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日本文化というのは、間口が広くて奥行きが深いのが特徴です。
たとえば茶道。お茶を飲むだけなら幼児にもできます。しかし道を極めようとすれば一生かけても追いつかない。
剣術もそうです。ただの棒振りなら子供にもできます。しかし道を極めようとすれば一生かけても追いつかない。
古事記も同じです。子供向けにはウサギさんを助けた物語でも良いのです。しかし大人が読むのに子供と同じレベルでは古事記が泣きます。
古事記はこれからの日本人の必読書です。
大人が読む古事記。
それこそが現代日本人に求められる書であると思います。

古事記

あたりまえのことですが、神話と童話は違います。
神話は神様の物語ですが、童話はただの子供向けのお伽噺(とぎばなし)です。
その神様の物語も、童話と古事記では意味が異なります。
古事記は、7世紀に我が国の統一史書として編纂されたもので、そこに書かれているのは「根拠のないつくり話(=英語のMyth)」ではなくて、神語(かむかたり)です。
神語(かむかたり)というのは、私たちの共通のご祖先の物語です。
いまを生きている1人が生まれるためには、父母の2名が必要ですが、その父母が生まれるためには4人の祖父母が必要です。
これをずっとさかのぼっていくと、いま、ひとりが生まれるためには700年前の1億3千万人のご先祖が必要になってしまいます。
しかもいまの1人が生まれるために1億3千万人ですから、いまの2人のためにはその倍、3人のためにはその3倍の人口が計算上は必要になってしまいます。
けれど700年前というと鎌倉時代ですが、当時の人口は699万人です。
つまりご先祖の数が足りません。
これが何を意味しているかというと、ご先祖がかぶっている、ということです。
つまり700年(昔の日本の人口なら500年)以上、時代をさかのぼったら、そこに登場する昔の人々は、○○家のご先祖ではなくて、日本列島に住むみんなの共通のご先祖ということになります。


鎌倉時代といえば、源頼朝や北条政子が活躍した時代ですが、もとからの日本人であれば、いまの日本人全員に、その頼朝や北条政子のDNAの一部が入っていることになります。
ですからもっと古い時代、たとえば平安時代くらいまで行くと、紫式部や和泉式部、清少納言や安倍晴明などのDNAを、いまの日本人は(外来者は別として)全員が持っている、言い方を変えると、全員が血の繋がりを持っているということになります。
人は死んだら仏様になって仏壇にお位牌が飾られますが、各家ごとのご祖先は、それぞれの家の守り神となられます。
それが700年さかのぼったご祖先は、すべての家系の共通の神様ということになります。
つまり日本人にとっての、神語(かむかたり)というのは、日本人共通のご祖先の物語であるわけです。
古事記に書かれた神語というのは、こうした考え方に基いて書かれています。
もちろん、はるか古い時代のご先祖となれば、もはや八百万の神々どころか、もっと霊格の高い神様ということになりますから、それらは、ただの神ではなく、大神とか、大御神と書かれるようになります。
従って、古事記を学ぶということは、古事記に書かれた神話を、子供向けの童話のようなものと決めつけたり、あるいは古事記に書かれた文章から想像力を働かせて、いきなり霊的なものや不可思議な世界に足を踏み入れるということとは違う気がします。
早い話、ヤマタノオロチが宇宙的ダークマターの象徴であって、スター・ウォーズ・シリーズのダークスペイダーが遣わした怪獣であって、これを倒したスサノオはフォースを使うジェダイの騎士だったのだとかいうように想像をたくましくすることは、もちろんクリエイターさんの世界では、それはそれで良いのかもしれません。
しかし「古事記を学ぶ」という姿勢からは、遠いものと言わざるをえないと思います。
同様に、ヤマタノオロチが怪獣だという読み方も、小学生向けなら、それはそれで良いと思います。
日本の神話は、遠い昔には祖母から孫へと語り継がれていたからです。
しかし良い年をした大人が、小学生と同じレベルでしか読めないというのでは困りものです。
実はこれは、あらゆる日本文化に共通していることで、すべての日本の文化は子供でわかるように間口が広くできています。
たとえば剣術も、ただの棒振りなら三歳児でもできます。
けれど剣術を極めようとすれば、これは一生かかっても、到達は難しい。
つまり間口は広いけれど、奥行きがとんでもなく古いのです。
実はこのことは、1万年以上続いた縄文時代の私たちのご祖先の生活に深く関係しています。
縄文時代のムラでの生活は、若者や壮年期にある男女は、男なら山や海に猟や漁に出かけます。女性なら川に洗濯に、あるいは山に山菜採りに出かけます。
従ってムラに残るのは、足腰の弱ったお年寄りと子供たち、それと赤子を抱いた婦人だけになります。
縄文時代の遺跡からは、対人用の武器がいまだ一点も出土していませんから、きわめて平和な中に、そのような生活が営まれていたと考えられます。
こうした生活状態の中で、まだ働きに出れない子供たちの教育は、もっぱらムラで軽作業を行うお年寄りの仕事となっていたであろうことは容易に想像することができます。
そしてお年寄りたちは、日常的な軽作業を愛する孫たちに手伝わせながら、古い昔のご先祖の物語などを子供たちに語り継いたことでしょう。
そしてその物語は、1万年という途方もなく長い時代を語り継がれる中で、自然と浄化され、子供たちによりわかりやすく、しかも生きる上での大切な物語へと進化していったということは、これまたきわめて常識的に考えうることであろうと思います。
こうして生まれたのが、我が国における神語(かむかたり)です。
おそらく同様のことは世界中にもあったものと思います。
しかし、残念なことに大陸では、人々が殺し合い、奪い合い、結果として神語が失われて行きました。
日本は幸いにも島国であったために、そうした万年単位の古い時代の言い伝えが、そのまま神語として残ったわけです。
そして7世紀という、国家の創成期に、我が国が統一的な史書として、全国各地に伝わる様々な伝承や神語を、まる30年かかりで集大成してできたのが古事記です。
つまり古事記には、生きるための知恵や、組織や国家形成における深い知恵が、神語を通じて書かれているということになります。
およそすべての書は、何らかの目的を持って書かれます。
古事記が国家の統一の一翼を担うものとして書かれたということは、古事記には統一国家形成にあたっての、縄文以来の1万4千年にわたる日本の知恵が結集しているということです。
ですから古事記を、ただの想像で読むことは、すくなくとも大人が読む姿勢としては、あまり良いこととは思いません。
では、古事記をどのように読むのか。
古事記は漢字で書かれていて、大和言葉は「以音」で注釈として示されています。
それをその通りに読み進むことが、古事記を読む姿勢の根本といえると思います。
古事記は漢字で書いてあるのだから、その漢字の持つ意味や漢字の成り立ちを踏まえて読み解く。
「以音」は大和言葉だから、古語にその意味を求める。
私が『ねずさんと語る古事記 壱〜参』で行ったことは、この2つです。
そしてそのような古事記の読み解きは、不思議な事に、この本が本邦初になります。
お読みいただき、ありがとうございました。
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