←いつも応援クリックをありがとうございます。
昨日の穴澤大尉とか、今日の宮川少尉とか、ウチの孫が、そろそろ同じ年頃にさしかかってきています。
もちろん、特攻隊のパイロットたちは、拙孫などとは比較にならないくらい優秀な子たちです。
親御さんのお気持ちや、爺ちゃん、婆ちゃんの気持ちを考えると、本当にいたたまれない気持ちになります。
彼らは、年寄りの自分たちを護るためにちっていくのです。
逆じゃないですか。
年寄りが先に死ななきゃならんのです。
そうじゃありませんか?
遠い昔のことです。
いまさら私たちが身代わりになることもできません。
けれどそのかわりに、孫達に誇れる立派な日本を築いて行くために、自分たちにできることをして行こうではありませんか。
それこそが彼らへの最大の御恩返しだと思うのです。

◆【お知らせ】◆
7月15日(土)18:30 第42回 倭塾 公開講座
7月17日(祝・月)18:30 CGS公開講座(幕末史)
7月23日(日)14:00 第1回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
7月27日(木)18:30 第17回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
8月 9日(水)18:00 新潟県新発田市講演(古事記)
8月13日(日)14:30 東京・世田谷講演(古事記)
8月15日(火)14:30 ねずさんと靖国神社昇殿参拝
9月 2日(土)18:30 第18回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
*****
宮川三郎少尉といえば、知覧航空基地から特攻隊として飛び立ち、ホタルになって還ってきたというお話で有名です。
以下は、そのホタルが還ってきた富屋食堂の鳥濱トメさんのお孫さんで、鳥濱トメ顕彰会、薩摩おごじょ経営者の赤羽潤さんから直接伺ったお話です。
***
特攻作戦は、知覧を始め、宮崎の都城など九州各地や、台湾の航空基地からも出撃していますが、なかでも知覧が本土最南端であったことから、陸軍の全特攻戦死者1,036名のうち、半数近い439名が、ここから出撃されました。
富屋食堂は出撃前の特攻隊員たちの憩いの場でした。
トメさんは、隊員たちから母のように慕われていました。
ですからトメさんは、出撃されたおひとりおひとりのことを、全員分、まるで昨日のことのようによく覚えておいでした。
なかでも宮川少尉のことは、とても印象に残っていて、何度も何度も聞かされました。
宮川さんが知覧に来られたのは昭和20(1945)年5月の終わりごろです。
宮川さんは新潟の人で、雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。
宮川さんは、知覧に来る前、万世飛行場から一度特攻に出撃しています。
しかしこのときは機体が故障して引き返しています。
「自分ひとりだけが生き残った」
宮川さんはそのことをとても気にしていて、そのことを鳥濱トメさんへの手紙にしたためています。
◆youtubeの動画サイトをはじめました。

↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
新しい動画がアップされました!
◆『ねずさんと語る古事記・弐』
まだお求めでない方は、お早めにどうぞ。

「先輩、同期生がつぎつぎと散華し、
自分たちばかり残るというのは
心苦しいことです。
この心はわかっていただけると思います。
だが、決して死を早まらんつもりです。
任務を完遂するまでは、断じてやります。
ご安心ください。」
これが当時の19歳の青年の手紙です。
その宮川さんいる知覧に、宮川さんの故郷の同級生が赴任してきています。
その同級生に先に出撃命令が出ました。
出撃するということは、死ぬということです。
「俺もすぐ行く。靖国神社で会おう」
そう言う宮川少尉に、同級生は言ったそうです。
「俺は先に故郷の小千谷に行くよ。
そこでお前が来るのを待ってる。
靖国には一緒に行こうな」
「わかった。すぐ行くからな」
「すぐに来なくていい。
貴様はゆっくり来い。
何年でも俺は待っているから」
宮川さんは、出撃する前夜の6月5日に、一緒に出撃する仲よしの滝本恵之助曹長と二人で、富屋食堂にやってこられました。
二人は、「明日出撃です」と、ごきげんでした。
そしてその日は、ちょうど宮川さんの20歳の誕生日でした。
トメさんは、宮川さんのために、お赤飯を炊いてあげていました。
二人はお赤飯を、おいしいおいしいと召し上がっていました。
その帰りがけ、宮川さんが、突然、気がついたように言ったのです。
「おばさん、
俺、明日も帰ってくるよ。
ホタルになってね。
滝本と二匹で。
だからおばさん、
追っ払ったらだめだよ」
まるで、冗談のような口ぶりだったそうです。
トメさんは、食堂にくるときどこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめませんでした。
翌6日は、どんより曇った日でした。
この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。
トメさんも見送りに行きました。
その日の夜のことです。
出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。
二人は編隊を組んで飛び立ったのですが、どうにも視界が悪い。
そのため、何度も滝本さんは宮川機の横に並んで、
「視界が悪い。引き返そう」
と合図を送ったそうです。

