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日本人として常識とすべき日本のかたちを、7項目にまとめたものが、以下の「7つの日本」です。
これは2年前の1月にこのブログで発表したことですが、すこし内容をあらためて、再掲したいと思います。
1 天皇とおほみたから
2 神話
3 シラス・ウシハク
4 対等観
5 和をもって貴しとなす
6 明察功過
7 修理固成
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1 天皇
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天皇の存在のありがたさを自覚すること。
これなくして日本はないし、日本人も存在しません。
日本で生まれたから日本人ではないのです。
天皇の存在のありがたさを自覚し感謝の心を持つこと。
日本人はそこから始まります。
日本における天皇は、諸外国の皇帝や王などと根本的に異なる存在です。
諸外国の王や皇帝は、政治上の最高権力者です。
けれど日本において天皇の存在は、その最高権力者のさらに上位の存在です。

これは、言い方を変えると「権威」と「権力」の分離です。
世界中、王や皇帝、あるいは最近では大統領とか書記官とか、名前はいろいろですけれど、国の最高権力者は、国の最高権威者でもあります。同一人物がこれをつとめます。
ところが日本では、はるかな昔から、この二つが分離されてきました。
権力者が権力を行使するためには、必ずそのための「権威による認証」が必要となります。
そしてすべての民衆は、天皇という「権威」の「おおみたから」とされています。
国の頂点にいる人が最高権力者であれば、民衆と権力者の関係は上下関係、支配と隷属の関係しかありません。
妻や娘は夫の所有物であり、その夫は王や皇帝の所有物ですから、王や皇帝からみれば妻も娘も領主のものです。
ところが日本では、その王や皇帝よりもさらに上位の存在として天皇があり、その天皇のもとに、すべての民が「たから」とされてきました。
こうなると権力者も領主も、自分の麾下にある領民たちは、すべて自分の権力に認証をあたえてくれている天皇の民ですから、領民の妻や娘を自分のものにしようとしても、それは天皇の妻であり天皇の娘ですから、勝手なことはできません。
つまり天皇の存在は、究極の民主主義の完成された姿です。
つまり天皇という存在のありがたさによって、実は日本では少なくとも歴史時代が始まってからずっと、もしかしたらそれよりもずっとはるか以前から数千年にわたって日本は究極の民主主義を実現してきたのです。
欧米でさえ、民主主義が定着してから、まだわずか200年です。
日本には歴史があるのです。
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2 神話
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天皇の権威は、日本の最高神である天照大御神の直系のお血筋であることに由来します。
ここが大事なところです。
神話を馬鹿にする人がいますが、わるいけれどその馬鹿にする人こそお馬鹿です。
なぜなら神話があるということは、その国が歴史が記録されないくらい古い昔から存在している国であるということを証明しているからです。
Chinaにも神話はあります。
黄帝、炎帝、堯舜、羿禹などの物語です。
けれども、その時代を築いた民族と、いまのChinaにいる自称漢民族は同じ民族ではありません。
古くはコーカソイド系の黄河人とモンゴロイド系の長江人の二千年に及ぶ相克にはじまり、その後も外来征服王朝によって、王朝の交代の都度、人口が10分の1くらいに減り、都度、住民が入れ替わってきたのがいまのChinaです。
人種、民族が異なるのです。
彼らは歴史も民族も断絶しているのです。
日本は、世界最古の国です。
二番目に古い国がサンマリノ共和国で1300年、三番目がデンマークの千年、四番目が英国の九百年です。
日本は2677年です。その古さは圧倒的です。
しかもその2677年ですら、神武天皇以来のものです。
一説によれば神武天皇以前に約600代にわたる天皇が上方様(うわかたさま)と呼ばれた時代があったと伝えられています。
一代は20〜25年です。
20年としても、600代ということは1万2千年遡ります。
人類の始祖は
1 猿人(約600万年前〜130万年前)
2 原人(約150万年前〜20万年前)
3 旧人類(約20万年前〜約2万年前)
4 新人類(約4万年前〜現代)
