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この物語を最初にブログで紹介した頃、大石伍長なんていう人物はいなかっただとか、これは信憑性のないただの作り話だとか、かなりのご批判のコメントをいただきました。
けれど大切なことは、いたかいなかったではなくて、そこから私たちが「何を学ぶか」です。
同じようなケースは他にもたくさんあったということです。
英霊のみなさんのすべての思いは、後を託された私たちが築く未来にあると思うのです。

20170808 大阪大空襲
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【お知らせ】
 7月15日(土)18:30 第42回 倭塾 公開講座
 7月17日(祝・月)18:30 CGS公開講座(幕末史)
 7月23日(日)14:00 第1回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
 7月27日(木)18:30 第17回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 8月 9日(水)18:00 新潟県新発田市講演(古事記)
 8月13日(日)14:30 東京・世田谷講演(古事記)
 8月15日(火)14:30 ねずさんと靖国神社昇殿参拝
 9月 2日(土)18:30 第18回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 *****
昭和20(1945)年3月13日深夜から14日未明にかけて、グアムを出発した274機の米軍B-29の大編隊が大阪の町を襲いました。
世に言う「大阪大空襲」です。
約2千メートルの低空から、深夜の一般家屋をねらったこの空襲は、大阪の町に大火災をもたらしました。
そして一般の民間人3,987名の死者と678名の行方不明者を出すと言う大惨事を招きました。
九州の任地で、この報に接した大石清伍長は、請願休暇をもらい、一昼夜をかけて大阪駅にたどりつきました。
大阪駅のプラットホームからみた大阪の街は、まるで焼けこげたトタン板を投げ出したような扁平になってしまっていました。
見渡す限りの焼け野原です。どこを見ても瓦礫の山でした。
その瓦礫の中に、男とも女とも区別がつかない黒こげの死体が、何百と散乱していました。
大石清伍長は、焼け落ちた電線や塀の倒れた上を踏み越え、松坂屋の残骸を目じるしに歩きだしました。
心の中で、ずっと
「生きていてくれよ、
 父ちゃん母ちゃん、
 静(しい)ちゃん」
と叫び続けたそうです。
「静(しい)ちゃん」というのは、彼の妹の静恵さんのことです。


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20170526 古事記弐


松坂屋の裏手にあった彼の家の附近は、あとかたもなくなっていました。
どこがどの家やら分らないほど焼けくずれ、飛散した瓦や壁土に半ば埋もれた町会の防空壕だけが、暗い空洞をみせていました。
近所や隣組の人たちの姿も見えません。
探し疲れた大石さんは、その夜、壕のなかで眠りました。
翌日、大石さんは、やむなく隊に帰還しています。
その大石さんのもとに、3月25日、一枚の郵便が届けられました。
それは和歌山県の新宮にある母の実家を継いでいる、伯父からのものでした。
母と妹は無事とのことでした。
大空襲の前夜、父のすすめで天王寺から電車に乗せられ、東和歌山駅から鉄道で新宮に疎開していたのです。
まさに危機一髪でした。
父は、亡くなっていました。
国民学校(いまの小学校)の教師をしていた父は、空襲の夜、学校に宿直していて、殉職したのです。
大石兵長は、その日の日記に次のように書きました。
「あゝ訓導としての使命を果せし立派なる父の死。
 ありし日の父の温顔を思ひうかべなば、
 万感、胸にこみあげ涙とめ難し。」
3月28日、沖縄に米軍が上陸を開始しました。
大石兵長のいる基地からも、沖縄に向けて振武特攻隊が出撃しました。
その日の午後、特攻の編成発表ありました。
大石兵長も特攻要員を拝命しました。
翌3月29日、
沖縄に向けて出撃した特攻機の戦果が発表されました。
轟沈 戦艦  1
   巡洋艦 3
   駆逐艦 6
撃破 戦艦若くは巡洋艦 9
昭和20年4月1日、その日は、満開の桜に、雲ひとつない青空が広がる日でした。
その日、大石さんのもとに、新宮の伯父から電報がありました。
「母、重態。父の死の衝撃と旅の疲れが原因」
大石さんは、鎌本軍曹殿の厚情を得て、区隊長殿から休暇をいただきました。
その日の15時、新宮の母の実家に向いました。
出発のとき、軍曹殿が「これ、みんなからだ」と見舞金をくれました。
大石さんは、
「この温情、死すとも忘るべからず。
 父を失ひたる病床の母、
 幼なき妹、暗澹たる思ひ。
 車中にて涙流るゝ」
と日記に書きました。
このときの第六航空軍本部への鎌本軍曹の書状です。
「一、ト号隊員ノ遺族ニ関スル相談。
 〔相談〕
 隊員大石清伍長ノ父ハ
 国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(四十四歳)
 家ニハ 重病ノ母(四十四歳)、妹(十一歳)一人ナリ
 家産ナク 父ノ収入ニテ生活シアリタリ
 家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ」
釜本軍曹は、特攻隊として旅立つことが決まっている大石兵長に代わり、軍の本部に「家族の生活の保証」を相談してくれていたのです。
日本陸軍を悪くいう人がいますが、すくなくとも、このようなきめ細かい兵員管理が行き届いていたことは事実です。
