するとかということではなく、むしろそれを未然に防ぐ、戦いそのものを実質的に抑止することです。
武を止めるとか、守るとかいうのではなくて、むしろご神意にもとづく圧倒的な攻撃力を初めから保持することで、無用な争いを未然に防ぎ、非道を退けて正道を貫くという姿勢が、実は、古事記のこの修理固成と天の沼矛の記述の中に明確に示されているわけです。
さらに古事記は、その矛を用いるに際して、常に「日を背負いて」と、これは神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこ)の抄に出てきます。
「日を背負う」というのは、「日」は、天照大御神ですから、天照大御神を背負うこと。
そしてその天照大御神の姿勢は、どこまでも「シラス」・・・つまり民をこそ「おほみたから」とするものですから、民衆が豊かに安心して安全に暮らすことができるためにこそ、矛は用いるべし、というのが、古事記に一貫した姿勢となっているわけです。
本当に古事記は、奥が深いです。
その古事記を、ただの子供向けの童話や、荒唐無稽な根拠のないつくり話としての「神話」としてしか学ばない、読まなことは、本当にもったいないことであると思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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