【お知らせ】
 4月30日(日)13:00 玉響講演会「甦れ、日本魂」(御茶ノ水ソラシティ)
 5月13日(土)18:30 第40回倭塾
日本史検定講座・第八期生募集中
応募多数につき4月末で募集を締め切ります。お早めにお申込みください」

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20170411 日本史検定講座

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ゲリラと疑われ、韓国兵に身体検査されるベトナム人女性 AP/AFLO
20170422 韓国兵に身体検査されるベトナム人女性
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「嘘も百回言ったら本当になる」という言葉がありますが、そうは思いません。
嘘は百回言おうが、千回、万回言おうが、嘘は嘘です。
真実には、千万回の嘘を、一瞬にして崩壊させる力があります。
たとえば、昔の和風住宅では、台所は陽のあたらない北東に置かれました。
これを左翼は、「女性の働く台所をそういう陽のあたらない場所に置いたのは、男尊女卑であり、女性蔑視の名残である」などと言います。まったくもってバカな話です。
そもそも昔は冷蔵庫がなかったのです。
そういう時代に、食料がすいたり痛んだりしないようにするためには、できるだけ風通しがよくて冷安場所に食料を保存しなければなりません。
ということは、陽のあたる東も南もダメです。西陽のあたる西もダメです。
となれば、北側に食料の保管場所を置くしかない。
そうなると、風通しを考えれば、朝日が入り、食料保管場所にも近い北東に台所を置くのは、実に理に叶ったことであったわけです。
そうでなければ、買ってきた食料がみんな腐ってしまうのです。女性蔑視どころか、これは生活の知恵です。
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女性といえば、そもそも日本の最高神は天照大神様で、女性です。
縄文時代の土偶も女性です。
「妻」という字は、Chinaで生まれた象形文字では、もともと女性が髪の毛の中に手を入れている姿をあらわす字です。
音読みが「サイ」、訓読みが「つま」です。
「つま」というのは、「つ」が「連なる(つらなる)」意で、「ま」は、「身(み)」が転じたもので、もともとも意味は「連れ身(つれみ)」といわれています。
要するに男女を問わず、配偶者をあらわす言葉です。
  八雲たつ出雲八重垣妻籠みに
    八重垣作るその八重垣を
この歌は、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治して櫛名田姫(くしなだひめ)を得た須佐之男命(すさのおのみこと)が、新婚の宮を造ったときに詠まれた歌で、ここに出てくる「妻」が、我が国の「妻」の字の初出です。
歌の意味は、「雲が涌きいでる地といわれる出雲の地で、瑞兆である八色の雲が涌きいでたので、そこに二人で暮らす新居を構えることにした。新居には誰もはいってこれないように、幾重にも垣根をめぐらしたよ。もう二人きりだよ」といった意味になります。
結婚の式を済ませ、ようやく二人きりになり、さあこれから愛し合おうといった、若さと情熱と愛が見事に詠み込まれた歌になっています。
ここでいう「妻」は、女房のことを指すわけではありません。「つま」は、あくまで「つれあう身」ですから、二人でひとり、男女でひとつ、といった夫婦和合の意味合いの言葉です。
つまり、夫婦間において、男女は「対等」です。
その「対等」というのは、互いの違いを認め合いながら、相互補完しあい、かつ自分も成長していこうという概念です。
要するに、男が上とか女が上とかいうのではなくて、男も女も対等な存在としての認識しか、もともとの日本文化には存在しなかった、ということです。
「女房」という言葉も、もともとは宮中の高貴な女性に与えられた部屋を指す言葉です。
「房」が部屋を意味します。
つまり「ウチの女房」というのは、わが家の高貴な女性という意味ですし、
「カミさん」になると、まさに「神様」で、しかもそのカミさんは「北の方」ですから、これは神々の中でも、もっとも強い神様です。
特に女性を大事にしたとかそういうことではなくて、日本では古来、男女がそれぞれに役割を果たすべき対等な存在として、あくまで共生するものとされてきた、ということです。
このあたりは、個を重んじるあまり、自分以外のすべてと対立し、闘争しようとする昨今の世界の流行要理も、はるかに奥深い伝統的な哲学が日本文化の中にあることをあらわしています。
ともあれ、日本的価値観や日本人としての文化観をただしく取り戻すこと。
そうすることで、対立と闘争ではない、和と結いと対等意識に支えられた日本的価値観を共有することができる。
そこには右も左もなく、等しく日本人として生きるという感激や感動があり、そういった感動こそが、戦後日本という、歪みを矯正する、新たな大道となっていくものであると思います。
もうひとつ大切な点は、嘘が主題になっている歴史認識には、
「ものの見方が単一になる」
という特徴があります。
たとえば、三内丸山遺跡に、有名な六本柱の巨柱があります。
そしてここを訪れる学者たちは、百人来れば百人とも、まったく別な解釈をします。
歴史というのは、「過去にあった事実を合理的に説明しようとするもの」ですから、六本柱の巨柱があるという事実を前に、そこには様々な解釈が成り立つわけです。
大東亜戦争も同じです。
戦いは、両当事者が互いの正義を賭して行うのですから、立場によって、あるいは見方によって、そこには様々な歴史観が生まれます。