けれど、宮川さんはその都度、手信号で、
「俺は行く。お前は帰れ」と合図しました。
何度か目の合図のあと、滝本さんは引き返しました。
宮川さんは、そのまま雲の彼方に消えていかれました。
滝本さんは、その話をされながら、
「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」と言って、涙をぽろぽろとこぼしました。
夜の9時ごろです。
食堂には、トメさんの娘さんが二人と、滝本さん、奥の広間には、明日出撃予定の隊員たちが7〜8名いて、遺書を書いていました。
トメさんは、なんとなく不思議な気持ちになって、食堂の入り口の戸を、すこしばかり開けました。
すると、それを待っていたかのように、一匹のホタルが、ふら〜と食堂にはいってきて、天井のはりところに、とまりました。
それは、とても大きなホタルでした。
大人の親指くらいの大きさがありました。
ホタルの季節には、まだ少し早いです。
そんなに大きなホタルがいること自体が、不思議です。
そのとき、娘の礼子さんが、
「あっ、宮川さんよ。宮川さん。ホタルになって帰ってきた!」と叫びました。
滝本さんもびっくりされた様子でした。
トメさんは、みんなに言いました。
「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」
その場にいた全員で、何度も何度も「同期の桜」を歌いました。
涙がとめどなくあふれました。
ホタルは長い間、天井のはりに止まっていました。
歌が終わったとき、ホタルは、すっといなくなりました。
宮川少尉は、新潟県小千谷市出身で、旧制新潟県立長岡工業高等学校を首席で卒業し、昭和18年10月に明治神宮で行われた第一陣学徒出陣壮行会にも参加された方です。
トメさんは、戦争が終わったあとも、こうして出陣され知覧を飛び立たち散華された特攻隊員達のために、もとの知覧基地に、一本の墓碑を立て、そこに来る日も来る日も、毎日お参りされました。
毎日です。自宅からその墓碑まで歩くのに、足の悪いトメさんは、片道に30分もかかりました。
その道のりを、暑い日も寒い日も、毎日お参りされました。
雨降りなどは、たいへんです。片手に杖をつき、片手にお線香を大事そうに抱えてお参りに行っていたのです。
両手がふさがっているため、傘を持つことができません。
なのでトメさんは、雨が降ると、ずぶぬれになってお参りしていました。
そのトメさんが、お孫さん達に、繰り返し語ったことがあります。
それは、
〜〜〜〜〜〜
特攻隊のみなさんは、
みんなとっても「思いやり」のある子たちだったんだ。
あの子たちが行ったのは、
軍の命令だから逝ったとかそういうことじゃなかったんだ。
あの子たちはね、
故郷にいる親御さんや、
兄弟の方々や、妹や大好きな人たちを守ろうとして、
旅だって行ったんだ。
誰だって、死ぬのはこわいよ。
そのことは、昔の人もいまの人も、なんにも変わらない。
あの子達だって、こわかったんだ。
でもね、
あの子達は、みんなを守るため、
自分の命を犠牲にしてでもみんなを守りたいっていう
「思いやり」の心があったんだ。
私はね、
出撃した全部の隊員さんたちを知ってるよ。
ぜんぶ、私の子供たちだったよ。
あの子たちはね、
人を、故郷を、大好きな人を「思いやる」心があったから、
自分の命を犠牲にしてでも、
まわりの人たちを守ろうとして出撃して行ったんだ。
〜〜〜〜〜〜
知覧基地で、特攻に行く隊員さんたちは、全員、三角兵舎と呼ばれる建物の中で寝起きしてました。
その三角兵舎は、松林の中にありました。
戦争が終わると、その三角兵舎は、全部取り壊されました。
何年も経ってから、トメさんの娘さんの礼子さん姉妹と、まだ幼かった(このお話を聞かせてくださったお孫さん)たちみんなで、その松林に行かれたそうです。
ふと眼にしたのは、その松の木の一本一本に刻まれた文字でした。
そこには、亡くなられた特攻隊員さんたちが、ご自分で掘ったのでしょう。
筆跡の異なるお名前が、いっぱい刻まれていたのです。
それを見たとき、わかったそうです。
彼らだって、死にたくなかった。
