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20170328 ウクライナ
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ウクライナは、もともとロシアの発祥の地で、「ヨーロッパの穀倉地帯」と呼ばれる肥沃な大地です。
小麦などが大規模に栽培され、人々はほとんどが敬虔なロシア正教に属しています。
そのウクライナに、旧ソ連の前身となる、宗教を否定した「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が誕生したのが、大正8(1919)年のことです。
旧ソビエト連邦というのは、このウクライナに出来た共和国に、大正11(1922)年になって「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」、そして「白ロシアソビエト社会主義共和国」等が合併して出来上がった連邦国家です。
ちなみに、どこかの国が崩壊して、異なる国になるとき、いきなりその国のエリア全域が別な国になることは、あまりありません。
その国の中央政庁のあるところから、離れたエリアがまず独立を宣言し、独立国となって中央政庁と内戦を繰り広げながら、他のエリアを独立にいざない、最後にはその国を乗っ取るという流れになるのが常套手段です。
その意味で、いまの沖縄の琉球独立問題や、北海道におけるアイヌ問題などは、実際にはもともと日本そのものでしかないものを、あたかもまったく別な民族のように言い立てて扇動して内戦を勃発させ、国家を破壊しようとする、これは実はれっきとした破壊活動となるという、たいへん危険なものであるということを、私たちは歴史から学ぶことができます。
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さて、下の写真は、帝政ロシア時代のウクライナ地方の絵葉書です。
おそらく1921年頃のものです。
つまり、ウクライナが、まだ共産圏に取り込まれて間もないころのものです。
二人の女性が、とても暗い表情をしていますが、それでもまだこのときは、お二人ともそれなりの体型をされています。
つまり「食える」状態にありました。

ソ連に取り込まれたばかりのウクライナの農民
ソ連に取り込まれたばかりのウクライナの農民

当時、旧ソ連の最大の外貨獲得手段が、ウクライナで産出される小麦でした。
ただ帝政ロシアの時代と、共産主義国であるソ連になってからでは、その輸出の仕方が、まるで違うものでした。
帝政ロシアの時代には、作物の出来高によって、余剰生産物となった小麦が輸出に回されました。
ところが旧ソ連では、クレムリンが、「これだけの収量を輸出に回すから国内で徴発せよ」と決めれば、その通りに徴発がなされるようになったのです。
そこに実際の出来高は一切関係ないとされたのです。
農作物は、天候によって毎年の収量が異なります。
収量の多い年もあれば、少ない年もあります。
ところが共産主義は、なにごとも「政治主導」です。
天候や農家の都合など関係なく、政治が収量と輸出量を決めれば、現実との辻褄は、後から合わせられます。
これが「政治主導」の恐怖の一面です。
収量に関係なく、収穫した作物が輸出に回されれば、年によっては、当然、ウクライナの住民たちの生活は苦しいものとなります。
ですから当時、ウクライナの民族主義者や、知識人、民主化推進の指導者たちは、さかんに政府批判を行いました。
ところがここにも、共産主義の恐ろしさが発揮されます。
ソ連政府は、こうしてソ連政府の行う徴発に抵抗したり、批判したりする者を、片端から逮捕、投獄したのです。
あたりまえのことですが、知識人や民族主義者を処罰したからといって、農業生産高があがるわけではありません。
加えていくら豊かな土壌に恵まれたウクライナでも、あまりに過度な収穫高目標は、現実論として達成不可能です。
小麦が当時のソ連における重要な輸出品、つまり外貨獲得手段であったということは、さきほど述べました。
ソ連政府は、いまどきのどこぞの国と同様に、世界中に政治工作員を送り込んでいましたが、彼らがそういう工作活動を広汎に行おうとすればするほど、ソ連政府には外貨が必要となりました。
