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以下は、『
昨日の記事に引き続いて、お読みいただけると、なお一層、ひとつの明確な事柄が浮かんでこようかと思い、あらためて転載させていただきます。
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海外で大ヒットする日本アニメ▼
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『ドラゴンボール』『NARUTO‐ナルト‐』『キャプテン翼』『ONEPIECE(ワンピース)』『北斗の拳』『美少女戦士セーラームーン』『ドラえもん』等々。日本のアニメやマンガは、世界中で大人気となっています。
ローマ字のMANGAは、いまや世界共通語です。
どうしてこんなに世界中で大人気となるのでしょう。
ヒットするには何か理由があるはずです。
それはいったい何でしょうか?
絵がきれい、もちろんそれもあるかもしれません。
ストーリーが面白い、それもあるでしょう。
主役が敵を倒す爽快感もあるかもしれません。
けれどそれだけでは、なぜ日本アニメなのか説明がつきません。
海外にはなくて、日本にある何か・・・、その何かがあるから、日本アニメやマンガは、世界中の若者たちの共感を得、また支持されているのです。
海外でヒットする日本のアニメやマンガに共通していて、海外にはない要素とは、いったい何なのでしょうか?
それは日本人であれば、だれもがあたりまえに持っているある種の共通観念だと、私は思っています。
その共通観念とは、「対等意識」です。

【倭塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
第38回 2017/3/18(土)18:30〜20:30第4/5研修室
第39回 2017/4/9(日)13:30〜16:30第4/5研修室
第40回 2017/5/13(土)18:30〜20:30第1/2研修室
【百人一首塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
第13回 2017/3/23(木)18:30〜20:30 第三研修室
第14回 2017/4/20(木)18:30〜20:30 第三研修室
第15回 2017/5/18(木)18:30〜20:30第三研修室
世界中で大ヒットしている日本アニメやマンガには、どの作品にも主人公と、その仲間たちが登場します。
仲間たちには、それぞれ個性があり、ケンカに強いキャラクターもいれば、そうでもない者もいます。
やさしいキャラもいれば、しっかり者のキャラもいます。
泣き虫もいれば、ちょっとエッチな者もいるかもしれません。
仲間たちは、そのひとりひとりに個性があり、特徴があり、そしてひとりひとりが異なっています。
けれど彼らは全員、主人公が属するグループの中で、「対等な関係」にあります。
仮に先生と生徒のような師弟関係があっても、それは教える者と教えられる者という立場の違いであって、あくまで仲間同士の「対等な関係」という横のつながりが根底にあります。
この「対等な関係」を軸とする主人公側に対して、必ず敵対する勢力が登場します。
およそどの日本アニメにも共通するパターンです。
そしてたいへん面白いことには、この敵キャラ、もしくは敵勢力にも、共通している事柄があります。
それが何かというと、敵のほぼすべてのキャラが「ボスとその手下たち」、つまり「支配と隷属」という縦の関係にあるということです。
敵側の組織にはボス(支配者)がいて、敵のキャラたちはボスの手下(隷属者)として描かれているわけです。
敵のキャラは、命令によって主人公の仲間たちを襲います。
襲うことが自らの意志である場合も、それは組織の中での優位性の証明であったり、出世欲であったりします。
さらに共通しているのが、多くの一般民衆が、敵の支配者たちによって強制的に隷属させられている点です。
極端なものになると、自らの意志を持つことさえも許されなかったりします。
そして、最後にはアニメやマンガの主人公が、支配者であるボスキャラと対決し、これを倒します。
これは実に面白い対比といえます。
個性はあっても対等な関係という「横のつながり」を大切にする仲間たちが、支配者によっ隷属させられた人々を救うために立ち上がり、支配者を頂点とする「縦のつながり」の世界の住人たちと戦い、これを打ち倒す。
要するに、海外で大ヒットしている日本アニメや、日本のマンガには、
一、「対等な関係」の仲間という「横のつながり」の主役グループが、
二、「支配と隷属」という「縦のつながり」の敵グループと
三、戦い、勝利する物語
という共通項があるのです。
