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20170305 昔のハワイ
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一日経ってしまいましたが、実は3月11日は、ハワイ王国の国王であったカラカウア王が、明治14(1881)年、赤坂仮御所に明治天皇を訪問された日です。
カラカウア王はこのとき、ハワイ・アジア連合を構築して明治天皇がその盟主となること、また姪のカイウラニを日本の皇室に嫁がせることなどを提案されました。
そのハワイは、いまでは米国の一部です。
何があったのでしょうか。
その歴史を俯瞰し、アロハ・オエの歌に隠された意味を考えてみたいと思います。
ハワイは、18世紀末キャプテン・クックが「発見」したことになっています。
これは西洋人的な見方で、実際には、ハワイにはもともとのハワイ人達が平和に暮らしていたのです。
やってきたクックは、交易を申込んだのですが、同時に麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒も持ち込みました。
ハワイは、というよりかつて太平洋の島々に共通していた概念として、知っておきたいことのひとつに、彼らはもともと「土地所有という概念を持たなかった」というものがあります。
その代わりたとえば、バナナの木などは、誰の所有かが、かなり厳格に定められたりしています。
要するに土地は共同生活のための共同のものであって、家族を養うためのココナッツやバナナの木などについてのみ、厳格な所有権を認めていたのです。
これはたいへんに厳しいもので、ココナッツやバナナの木にはたわわに実が生(な)りますが、そのバナナのたった1本、ココナッツの実ひとつでも泥棒されたら、彼らは島中総出で犯人がわかるまで、全員参加での会合を開き続けたりしていました。
それだけ地上における果物は、生活に密着した大切な宝であったのです。


ちなみに以前、ガダルカナルで一木支隊等が飢えのために全滅した際、彼らは島中に生えている島民たちのバナナやココナッツを奪うことなく、そのために飢えて死んでいったということを書かせていただいたことがあります。
これについて、すかさずねず嫌いの人たちが、ネット上に「ガダルカナルにバナナはない」などと知ったようなことを書いていたそうですが、冗談じゃありません。
バナナはガ島の特産品で、そもそも島の人達は食事の際にはバナナの葉に包んだ石蒸し焼きが、昔の常用食です。
たとえどんなに飢えても、死んでも、島の人たちのものは盗らない、奪わない。
それが戦前戦中の日本人の兵隊さんたちの行軍兵士として、あえて書き記すまでもない、あたりまえの常識だったのです。
話を戻します。
ハワイにやってきた白人たちは、島民たちが土地の所有権を持たないことをいいことに、勝手に土地を領有しました。
それがどのくらいの規模であったかというと、なんとハワイ王国の国土の75%以上です。
島民たちは、居住区を追いつめられ、クックが最初に来島した頃には30万人あった人口が、およそ百年後にはわずか5万7千人にまでに減ってしまっていました。
国民の8割の人口が失われてしまったのです。
ちなみに欧米によって植民地化された国は、ほぼ例外なく人口が8〜9割減少しています。
なかでももっとも悲惨だったのは、アメリカインデアンで、彼らはかつて北米に約800万の人口があったものが、欧米人の上陸後、いまではわずか35万人にまで人口が減少しています。
しかもインデアンの純血種は、いまや皆無です。
これが何を意味しているかは、申上げるまでもないことだと思います。
この情況にあって、ハワイの人々の生活を守るためにと立ち上がったのが、カメハメハ大王です。
カメハメハ大王は、19世紀、日本でいったら明治のはじめ頃に、ハワイ諸島の統一を果たしています。

カメハメハ大王
カメハメハ大王

大王は、欧米人種と対抗するために、明治維新のときの日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一しました。
武器購入のための資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。
なんとかして白人たちと、人として対等に暮らせるようにしようとしたのです。
けれども輸出相場の変動、疫病の蔓延、白人たちによる暴行等によって、国力は徐々に衰退してしまいます。
カメハメハ大王没後、大王の孫にあたるカラカウワが王位に就きました。
そして王位に就いたカラカウワ大王は、明治14(1881)年に来日するのです。
この頃の日本は、有色人種で唯一の独立国でした。
日本は、有色人種の希望の星だったのです。
そしてこれが、外国の王が日本にやって来た最初のできごとです。
来日したカラカウワ大王は、アメリカ人の随行員らを出し抜いて、日本人通訳のみを連れて、密かに赤坂離宮を訪ねると、明治天皇との単独会見を願い出ました。
天皇側は夜中の訪問を不審に思ったけれど、とりあえず会見に応じました。
カラカウワ大王
カラカウワ大王

大王は、明治天皇にハワイ王国の窮状を述べました。
そして、5つの事柄について、日本の協力を要請しました。
1 日本人移民の実現
  ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う。
2 やがて王位を継ぐことになる姪のカイウラニ王女と
  日本の皇族の山階宮定麿親王との婚約。
3 日本・ハワイの合邦
 (ハワイを日本にしたい)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現。
上にあるカラカウワ大王の写真をみたらわかりますが、いまではすっかり様変わりしてしまったのですけれど、もともとのハワイ諸島に住んでいた人たちは、モンゴロイドであり、縄文人の末裔です。
ですから顔立ちも日本人と同じです。
上にある「1」の「同一種族」という言葉は、こういうところから来ています。
2のカイウラニ王女が下の写真です。
美しい女性です。
写真の王女が、和服に和傘をさしているのがおわかりいただけますでしょうか。
カイウラニ王女
カイウラニ王女