こういうところは、現代の行政よりもはるかにマシと思います。
また、戦後のGHQは、理屈の上で日本軍の存在を否定し、そのため腕や足を失くされたり、目や耳を失われた傷痍軍人さんへの恩給もすべてカットし打ち切りました。
傷痍軍人への恩給が復活したのは、昭和27年に日本が主権が回復してからです。
多民族に支配されるということは、そういうことだということを、私たちは学ぶ必要があります。
話を戻します。
昭和20(1945)年4月8日午後7時、大石さんは隊に戻りました。
帰省の間に、母も亡くなりました。
彼は、父母の遺骨と遺品を、丹鶴城近くの桜の見える墓地に納骨してきました。
納骨のとき伯父が言いました。
「(妹の)米子は、
 小(こま)い頃から
 お城の花が好きじやった」
大石さんは、ただ頭を下げることしかできませんでした。
大石さんは、母の実家に帰るとき、伯父に航空ウイスキーとタバコを持参しました。
叔母にはドロップと落下傘のマフラーを渡しました。
妹の静恵(静(しい)ちゃん)には、チョコレートと乾パンをみやげにしました。
別れ際、妹の静(しい)ちゃんのことを、伯父に「くれぐれもよろしく」とたのみました。
隊に戻るため新宮駅で別れるとき、妹の静恵は、泣いていました。
伯父夫婦も泣いていました。
せめてあと数日、妹の傍に居てあげたかった、それがいつわりのない大石兵長の気持ちでした。
4月22日の午後、特攻攻撃に関する授業がありました。
九七戦を爆装して燃料タンクを装着すると、速度が150km/hに落ちます。
その低速で、敵戦闘機網をかいくぐり、猛烈に対空攻撃をしかけてくる敵艦隊めがけて突入するというものです。
ほとんど無理といっていいくらいの作戦です。
出撃すれば、帰れない。
大石さんは、自分の命は、ながくてもあと1ヶ月あるかないかと思いました。
思いを整理するために、妹に写真、伯父夫婦に手荷物などを小包にして送りました。
荷造りしていると、鎌本軍曹はじめ隊員のみんなが、これも入れろよと、航空糧食や煙草その他を渡してくれました。
その中には、隊のみんなで書いてくれた、妹への激励文もありました。
清は、隊のみんなとの、集合写真を同包しました。
【妹への手紙】
 静(しぃ)ちやん お便りありがとう。
 何べんも何べんも読みました。
 お送りしたお金、
 こんなに喜んでもらえるとは思いませんでした。
 神だな(棚)などに供へなくてもよいから、
 必要なものは何でも買って、つかって下さい。
 兄ちやんの給料はうんとありますし、
 隊にいるとお金を使うこともありませんから、
 これからも静(しず)ちやんのサイフが
 空っぽにならないよう、毎月おくります。
 では元気で。
 おじさん、おばさんによろしく。
 兄ちやんより」
昭和20(1945)年5月14日、福田助教殿が、沖縄洋上で敵艦船に突入し、壮烈な最後を遂げられました。
練成飛行隊では担任の先生でした。
当時の助教授殿の、明るい笑顔と勇姿が頭をよぎりました。
助教授が遺した遺文です。
「捨身殉国斃而後不已」
 捨て身の殉国、
 倒れて後に已(や)まん」
5月20日、大石さんは最後の日記をしたためました。
「いよいよ出発だ。
 苦楽をともにした整備隊員たちとも別れを告げ、
 今日、俺は機上の人となる。
 整備隊員の見送る中を飛び立ち、
 上空で翼を振り、
 機首を鹿児島に向ける。
 高度3000メートル。
 はるか機上から、
 亡き父母の霊に、
 幼き妹に別離を告げる。」
大石さんは、大空に去って行きました。
それからしばらく経ってからのことです。
妹の静ちゃんのもとに、一通の手紙が届きました。
【大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)】
 大石静恵ちやん、
 突然、見知らぬ者からの手紙で
 おどろかれたことと思います。
 わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
 伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。
 そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。
 おとどけいたします。
 伍長どのは、
 静恵ちやんの作った人形(特攻人形)を
 大へんだいじにしておられました。
 いつも、その小さな人形を
 飛行服の背中に吊っておられました。
 ほかの飛行兵の人は、
 みんなこし(腰)や
 落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸に
 ぶらさげているのですが、
 伍長どのは、突入する時、
 人形が怖がると可哀そうと言って、
 おんぶでもするように背中に吊っておられました。
 飛行機にのるため走って行かれる時など、
 その人形がゆらゆらと
 すがりつくようにゆれて、
 うしろからでも一目で、
 あれが伍長どのとすぐにわかりました。
 伍長どのは、
 いつも静恵ちやんと
 いつしよに居るつもりだつたのでしょう。
 「同行二人」
 仏さまのことばで、そう言います。
 苦しいときも、さびしいときも、
 ひとりぽつちではない。
 いつも仏さまがそばにいて
 はげましてくださる。
 伍長どのの仏さまは、
 きつと静恵ちやんだったのでしょう。
 けれど、今日からは
 伍長どのが静恵ちやんの「仏さま」になって、
 いつも見ていてくださることゝ思います。
 伍長どのは
 勇かんに敵の空母に体当りされました。
 静恵ちやんも、
 立派な兄さんに負けないよう、
 元気を出して勉強してください。
 さようなら。」
さて、最後になりますが、大石伍長の静ちゃんに宛てた遺書が遺されています。
ご紹介します。
【大石清伍長の遺書】
 なつかしい静(しぃ)ちやん!