たとえば、大東亜戦争は、正義の戦争であったのかそうでなかったのかは、どちらの側に立って解釈するかによって、まるで違った説明になっていくし、
あるいは、企業経営のための組織論を語ろうとするにあたって大東亜戦争の歴史を探ろうとするならば、そこにもまた異なった見方や解釈が成り立ちます。
現在起きている東芝の問題にしても、株主の立場で語るのか、経営陣の立場で語るのか、一般社員の立場で語るのか、得意先の立場で語るのかによって、見方は大きく異なってきます。
要するに、事実をどのように解釈し、説明しようとするのかが歴史ですから、そこには、立場や述べる目的の違いによって、様々な歴史認識が生まれるのが当然なのです。
ところが、ないことを「あった」と既定して、それを歴史として合理的に説明しようとする場合、そもそもが嘘なのですから、嘘を事実にみせかけるために、一見合理的と思われる単一の説明が行われます。
この場合、それが嘘とバレないようにするためには、その単一の歴史認識のみを、正史とし、他の解釈は一切認めないという立場を取らざるを得なくなります。
南京虐殺や、いわゆる従軍慰安婦問題などが、それです。
あるいは、戦前・戦中における日帝の朝鮮半島における横暴な植民地支配という論説も同じです。
もともとが虚構ですから、あることないこととりまぜて、ひとつのストーリーを描きます。
そしてそれ以外の歴史認識は一切認めない。
逆にいえば、一面的な見方しかしない、あるいは一面的な見方だけを強要するものは、歴史に関する限り、「それは嘘だ」ということです。
本来多面的な見方ができるものを、一方的な見方だけしか許容しないなら、その元になっている事実自体が、疑わしいということなのです。
十字軍の遠征を、キリスト教社会から述べるのと、イスラム社会の立場から述べるのとでは、同じひとつの事実であっても、ものの見方は180度違うものになります。
なぜそうなるのかといえば、十字軍の遠征は、事実、あったからです。
「歴史とは、過去にあった事実を合理的に説明しようとするもの」であり、
なぜそのようにするかといえば、
「歴史を学ぶことで現代を生き抜き未来を築く石杖にしようとする」からです。
つまり歴史は学ぶためにあるのであって、その学びは、いろいろな角度で歴史を眺めることで、さらに一層の重みを増してくるものであるといえると思います。
クリント・イーストウッドは、硫黄島の戦いを映画化するにあたって、米国側の立場から描いた戦いと、日本側の立場から描いたものと、二つの作品をつくりました。
このことについて、日本政府は、「春の外国人叙勲」で「映画製作を通じた日本とアメリカ合衆国との相互理解の促進に寄与」とした功績によって、クリント・イーストウッド監督に旭日中綬章を授与しています。
ときの首相は麻生太郎氏です。
映画を撮ったクリント・イーストウッドも立派なら、これを表彰した麻生総理(当時)も立派だと思います。
ところが、そうした歴史を「洗脳のために」利用しようとする人たちもいます。
歴史を使って人々を洗脳し、そもそもインチキによってできあがった国を、あたかも正当な国家であるかのように「みせかけようと」する人たちです。
そのような人たちにとっては、洗脳ための歴史だけが歴史であって、他の歴史観とは一切、妥協できません。
まして、その歴史認識が初めから虚構の上に成り立っていれば、これは絶対に譲れないものということになります。
こうした不条理を押し付けてきた場合の対処として、実は古事記はたいへんおもしろい対応を後世の私たちに教えてくれています。
どうするのかというと、そのような不実を働く人や国家に対しては、経済制裁を加えよ、というのです。
そして相手が貧乏になり、その貧乏になったのはお前のせいだとばかり攻め込んできたら、あらかじめ軍備を整えておいて、徹底的にやっつけろ、と教えてくれています。
そしてやっつけられた相手が、頭を下げてきたら、すぐに許してあげる。
けれど裏切ったら、すかさず制裁を加える。
攻めてきたら跳ね返す。
以下その繰り返しです。
このことは、海幸彦、山幸彦の段で、古事記は明快に説いています。
いちばんよくないのは、相手の言いなりになることです。
けれど、いいなりになったとしても、相手は、絶対に許すことはないということも、実は古事記に明快に描かれています。
古事記は、序文から、まさに知恵の宝庫です。
China朝鮮の、ただ日本への対抗のためだけに構成されたでたらめな歴史認識に対し、日本は何の対処もせずにきました。
それどころか、彼らにカネを与え、彼らの言い分を聞き、むしろ日本の方が譲歩を続けてきました。
その対応は、何の事はない、古事記に書かれた昔の日本人の知恵の、正反対を行っています。
古事記は、そうではなく、経済制裁を加え、相手が武力や暴力を用いてきたなら、すかさずやっつけなさいと説いています。
先輩たちが「神話が大事だ、神話を学べ」とおっしゃるのは、実はそこに、きわめて現実的な知恵が詰まっているからなのです。
神話は、子供向けの読み物としての側面もあります。
けれど、大人には大人の読み方があるのが神話です。
本来の大人として読む神話を取り戻すこと。
そのことは、日本を強くし、日本人が強くなれる知恵の宝庫でもあります。
お読みいただき、ありがとうございました。
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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。

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