しかし明治維新後わずか14年の日本には、この時点で欧米列強を敵に回して対抗できるだけの力はありません。
やむなく明治天皇は、翌年カラカウア大王に特使を派遣して、婚姻を謝絶しています。
その代わりに、日本人によるハワイ移民は実現させました。
これが1884年の「日本ハワイ移民協約」です。
明治18(1885)年、第一陣の日本移民がホノルルに到着しました。
このときハワイでは盛大な歓迎式典が行われています。
カラカウア大王もご臨席されました。
やってきた日本人には日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されています。
明治24(1891)年1月、カラカウア大王が病死し、後継者には大王の実妹のリリウオカラニが女王として即位しました。
女王は、明治26(1893)年1月15日、ハワイの民衆に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えようとしました。
宮殿前には、女王を支持するハワイの大勢の民衆が集まりました。
リリウオカラニ女王
リリウオカラニ女王

けれど、この憲法改正案には、ひとつ問題がありました。
施行されると、市民権を持っていない白人たちは選挙権を得られないのです。
つまり参政権が否定されます。
まさにそのための憲法改正でもあったわけです。
これに対し、米国公使のスティーブンスは、翌16日、
「米国人市民の生命と財産を守るために」
と称して、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、海兵隊160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧しています。
そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿にピタリと合わせました。
宮殿前には大勢のハワイ市民が集まっているのです。
スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人は、この状況のもとで、ハワイの民衆の命と引き換えに、女王の身柄を拘束しました。
ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還のために徹底抗戦の構えを見せます。
けれど、島民たちの命が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は
「無駄な血を流させたくない」
と、退位を決意します。
この瞬間にハワイ王国は滅亡してしまいました。
カラカウア大王が来日から僅か12年後のことでした。
しかしハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で入植した2万5千の日本人がいます。
その命までも、人質になっているのです。
そこで急きょ日本から派遣されたのが、巡洋艦「浪速」と「金剛」でした。
2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨しました。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。
東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず、会話も拒みました。
そして、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。
もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。
けれど完全な臨戦態勢です。
ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。
両側を日本の巡洋艦が固め、その主砲は、いちおうは前を向いているものの、ちょっと横を向いただけでボストンボストンは沈没を免れないのです。
東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。
かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。
ですからフラダンスの父と呼ばれています。
そして東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。
Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)
 Ha'aheo ka ua i na pali
 Ke nihi a'ela i ka nahele
 E hahai ana paha i ka liko
 Pua 'ahihi lehua o uka
 Aloha 'oe, aloha 'oe
 E ke onaona noho i ka lipo
 A fond embrace a ho'i a'e au
 Until we meet again
 山たちこめる雲 霧化し森の間間
 さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
 ふるさと ふるさと
 うるわしのああ まほろば 
 もう一度 抱きしめて
 さようならふるさと
とてもやさしい旋律の曲であり、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の名曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」です。
名曲アロハオエの美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが歌われているのです。
そしてそんな深い悲しみがあっても、それをやさしく明るい旋律で包んでしまう。
恨みだ被害者だといって、ただ闇雲に騒ぎ立てるどこかの国の人とは、明らかに民度に違いがあるということがおわかりいただけようかと思います。
このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。
そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。
西欧で生まれた国民国家は、基本的に王は庶民から収奪し、戦争をし、贅沢三昧をするなど、ろくなことをしないから、その王権に制限を加える、ということのために、憲法や政治組織ができあがっています。
けれど、日本にしてもハワイにしても、王はどこまでも慈しみの存在であり、神々と繋がるシラス存在です。
まるで文化が異なるのに、これを無理やり一緒くたにしようとするから、矛盾ばかりの歴史認識となり、歴史を合理的な因果関係で語れなくなるのです。
リリウオカラニ女王の退位とハワイ王国の滅亡は、女王自身の
「我が身はどうなっても構わない。
 ひとりでも多くの国民の命を守りたい」
というご決断のもとに行われました。
こうしてハワイ王国は滅亡しました。
ハワイは、女王の退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからある文化のすべてが失われてしまいました。
日本も、本当に下手をすれば、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
これを守ることができたのは、ひとえに、幕末から明治にかけての日本人が、勇敢に「戦う」という姿勢を貫いたことによります。
そういえばこんなジョークがありました。
島の漁師は毎日、島の人たちが買いに来る分だけ魚を捕り、それを売ったお金で必要なものを買って生活していました。
そこに、海の向こうから投資家がやってきて言いました。
投「もっと魚を捕りましょう!」
漁「そんなに捕ってどうするんです?捕ったって食べきれませんが」
投「この島だけでなく、他の島にも売りに行くんだ」
漁「それでどうするんです?他の島にも漁師はいますよ」
投「そいつらよりも安く売ってカネを稼ぐんだ」
漁「カネを稼いでどうするんです?」
投「そのカネで大きな船を買って、もっとたくさん魚を捕るんだ」
漁「そんなに捕ってどうするです?」
投「もっと遠くまで売りに行って、もっとたくさんカネを稼ぐんだ」
漁「そんなにカネを稼いでどうするんです?」
投「南の島に家を買って、のんびり暮らすんだよ」
漁「旦那、ワシはもうそれをしてますぜ」
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2009年1月の記事のリニューアルです。
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