ソ連政府は、そのためにこれだけの費用がかかるから、これだけの輸出をしなければならない、そのためには国内でこれだけの小麦の生産をし、これだけの小麦の徴発をしなければならないと、「政治的」に、机上で勝手に収量を決めました。
要するに、海外で工作活動をするための外貨を獲得するために、農業生産の実態などまるで無視して、一方的にはなから達成できっこないような過大な政治的生産ノルマを課し、その(政治的)ノルマに基づいて、徴発量をあらかじめ決め、その通りに徴発を行ったのです。
スタニッツァ・ボルタフスカヤという村があります。
この村は、当時人口4万人の小さな村でした。
そこでは、村が定められた食料徴発に応じれなかったことから、ソ連当局の軍隊が介入しました。
武器を持たず、抵抗できない村の住民たちは、全員、みせしめと称して検挙されました。
そして男はバルト海の運河建設の現場へ、女性はウラルのステップ地帯に送られました。
老人や子供たちは消息不明となりました。
運河建設に送り込まれた男たちは、年齢、体力、栄養状態に一切かかわりなく、休みのない重労働を強いられました。そしてほぼ全員が死亡しました。
女性たちが送られたウラルのステップ地帯は、中央アジアの砂漠地帯で、農作物どころか、草木一本生えてないところです。
そこで女たちだけで農地を開拓し、必要な税を納めることを強要されました。
全員死んでしまったので、記録には何も残っていません。
けれど女たちが逃げないようにと、そこにはソ連軍が派遣されていました。
大東亜戦争の末期、いきなり参戦してきたソ連兵が、満洲の日本人女性たちに何をしたのかを思い返せば、実際には、そこで女性たちがどのようなめに遭わされていたのかは、誰もが簡単に想像がつくことであろうと思います。
ウクライナの民衆への、達成不可能な過度な生産ノルマは、結果としてウクライナの多くの農民たちの労働意欲を削ぎました。
小麦が減産しはじめてしまったのです。
それでもノルマ分の徴発は実施されました。
農民たちは、徴発分を提出すると、何も食べものが残らなくなりました。
さらに現場を知らないソビエト政府当局は、数々の法を制定しました。
農産物は全て人民に属するものとされ、農作物の換金や、(政治的)ノルマの不達成、落ち穂拾ったり、穂を刈るという農民としては「あたりまえ」の行為さえも、「人民の財産を収奪した」という罪状で10年の刑を課せられるようになりました。
さらに農民の逃散を防ぐため、ソ連政府は、昭和7年末には、国内パスポート制を施行しました。
これによって農民達は土地に完全にしばりつけられ、ついにウクライナの国境も封鎖されました。
ソ連政府から派遣された共産党のオルグ団は、空中パトロールと称して空から農民たちの行動を監視しました。
さらに農場には、コムソモールのメンバーが、作業の見張りに送り込まれました。
そして、飢えてひもじい思いをしている子供達には、肉親を告発すれば、食物や衣類やメダルが与えられるという制度を敷きました。
それどころか、党の活動家が、一軒一軒の農家を訪問しました。
彼らは平気で他人の家の中に侵入し、食卓から焼いたばかりのパンやおかずまで、勝手に持っていってしまいました。
食料を没収された農民たちはジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べて余命をつないだといいます。
そして遂には、病死した馬や人間の死体までも掘り起こして食べるようになりました。
この結果多くの人が感染病に罹って病死します。
このとき、中には食べるものがなくて、幼い赤ちゃんを殺して食べたという記録もあるそうです。
通りには行き倒れた農民たちの死体があふれました。
そうした死体は、当時、そこここに山積みされました。
村には死臭が漂いました。
この惨状に、都市部から送り込まれた共産党員さえも、なんだかんだと理屈をつけて、逃げ帰る者も多かったといいます。
ウクライナで餓死した子供
ウクライナで餓死した子供

子を持つ親たちは、我が子の誘拐を恐れて子を戸外へ出さなくなりました。
なぜかというと、誘拐された子は、殺されて食べられてしまうからです。
この頃のソビエトは、5ヵ年計画の大成功を世界中に宣伝していました。
当時のソ連は、社会・共産主義革命により、すべての財産が国営化され、人々は、最小の労働力で最大の経済的成果をあげ、人民はみな幸福な理想国家が建設されていると世界中に宣伝していました。
実際、ソ連の都市部では、都市インフラが次々と整備されていきました。
豪奢で立派な建築物が立ち並びました。