と大別されています。
日本列島では、
11万年前には、石器が使われ
3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われ、
1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
1万2500年前には、漆が栽培され、使われていたわけです。
日本の歴史は、とても長くて古いのです。
古事記には出雲神話がありますが、そこに出てくる大国主神にしても、たとえば国譲りが行われたのが西暦何年の事だったのかわかりません。
わからないけれど、出雲で巨大な神殿が築造されたことが、遺構で確認されています。
伊勢神宮は、ご皇室のご先祖をお祀りする宮ですが、いったいいつからあるのか、それもわかりません。
つまり、「わからないくらい古い昔から存在している世界最古の国」が日本なのです。
その、「わからないくらい古い昔」のことを記したのが神話です。
そして日本の神話は、決して荒唐無稽な物語ではなくて、かなりのリアリティを持って日本人のアイデンティティの基礎を築いているところに特徴があります。
ですから日本神話は神々の「成長の物語」になっています。
世界中の多くの民族において、神々は完全で完璧で万能な存在として描かれています。
私には、その完全で完璧な神が、どうして自分で子を産めないのかが理解できないのですが、とにかく最初から全てをもっている完璧な存在として描かれています。
いいかえれば、これは完全に成長した神が「ある日、突然やってきた」としか考えられないことです。
ところが日本の神々は、完全に完璧に成長したら、互いに余ったところや足りないところがあったり、暴れん坊の泣き虫であったり、あるいはいじめられっ子であったりしています。
そして周囲の協力や本人の努力で完全に完璧な神様として成長します。
これはつまり、神々の成長前の原点が日本にあるということでもあります。
それはとてもありがたいことだし、私達人間に、とっても勇気を与えてくれることなのではないかと思います。
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3 シラス・ウシハク
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大日本帝国憲法の第一条は、「大日本帝国は万世一系の天皇、これを統治す」と書かれています。
ここにある「統治す」は、音読みでは「トウチス」ですが、訓読みすると「スメラヒ、シラス」となります。
「統」は、スメラフです。漢字で書いたら「統メラフ」となります。
スメラフは、シメラフからきています。
「シラス」は、古事記の大国主神話の国譲りの抄に出てくる言葉です。
ここで「ウシハク」と対比する言葉として「シラス」が登場します。
「ウシハク」は、権力者が民を私有する社会システムです。
これに対し「シラス」は、最高権威が民を「たから」とするシステムです。
「シラス」国においては、権力者は権威の下にいますから、権力者は民のために尽くすことが役割となります。
ここに日本の統治の根幹があります。
「シラス」国においては、商店や会社などにおいても、従業員は天皇の「おおみたから」を預かっている立場となります。
具体例としては適切でないかもしれませんが、かつての吉原のような遊郭においても、日本では、女性達は「おおみたから」でした。
ですから遊郭の主人たちは、女性達を6歳位から店で預かりました。
お店に娼婦として出すためではありません。6歳から16歳までの10年間、読み書き算盤から日舞、着付け、小唄、三味線、琴、華道、茶道に至るまで、ありとあらゆる芸事を仕込むためです。
費用は全部店主持ちです。
何のためか。
お店に出て娼婦をするのは、24歳までの10年間です。
25歳になったら、お店から出て行ってもらう。
その代わり、お店を出たあとも、しっかりと自分で食べていけれるように、芸事を仕込んだのです。
芸は身を助くです。
売春は世界最古の商売と言われるほど、歴史の古い商いです。
けれど、その娼婦たちは、世界中どこでも年頃の娘を連れてきて商売させ、年季が明けたら放り出して、あとは知らんぷりというのが、世界の常識です。
日本だけが違う。
なぜ違うかといえば、日本は「シラス」国であり、民はたとえどんな職業の人であっても、すべて「おおみたから」と誰もが認識していたからです。
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4 対等観