ただ、同じ日本のマンガでも、マンガ草創期の『のらくろ』シリーズや、アニメ発展期の『鉄腕アトム』や『鉄人号』のようなヒーローもの、あるいは『巨人の星』のようなスポ根もの、あるいは『サザエさん』のようなファミリーものといった、昭和のはじめ頃から昭和五十年代までのヒット作品と最近の作品とでは、その本質において大きく異なります。
最近の海外におけるヒット作品というのは、いずれも日本的精神の根幹である「対等」という観念を重んじた内容になっています。
そしてその観念が、まさに世界の若者たちの共感を生んでいるといえます。
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「対等」と「平等」の天地ほどの違い▼
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「対等」という関係は、西欧思想や共産主義にみられる「平等」な関係とは異なります。
没個性的に、みんながただただ一緒、というのではないからです。
「平等」と「対等」の何が違うかというと、答えは簡単です。
運動会のかけっこで、順位をつけたらいけないからと、全員を一等賞にするのが「平等」です。
「あいつは勉強では一番だ。だけど運動会のかけっこでは、俺が一番だい!」というのが「対等」です。
ですから「対等」意識は、相手と自分の違いを明確に認識したうえで、互いに並ぶことができるようにしようとします。
そして日本人は、古くから「対等」を重んじてきました。
西欧圏では「、対等」も「平等」も、言葉にすれば「イコール(Equal)」です。
区別がありません。
概念として対等と平等の区別がないのです。
ですから西洋人には、日本という国が理解できませんでした。
なぜ日本が、満州や台湾や朝鮮半島や中国で、あるいは南方諸国で現地の人たちを大切に扱うのか、どうして彼らに高い教育を施し人として扱うのか、まるで理解不能だったようです。
ところが私たち日本人にしてみれば、それはあたりまえのことでした。
どの国の人々も、人として対等です。お互いの国の良いところを出し合い、信頼し合える国になってもらい、対等にお付き合いします。
そのために不足なものがあれば、みんなで提供します。
これは、ごく自然な行為でしかなかったわけです。
西欧では、人は神のもとでの平等が建前ですが、「平等」といっても、実際にはそれぞれに個性があります。
そもそも人間、生まれたときから不平等です。
ですから「平等」だと言われれば言われるほど、逆に個性を主張したくなります。
若者は特にそうです。
ところが個性は、往々にしてより強い個性の前に隷属させられてしまいます。
実は「支配と隷属」の関係は、このようにして出来上がります。それは強烈なリーダーとその子分たちという関係かもしれません。
結果として多くの人々は、その強烈な個性に隷属させられ、支配されてしまうのです。
個性と平等という二律背反の中で、支配者によって隷属させられてしまう西欧的フラストレーションに対し、日本アニメは、実に爽快な解消案を提示しているわけです。
すなわち、個性が仲間たちの役割分担にもちいられ、そして仲間たちは、皆、「対等」に付き合うという解答です。
その付き合い方が「和」と「結い」です。
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「役割分担による上下関係」と「支配と隷属による上下関係」▼
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かつて、西欧や中国など多くの国において、支配者は神の名のもとに民衆に対する絶対的支配権を持ちました。
支配者は神の代理人です。
神と同じ権力を持つということは、神そのものでもあるわけです。
神の代理人ですから、行政、立法、司法のすべての権力を握っているうえ、人の命さえも奪うことができます。
ですから支配者の前では、将軍たちは奴隷です。
逆らえば命さえ奪われるからです。
その将軍の前では、兵たちは奴隷です。
その武装した兵たちの前で、民衆はやはり奴隷です。
支配する者は、支配される者に対して、ありとあらゆる収奪や暴行が許されます。
そして支配される者は支配する者に一切、抵抗することが許されません。
こうして、社会の頂点から底辺までが、支配と隷属という関係によって構築されてきたわけです。
これに対する民衆の抵抗が、十八世紀の自由を求める市民革命となったわけですが、現実には民主主義だ、自由主義だといいながら、実は社会の中に、支配と隷属という関係は色濃く残っています。
また、一方には神のもとに平等だといいながら、かえって個性を圧迫されるという社会構造上のフラストレーションが、現実に存在しているわけです。
世界中の多くの国々が、支配と隷属という関係から抜け出せずに、長い歴史の中で四苦八苦しているなか、日本はすくなくとも七世紀に、この問題をすっきりと解消してしまっています。