ところが、それはどこかで見たような建物でした。
彼らは満洲から摘発した日本人抑留者と日本が満洲で建設した工場や建造物を、日本人労働力ごとまるごとソ連に持ち帰り、そこで無給と過酷な条件での強制労働によって、町に旧満洲にあった建物を移築していたのです。
農業は、その国の繁栄の根幹です。
なぜなら、人は食べなければ生きていくことができないからです。
ソ連は、その食べ物を、もっぱらウクライナの農民からの搾取、それも絞れるだけ絞り取ることで得ていました。
外の世界で、それだけあたかも繁栄を謳歌している姿を自慢していたソ連は、まさかウクライナの惨状を世界に見せるわけにはいきません。
ですからソ連は、ウクライナの惨状を政治的に、「なかったこと」にしました。
当時ソ連に招かれていたバーナード・ショウやH・G・ウェルズ、ニューヨーク・タイムズ記者のウォルター・デュランティ等は、「模範的な運営が成されている農村」だけを見せられました。
そしてソ連当局の望み通りの視察報告を行い、
「素晴らしいソ連の成果」を信じこまされました。
そして彼らは、それを世界に向けて報道しました。
こういう宣伝に、いまだに騙され続けている人たちがいるということは、誠に残念なことです。
それでもあまりの惨状は、人づて、口づてで洩れ伝わりました。
ウクライナの惨状に対し、国連や国際赤十字などが、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に何度も要請を行いました。
けれど、ソ連政府は頑として「飢饉は存在しない」と突っぱねました。
「存在しない飢饉への救済は不要」だったのです。
結局、昭和7(1932)年から翌年にかけて、ウクライナでは六百~七百万人の餓死者が出ました。
飢餓当時のウクライナの農民
左にやせ衰えて生気の失せた子供が見えます
ウクライナの農民

この時期のソ連は、ちょうどレーニンからスターリンに書記長が変わったばかりの頃でした。
スターリンは、ソ連の工業化を強硬に推進しました。
そのために、西側から重工業機械や専門知識を次々と導入ました。
そして、そうした設備や人材投資のための資金を、もっぱらウクライナの穀物輸出に頼りました。
ソ連の食料の輸出高は、1928年には5万トンでした。
それが1929年には65万トンになりました。
1930年には242万トンです。
飢饉に入った1931年でも259万トンが輸出されています。
ところがこの間に、ソ連国内の食糧生産高は、12%減少しているのです。
生産高が下っているのに、輸出高が50倍以上に膨れ上がっているのです。
それが何を意味するのかは、上の写真が物語っています。
ちなみに、ソ連の食糧輸出は、ソ連が所期の目的を達成した1932年には90万トンに減っています。
いっきに7割も輸出が減っているのです。
ソ連から食料を買い付けしていた各国の企業は、いきなり食料を売ってくれなくなったソ連に、目を丸くしました。
しかし、そもそもそういう企業は、ソ連などという社会・共産主義国家と、まっとうな取引ができると思ったこと自体が、大きな間違いだったのです。
ちなみにソ連は、1931年から1933年にかけて、700万人もの餓死者を見殺しにしながら、同地区の政府管轄の倉庫の中には供給可能な備蓄食料が眠っていました。
その量はもちろん充分とはいえかもしれないけれど、計算してみればわかることだけれど、わずか十万トンの穀物さえあれば年頭から7月末まで100万人が死なずに済んだといわれています。
ウクライナの農場は、もともとは富農(クラーク)と、農奴によって構成されていました。
これはかつての日本の農業にも少し似ています。
日本では、江戸時代に年貢の納税義務を負っていたのは、土地持ちの自営農家です。
多くの小作農たちは、農家から土地を借りて農業をし、税は国ではなく、地主さんに物納でおさめていました。
ただ、日本とウクライナの違いは、土地を持たない小作農の多くが、武家の次男坊や三男坊だったことです。
江戸日本における年貢を納める農民というのは、今風にいえば、農場の経営者で、その農場主が雇っている小作農たちの多くは、武家の子女たちだったわけです。
つまり、徴税を行う側の兄弟姉妹たちが、農場主の下にいるわけで、ですから小作農たちは、決して奴隷のような存在ではありません。
一方、ウクライナの場合は、富農(クラーク)と、小作農は、所有者と奴隷の関係です。
