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20170316 三大神勅
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三大神勅(さんだいしんちょく)は『日本書紀』に記述されているもので、天孫降臨の段で天照大御神が、孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降臨するに際して詔(の)らされたとされる次の3つの御神勅(三大神勅)です。
1 天壌無窮の神勅(てんじようむきゅうのしんちよく)
2 宝鏡奉斎の神勅(ほうきようほうさいのしんちよく)
3 斎庭稲穂の神勅(ゆにはいなほのしんちよく)
順にその内容を学んでみたいと思います。
ちなみに『古事記』には、三大神勅は出てきません。
ただ一行「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」とあるだけです。
『古事記』が、物語の中で日本を語るのに対し、日本書紀はそれを体系化して説くに際して、こうした標語化が行われたのかもしれません。
ただ、三大神勅は、日本を理解するにあたって、とても大切なことが書かれていますので、いちどキチンと学んでおく必要があるものと思います。


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1 天壌無窮の神勅
 (てんじようむきゅうのしんちよく)
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<原文>
 葦原千五百秋之瑞穗国
 是吾子孫可王之地也。
 宜爾皇孫、就而治焉。
 行矣、
 寶祚之隆、當興天壤無窮者矣。

<読み下し文>
 豊葦原の千五百秋之瑞穂の国は、
 是れ吾が子孫の王たる可き地なり。
 宜しく爾皇孫就きて治せ。
 行牟、宝祚の隆えまさむこと、
 当に天壌と無窮かるべし。
 とよあしはらのちいほあきのみずほのくには、
 これあがうみのこのきみたるべきくになり。
 よろしくいましすめみまゆきてしらせ。
 さきくませ、
 あまひつぎのさかえまさむこと、
 まさにあめつちときはまりなかるべし。

<現代語訳>
 葦の原の広がる豊かな瑞穂の国は、
 わが子孫が王となる地である。
 よろしく我が孫よ、行って治(しら)しめなさい。
 さあ、お行きなさい。
 宝のように幸いを得て隆(さか)えること
 まさに天地と共に永遠となりましょう。

<解説>
天孫降臨の意義を明らかにした神勅です。
「天照大御神の直系のご子孫が天皇の地位にあり、地上の中つ国をシラスことにより、その地上の国は天地が未来永劫続くのと同様、未来永劫栄えます」という意味です。
従って、天壌無窮の神勅とは、皇位が続く限り、地上が栄えるということです。
では、「栄える(原文:宝祚)」とは、誰が栄えるのでしょうか。
その答えは、そこに住む人々、つまり民衆のことです。
最高権威である天皇が治(しら)すということは、民を「おほみたから」とするということです。
そして民は、天皇の「おほみたから」という地位を得ることによって、政治権力者からの自由を手にすることになります。
だから民が「宝のように幸いを得て、天地と共に永遠に隆(さか)える」のです。
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2 宝鏡奉斎の神勅
 (ほうきようほうさいのしんちよく)
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<原文>
 吾兒、
 視此宝鏡、
 当猶視吾。
 可興同床共殿、
 以為齋鏡

<読み下し文>
 吾が兒(みこ)、
 此の宝鏡を視まさむこと、
 当に吾れを視るがごとくすべし。
 興に床を同じくし、殿を共にして、
 斎鏡(いはいのかかみ)と為す可し。
 あがみこ、
 このかがみをみまさむこと、
 まさにあれをみるがごとくすべし。
 ともにゆかをおなじくし、とのをともにして、
 いはひのかがみとなすべし。

<現代語訳>
 わが子よ、この宝鏡を視(み)ることは
 まさに私(天照大御神)を見るのと同じにしなさい。
 お前の住まいと同じ床に安置し、お前の住む宮殿に安置し、
 祭祀をなすときの神鏡にしなさい。

<解説>
このときの宝鏡が「八尺鏡(やたのかがみ)」で、これは天照大御神が天の岩戸にお隠れになられた際に、その天照大御神にご出現いただくために、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって川上の堅石を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた鏡です。
その鏡を未来永劫ご安置し、その鏡を見るときは天照大御神を見るのと同じにしなさいというのが宝鏡奉斎の神勅です。
鏡は「かがみ」ですが、「かがみ」から「が(我)」を取ったら「かみ」です。
つまり人の上に立つ者は、我を持ってはならないという戒めでもあります。
そしてこの宝鏡奉斎の神勅があるがゆえに、天皇は常に「無」であり、「無」であるがゆえに億兆と心を通じることができるとされてきたのです。
これが日本と日本人の基礎となる形です。
ちなみに、ここで天照大御神は、「吾(あ)が兒(みこ)」と呼びかけています。
この「あ」は、『ねずさんと語る古事記 壱』にも書きましたが、単純な一人称ではなくて、もっと形而上学的な意味を持ちます。
いわば、「天照大御神を通じてあらゆる神々と通じる」という意味が込められた「あ」となっています。
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3 斎庭稲穂の神勅
 (ゆにはいなほのしんちよく)
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<原文>
 以吾高天原所御齋庭之穂
 亦当御於吾兒

<読み下し文>
 吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て
 亦吾が兒に御せまつるべし。
 あがたかまのはらにきこしめすゆにはのほをもて、
 またあがみこにまかせまつるべし。

<現代語訳>
 吾が高天原に作る神聖な田の稲穂を、
 わが子に授けましょう。

<解説>
この斎庭稲穂の神勅によって、日本国中で栽培される稲は、ことごとく「天照大御神からの授かりもの」という位置づけになります。
民は、その稲を栽培するわけです。
そして私たちは、その稲から成るお米を日々いただきます。
「戸喫(へぐい)」という言葉がありますが、同じものをいただくということは、同じ仲間となる、共同体の一員となって心を通じ合うという意味があります。
神社などで、参拝のあとに「直会(なおらい)」といって、奉納したお米や作物などを、みんなで一緒にいただきますが、そうすることによって神様と心を通じあうことになります。
ですからお米をいただくということは、天照大御神に通じるやまとひとの一員となるということでもあります。
そしてこのご神勅によって、全国でお米を栽培する民は、高天原の稲を栽培する人々という位置づけになります。
だからこそ、民は「おほみたから」という位置づけになります。
近年では、お百姓は収奪されていたなどという、とんでも説がまかりとおっていますが、国家としての農家への認識は、斎庭の稲穂を栽培するという大事を行う宝であったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。

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