それが「天皇と公民(皇民)」という概念です。
右翼的な主張だとか思わないでください。
みなさまも学校で公地公民制などという言葉を習ったと思いますが、まさにその仕組みです。
日本の天皇は行政、司法、立法などの政治権力を持ちません。
政治権力を行使する人、たとえば太政大臣や将軍や大臣などの権力者に権力を認証する存在です。
ですから、「天皇と権力者、どちらがエライの?」と聞かれれば、それは天皇です。権力者は認証される立場です。
ではその権力者が支配する民衆はどういう存在かというと、これが権力者の奴隷ではなくて、権力者よりもはるかに偉い存在である天皇直下の民なのです。
これにより、日本の民衆は古来、豪族たちの私有民(奴婢、奴隷)という立場ではなく、天下の公民という幸せな立場を保証されてきたわけです。
その気持ちや思い、思念はいまでも続いています。
内閣総理大臣は天皇が認証してはじめて内閣総理大臣になります。
もちろん総理大臣は社会的地位のある偉い人です。
けれど日本人は、「あの人はたしかに偉いけれど、料理を作らせたら、俺が日本一だぜ!」なんて普通に思っています。
これが対等意識です。
アニメではありませんが、『釣りバカ日誌』の浜ちゃんは、会社では平社員ですが、釣りのときには社長さんの先生です。
もちろん、社会の秩序を保つために、日本にも上下関係はあります。
けれどそれは、あくまで役割分担の上下関係であって、支配と隷属の上下関係ではありません。
これが日本社会の最大の特徴であったし、人々が共有する社会一般の概念でもあったわけです。
要するに、人々が天下の公民として、人としての尊厳をまずちゃんと認めてもらっているから、安心して互いに個性を発揮し、互いに役割分担をしながら、よりよい社会を構築しようという社会的風土が育成されてきたのです。
それが日本なのです。
これこそ究極の民主主義です。
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変遷しつつある日本人の意識▼
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この天皇と公民という認識や意識が、日本社会の中に空気のようにあたりまえであった時代には、マンガやアニメといった大衆芸能でも、特にそういう観念性を持った作品がヒットするということはありませんでした。
むしろ昔なら『黄金バット』『鉄腕アトム』のようなヒーローものや、『巨人の星』『あしたのジョー』といったスポ根もののほうが、爽快感をもって多くの少年たちに受け入れられていました。
ところがバブル崩壊頃から、戦後世代が社会の中核を占めるようになると、マンガやアニメのヒーローも、ずいぶんと様子が変わってきました。
まず主人公は単独のキャラではなく、グループを構成するようになってきました。そして戦う相手は、特定の悪玉ではなくて、どこの誰とも分からないけれど、なぜか「支配と隷属の上下関係を軸にした人々」になってきたのです。
ある意味、これは由々しきことです。
なぜかというと、日本社会の中に空気のようにあたりまえにあった「天皇と公民」、あるいは「究極の民主主義」が崩れ、日本社会全体を支配と隷属という、もともと日本になかった概念が覆いつつあるということだからです。
身分や性別、出身の違いをこえて、互いに人として「対等」な関係を築いていた日本社会であっても、社会が天皇を否定した瞬間に、天下の公民は権力者に支配、隷属させられる隷民になってしまうのです。
若者たちからみれば、父や母、あるいは祖父母の時代には、みんなが「対等」な天下の公民だったはずなのに、自分たちは支配させられるというのは理不尽です。
だからこそ、そのフラストレーション解消策として、アニメやマンガの中に、対等な仲間たちという観念が、共通する理想の観念として登場するようになったわけです。
ただこれによって、日本人の若者たちだけではなく世界中の若者たちが、日本アニメや日本のマンガを通じ、かつて日本にあたりまえのようにあった「対等で個性を生かしあって役割分担をする仲間たち」という概念を、共有するようになってきました。
いま、「日本を取り戻す」という言葉が、ある種の流行語になりつつあります。
ではそのために何が必要なのかといえば、それは、天皇の存在のありがたさを、私たちがいまいちど認識しなおすということなのではないかと思います。
神のもとに「平等」な国ではなくて、
天皇の存在によって人々が「対等」に暮らす国・・・
日本は世界史上でも稀有な国です。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は、2013年1月のリニューアルです。

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