農場の生産管理等は、クラークが100%行い、農奴たちはその下で、言われた通りにモノとして働かされているだけ、という関係でした。
これをソ連の共産主義者たちは、クラークたちを、ブルジョアとして抹殺することで、農奴たちに「農場を解放」するとしました。
そうなると、昨日まで農奴だった者たちが、今日からは地主です。
その先には幸せな暮らしが待っていると、多くの農奴たちが思い込まされました。
そして農場主であるクラークや、ウクライナの民族主義者、インテリ、共産主義への反対者など、共産主義者たちにとって邪魔だと思われる人々を、ブルジョア主義者であるとして次々と抹殺しました。
結果として、地主、作家、学者、政治闘争を行う民族主義者たちが、暴行され、収容され、殺され、独立ウクライナ教会の関係者も弾圧を受けました。
こうしてウクライナでは、百万人が粛清されました。
1千万人がシベリアでの森林伐採作業や極寒地での白海運河建設の為に連れ去られました。
そしてそのほぼ全員が、帰らぬ人となりました。
いままで土地を持たなかった農奴にしてみれば、自分たちの親方が逮捕され、親方の土地が自分たちのモノとして分配されれば、という、いまでいうならバラ撒き政治に、はじめのうちは大喜びしたそうです。
ところが粛正のあとどうなったかといえば、農奴たちは、絶対に達成できない(政治的)生産ノルマを課せられ、その多くが飢え死にするという事態を招いたのです。
この頃の米国はというと、1929年には大恐慌がありました。
国内は不況にあえぎ、町には失業者があふれていました。
そしてその不況を打破するために、新しく生まれたソ連という巨大な人口を擁する大国に、巨大市場の夢を抱きました。
そしてスターリンは、ソ連の工業化の推進のためと称して、米国から多数の人材を高給でヘッドハンティングしました。
これまた昨今、斜め上の国が原発技術者などを、想像を絶するような高給でヘッドハンティングしている様子に似ています。
ただ、そうしてヘッドハンティングされた米国の技術者やエリートたちが、ソ連に行ったあと、どのような人生を歩むことになったのか、ヘッドハンティングされた人々が消息不明となったいまとなっては、もはやわかりません。
国家観を失い、高給に吊られるとどうなるのかということも、歴史が証明しているといえるのではないでしょうか。
さて、時代がずっと下って、1980年代のことです。
ウクライナの飢饉から50年が経過した頃です。
西側諸国に在住していた300万のウクライナ人たちが、かつての民族虐殺を忘れまいと、行動を起こしたのです。
これに対して、当時まだ健在だったソ連当局が示した回答がふるっています。
それは、
「ヒトラーの手先となって、戦後西側へ亡命したウクライナ人達による100%偽証言である」という全否定でした。
そしてソ連解体後のロシア政府も、この問題については、前の政権のしたこと、として何も謝罪をしていません。
多数の人に地獄の苦しみを味あわせ、多くの人命を、この世の地獄のような姿で奪っても、口を拭って知らん顔をする。それが政治主導であり、社会主義者、共産主義者などの左翼の、真の姿です。
それは、中共のウイグルやチベット、法輪功弾圧、昨今の日本における口蹄疫でも、まったく同じです。
ウクライナは飢饉のときの2年間で、1千万人の国民と家畜たちが死んでいきました。
さらに第二次大戦で、民族の4分の1にあたる700万人の兵士が死亡しました。
大戦後もソ連の内政によって400万人から1000万人が殺されています。
セーニャさんのサンド・アートは、その悲しみを描いた作品です。
このアートには、芸術祭の審査員全員が涙したといいます。
ちゃんとした歴史を学べば、真実が見えてきます。
逆にいえば、ちゃんとした歴史をまなばせまいとする人たちが、どういう人たちかということも、おのずと明らかになるということです。
みなさまも、お時間があれば、是非、冒頭のサンド・アートの動画をご覧いただきたいと思います。
およそ8分ほどの動画です。
Kseniya Simonova - Sand Animation

お読み頂きありがとうございました。
※この記事は、2013/1の記事のリニューアルです。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。

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