 おわかれの時がきました。
 兄ちやんはいよいよ出げきします。
 この手紙がとどくころは、
 沖なは(縄)の海に散っています。
 思いがけない父母の死で、
 幼ない静(しぃ)ちやんを
 一人のこしていくのは、
 とてもかなしいのですが、
 ゆるして下さい。
 兄ちやんのかたみとして、
 静ちやんの名で預けていた
 郵便通帳とハンコ、
 これは静ちやんが
 女学校に上るときにつかって下さい。
 時計と軍刀も送ります。
 これも木下のおじさんたのんで、
 売つてお金にかえなさい。
 兄ちやんのかたみなどより、
 これからの静ちやんの
 人生のはうが大じなのです。
 もうプロペラがまわっています。
 さあ、出げきです。
 では兄ちやんは征きます。
 泣くなよ静ちやん。
 がんばれ!」
この二つの手紙は、神坂次郎(こうさかじろう)著『今日われ生きてあり』(新潮文庫)の中で、「背中の静ちゃん」として収録されている手紙です。
ブログ用に口語体に編集して掲載させていただきました。
原文はネットで読むことができます。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/120915.html
この本が出た時、神坂次郎氏が時代小説家であったこと、そして出撃した特攻隊員の中に「大石 清」という名前がなかったことなどから、このお話が世に出た当時、このお話が「単なる創作だ」という噂がかなり出回りました。
けれど、本文には妹の静恵さんが和歌山の木下という伯父のもとに引き取られたとあり、巻末には木下美代子(和歌山)という名前が取材先として書かれています。
おそらくこの方が大石兄妹の縁者であろうと考えられます。
戦後の一時期、元軍人であったとか、特攻兵であったとかいうだけで、世間からまるで人非人であるかのようなイジメを受けた時代がありました。
それは世間というより、三国人・戦勝国人を自称した日本人のような顔をして日本語を話す日本人でない人たちが中心になって行ったものでした。
静ちゃんは女児です。
その女児のことを思って、著者や遺族が実名を伏せるよう配慮したことも、ですから十分に考えられることなのです。
それに、この大石伍長のようなお話は、戦時中たくさんあったのです。
特攻隊に限らず、戦地で立派に戦われた幾百万の日本の兵士たち全員の、おひとりおひとりに、たいせつな人生があり、たいせつな家族や友や恋人がいたことを思えば、それは当然のことです。
ですから、大石伍長という人物がいたかいなかったかよりも、そういうことがたくさんあったのだという事実の方が、私にはとても重要なことと思えます。
彼らは、その大切な人が未来の日本に生きれるよう、立派に戦い、散っていかれました。
そして戦時中、自分の死を前にした兵隊さんたちが、何よりも大切にしたことが、自分の命ではななく、家族や弟や妹や、恋人など、自分の大切な人の命でした。
そしてその大切にしていただいた命こそ、いまを生きている私たちの命です。
戦後の日本の平和は、この大石清兵長の手紙に象徴される思いやりの心をもった若者達が、立派に戦ってくださったおかげでもたらされたものです。
「兄ちやんは征きます。
 泣くなよ静ぃちやん。
 がんばれ!」
この言葉は、たくさんの大石伍長たちからの、彼ら「生きることができなかった未来を生きている私たち現代日本人に送られた言葉」といえるのではないでしょうか。
※この記事は2012年11月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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