「俺たちが、生きて、呼吸して、
ここで寝起きして、
生きていたことを、
決して忘れないでくれ!」
その木に刻まれたお名前のひとつひとつに、そういうメッセージが込められているのだと。
このことに気付いたとき、その場に居合わせた全員が、声を絞り出すようにして泣いたそうです。
文中にある鳥濱トメさんの娘さんの礼子さんは、戦後生き残って結婚し、赤羽礼子さんとなりました。
そして、『ホタル帰る』というご著書をあらわされています。
その本の一節をご紹介します。
*******
無事にトメが退院し、富屋食堂は数ヶ月ぶりに元に戻った。
年が明けて昭和19年。
少年兵は第十期生が巣立ちを終え、それぞれに南方の空に飛び立っていき、代わって第十一期生になっていたが、池田、川畑らの5人組の指導教官は残っていた。
その日曜日、二女の礼子は初潮を見てお腹が痛いため、奥の自分の部屋で寝ていた。
トメは娘の成人を祝って朝から大量に赤飯を炊いて、いそいそと立ち回っていた。昼頃になると少年兵たちが三々五々集まってきて、富屋は賑やかになった。
いつものように若い教官の五人組も集まっていた。
「おばちゃん、きょうは礼ちゃんはいないの」
「礼子はね、きょうはおめでたい日なの。
だから奥で寝てるけど」
話し声は寝ている礼子にも聞こえた。
「さ、皆さん、きょうはおめでたい日なので、
お赤飯を炊いたのよ。
お祝いだからどんどん食べてね」
「お赤飯? すげえな」
と池田たちは半ば感動し、半ば驚喜していた。
「でも、おばちゃん、なんのお祝い?」
「なんのお祝いって、皆さん喜んでください。
礼子が女になったのよ」
それが聞こえて来ると礼子はふとんの中で赤くなった。
「礼ちゃんが女になった?
おばちゃん、変なこというなあ。
おれ、初めっから礼ちゃんて女の子だと思っていたけど、
礼ちゃんて女じゃなかったの」
トメはくすくす笑った。
「それにしても変じゃない。
礼ちゃんが男だったとしても、
どうしていまごろ女になるのさ」
体は大きくて、お国のために戦うと立派な覚悟を持っていても、まだこの子たちは数えで19歳。
「女になる」という言葉を知らないほどに純粋無垢なのだ。
「さあ、皆さん、どんどんおかわりしてよ」
その言葉の意味がどうであろうと、ここのところは色気より食い気。
少年たちはそろってパクウパクと赤飯にかぶりついた。
********
この文は、草思社文庫、赤羽礼子著『ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子』からの抜き書きです。
285ページあるうちの、はじめの50ページからの抜き書きですから、ほんの出だしのところです。
もう、このあたりを読んだだけで、もう涙があふれて。
戦前の日本にあって、戦後の日本にないもの。
その最大のものは、「純心」と「思いやり」かもしれません。
自分の全知全霊をかけて、ときに自らの生命さえもかけて人を思いやる心。
私達の、日本の心を取り戻す戦いというのは、
「思いやりの心」を取り戻すための戦いなのかもしれません。
日本人は、
10年で、日本の国体を抜本的に改革し
20年で、清国を破り
40年で、大国ロシアを破り、
80年で、世界を相手に戦って欧米の植民地時代を終焉させました。
10、20、40、80という数列からしたら、次にくるのは160年目です。
160年目というと、平成37(2025)年です。
おそらくそのときに日本が、日本人が世界に示すもの。
それは、おそらく人類が人としての純心に目覚めること、そして互いの思いやりの心なのかもしれません。
◆鳥濱トメ顕彰会
http://www.torihamatome.jp/
(よろしければ、是非会員に。)
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は、2012年10月30日の記事をリニューアルしたものです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。


ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓