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シラス国であるがゆえに、日本では社会秩序としての身分制度は置きましたが、全ての民は人として対等とされました。
貴族も武士も百姓も、等しく天皇の「おおみたから」です。
ただし、等しいというこは「平等である」ということとは異なります。
「対等」なのです。
英語では、平等も対等も、どちらも「イコール(Equal)」ですが、日本では「平等」と「対等」は明確に区別されました。
平等は、運動会の駆けっこで、全員揃って一等賞というのが平等です。
対等は、あいつは勉強では学年で一番だけど、駆けっこだったらおいらが一等賞だい、というのが対等です。
対等は、彼我の違いを見極め、そこから自己の実現を図ろうとする概念です。
そこから「分をわきまえる」という考えも生まれています。
それぞれが互いの役割分担の違いを意識して、その役割(分)に応じて最大限の努力をする。
交響楽の演奏で、それぞれの楽器が、どっちが偉い、どっちが上だというのではなくて、それぞれの楽器がそれぞれの特徴を活かしてバイオリンならバイオリンとして分をわきまえて全体(交響曲)に貢献する。
それが日本人にとっての対等観です。
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5 和をもって貴しとなす
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聖徳太子の十七条憲法の第一条の冒頭にある言葉です。「以和為貴」と書きます。
人の和は、人の輪です。
これがいかに大切なことかは、説明するまでもないことと思います。
この「和をもって貴しとなす」は、善悪二元論のもとでは成立しません。
すべてを2つに分けて、常に片方が善であり、片方が悪であるとする善悪二元論のもとでは、常に互いに対立し闘争することが求められます。
ところが「和をもって貴しとなす」という日本社会では、常に大切にされることは「和」です。
これが共同や協調の元となります。
対立するのではなく、互いに違いをわきまえて、まずは協力し合うことです。
十七条憲法は、神話にある十七柱の創世の神々に由来します。
最初の神様が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。
その名の通り、天空のど真ん中の点を意味する御神名の神様です。
点にはかたちも大きさもありません。
極小であって極大、時空を超越した根源が点です。
その中心を、聖徳太子は「以和為貴」と書いたのです。
この「以和為貴」は、「無忤為宗」と続きます。
これで「忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」と読み下します。
「忤う」は<さからう>と読みます。語源は「呪道具の杵(きね)」で、これをつかって悪霊から身を護る。転じて邪悪なものに拮抗し抵抗することを意味します。
これが「無忤為宗」です。
敵対し呪詛する者に対して、相手と同じように敵対し呪詛する愚をおかすなと言うことです。
日本は「恨」を根源とするどこかの国とは違うのです。
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6 明察功過
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同じく聖徳太子の十七条憲法の第11条に出てくる言葉です。
「功過を明らかに察しよ」と読みます。
「功」は功績、「過」は、あやまちのことです。
江戸時代、徳川将軍吉宗の治世の享保年間の20年、江戸の小伝馬町の牢屋に入れられた囚人の数は、ゼロ人です。
これはお役人がサボっていたからではなくて、お役人がそれだけ一生懸命仕事をした結果です。
火事に例えるとわかりやすいです。
火事の多い消防署は、常に大忙しです。
消火をし、人命救助にあたる消防士は、民衆のヒーローです。
けれど、本当は火事そのものがないほうが良いのです。
ですから本来の消防署の役割は、起きた火災を消火することもさりながら、火事そのものの発生を抑止するということが肝心です。
そのためには、所轄地域をくまなくまわり、火災防止の啓蒙運動をし、防火体制や万一のときの消火設備の点検をし、あるいは放火被害に遭いそうなところは、事前にチェックして対策を講じる、放火しそうな人間には、絶対にそれをさせないように、周囲で注意する体制を築くとともに、そういう人間を最初から隔離するなどの活動が必要です。
けれど、それをやる消防士は、ヒーローになるどころか、「うるさい奴らだ」と敬遠されます。
それでも予防処置をする。
そうすることで民衆の暮らしを守る。
それこそが消防士たちに与えられた最大の天命です。
消防だけでなく、警察も、お役所も、災害対策も学校教育も、すべてあらかじめ読んで対策を講じる。
ほんのわずかな徴候も見逃さない。
イジメなんて起こさせない。
これが人の上に立つものに与えられた憲法とされました。
それが「明察功過」です。
そして飛鳥奈良平安の貴族たちも、鎌倉以降の武士たちも、明治大正昭和の軍人たちも和歌をこよなく愛しました。
なぜなら、和歌は、一番言いたいことを言わず、その言いたいことを察する文化だからです。
ですから和歌を詠むことは「明察功過」をしていくための良き訓練となりました。
だからこそ和歌は「あらゆる日本文化の原点」と言われています。
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7 修理固成(つくりかためなせ)
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修理固成と書いて「つくりかためなせ」と読みます。
イザナキ、イザナミのお二柱の神様が、天の沼矛(ぬぼこ)を預かったとき、神様から言われた言葉です。
この言葉は日本の国土を、混沌としたところから「作り固めなさい」と言っているように見えますが、大切なことは、その「つくる」という言葉に「修理」という漢字を当てていることです。
ここは間違えたらいけないことなのですが、日本は、漢字がはいってきて日本語ができたのではなくて、はじめに日本語があって、その日本語の標記のために、China漢字が「後から」当てられたということです。
ということは、さきに「つくる」という倭語(大和言葉)があって、その「つくる」という語彙にもっとも適したと思われる漢字が「修理」であったということです。
「修理」という単語は、いまでは壊れた機械の修理のような使われ方しかしませんが、もともとは「理(ことわり)を修(おさめ)る」です。そこから曲がったものを真っ直ぐに立て直す意となり、「つくる」という語にもなりました。
これが何を意味しているかというと、もともと日本人にとって、「つくる」という言葉は、ただ「新しくつくる」という意味だけではなくて、「大切に修理しながら使うこと」を意味しているということです。
人もモノも、ただ新しく生まれてくるのではありません。
この世に誕生したものを、ほんとうに役に立つように、つくりかためる。
この思想は、使い捨て文化の対局に位置するものです。
百均の安物製品を、買って使ってすぐ捨てる。
社員を厳しく育て上げるのではなく、バイトで雇ってすぐ切り捨てる。
音は同じな気がします。そしてそれらは、もともとの日本人の文化にはなかった思考です。
*
さて、天皇とおおみたから、神話、シラス・ウシハク、対等観、和をもって貴しとなす、明察功過、修理固成という「7つの日本」について、ものすごく簡単に説明してきました。
上に書いたことは、それらの言葉の意味することの、ごくごく一部のことにすぎません。
ただ、ざっと御覧頂いて、この「7つの日本」を抱くのが日本人だとするなら、はたして現代人の中の、どれだけの人が、その心を持った日本人なのでしょうか。
日本は、世界の宝なのではないかと思います。
なぜなら、民衆をこそ「たから」として歴史を築いてきたのは、世界の中で日本だけだからです。
日本を、日本人を絶滅危惧種にしては絶対にいけないと思います。
最近、思うことがあります。
天皇の御存在のありがたさを自覚することが、日本人の日本人たる所以なのではないか。そのように思えるのです。
たとえ、日本に生まれ、日本で育ち、日本で生活し、日本語を話し、日本国に税金をおさめていても、自分たちが天皇のおおみたからであることに感謝の心をもてない人は、それは日本人とはいえないのではないかと思えてなりません。
そして日本人でないなら、
日本の選挙権を与える必要などさらさらないし、
日本の議員になっていただく必要もないし、
日本人としてのパスポートを発行してあげる必要もないし、
まして生活保護の支給をしてあげる必要もない。
そういうことを最低限のメリハリとしていくことを、まじめに考えていかなければならいのではないか。そんな気がします。
さて今回は、日本を通底する思考を7つにまとめてみましたが、本当は大八洲(おおやしま)というくらいですから、もうひとつあるのかもしれません。
その「もうひとつ」とは何でしょうか。
これは是非、みなさんで考えてみていただきたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。

