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20170214 善人の顔をした悪魔
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よく「対立軸」という言葉を耳にします。
どんなに共通項がたくさんあっても、
「自分と相手との間には、こういう点に違いがある。
 だから自分の方が優れている」
といったふうに、議論が展開されます。
このときに、軸となる違いが「対立軸」で、その軸を基準にして、両者が両極に別れます。
そして左右両側に別れて、言論で争えばそれが「言論戦」となり、武力を用いれば「武力戦争」となります。
あるいは軸からの距離が、好き嫌いの人間関係となることもあります。
また、対立軸の一方側の視点だけで報道をすれば、反対側の人たちからみれば、それは偏向報道です。
日本に限らず、米国においても同じで、社会の隅々まで、この「対立」を軸に政治が動いています。
それは、見方を変えれば、あたかも対立のための政治が行われているかのようです。
こうしたことから、「戦後の日本は米国一辺倒になり云々」と語られるのですが、実は戦前は、いまよりもこの対立構造はもっとひどいものでした。
たとえば昭和10年代は、政友会系と、民政党系に日本社会全体が二大政党に別れていました。
このために、どこの県にも交番が2つありました。
政友会系の交番と、民政党系の交番があったのです。
20161026 倭塾バナー

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当時の鉄道は、政友会系の大臣のときは駅名が全部右書き、民政党に政権交代すると全部左書きに変えられました。
再び政友会が政権をとると、全部右書きに代わりました。
最近の学者さんは、「昭和10年代は軍部独裁の時代」などと言っていますが、これはいったいどういうことでしょうか。
どこが軍部独裁なのでしょうか。
そもそも軍部って、誰のことを言っているのでしょうか。
ちなみに鉄道に関して言えば、これはいまでも似たところがあり、地方行政のトップがChinaや半島ひいきの人になると、駅の案内板が、ここは日本なのに、ハングルや簡体字に書き換えられます。
要するに、対立を軸に世の中が回っていると理解すれば、支持母体の意向に寄り添って、片側だけをひいきにすれば、票が得れるのです。
いまの日本は、さながら多様な対立軸を中心に、複雑怪奇な相対関係をなしているかのようです。
これを美しい言葉で修飾すれば、「多様な価値観」となります。
けれど、その実態が、世の中が中心点を失い、対立軸だけを中心にまわっているのなら、その状態はただの混沌です。
十七条憲法ではこのことを第十条で次のように喝破しています。
。。。。。。。。。 。。
「絶忿棄瞋  忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、
 不怒人違  人の違(たが)うを怒らざれ。
 人皆有心  人みな心あり。
 心各有執  心おのおの執(しゆう)あり。
 彼是則我非 彼を是(ぜ)し、我を非(ひ)し、
 我是則彼非 我を是(ぜ)し、彼を非(ひ)す。
 我必非聖  我、必ず聖(きよき)にあらず、
 彼必非愚  彼、必ず愚(おろか)にあらず。
 共是凡夫耳 共にこれ凡夫(ぼんぷ)なり。
 是非之理  是非の理(ことわり)
 誰能可定  誰がよく定むべし。
 相共賢愚  相共に賢愚にして
 如環无端  環(たまき)の如くして端(はし)なし。」
ある団体に、おかしな人達が入り込み、その団体のトップを追い出して、団体そのものを乗っ取ろうとする動きが起きたことがあります。
同じ手口で、事実上、代表が追い出されて乗っ取られたケースは多々あります。
どこも同じなのですが、はじめのうちは代表者は、日本人ですから、自分への攻撃が、自らの不徳によるものと思い、何度も謝罪やお詫びの言葉を繰り返します。
けれど、そもそもが乗っ取りや、金をむしる、あるいは名誉を得るための動きです。
謝罪をすれば、「それみたことか」とばかり、カサにかかって、あることないことどころか、ないことないことが言いふらされます。
すると多くの場合、代表者は、縷縷(るる)、事実関係の「説明」や「証明」をはじめます。
すると、今度はそのことばじりをつかまえて、攻撃が加速します。
そもそも「説明」や「証明」そのものが意味を持たないのです。
なぜなら、攻撃し、乗っ取り、金や名誉を得ること自体が目的なのです。
説明すればするほど、証明すればするほど、「ますますあやしい」と言って騒ぎ出す。
ここまでくると、代表者はさすがに怒り始めます。
すると、その怒っている姿を、「精神異常だ」と言って騒ぎます。
こうして疲れ果てて、代表者が辞任が追い込まれる。
多くの企業や、団体がまったく同じ手口で、ごくひとにぎりの特定外国人集団によって、こうして乗っ取られてきました。
初動段階で、間違っているのです。
そもそも内部に対立をまねこうとすること自体が、実は悪なのです。
悪はすぐに追い出せと、江戸時代に寺子屋の定番であった教科書の「童子教」にかかれています。
「畜悪弟子者  悪しき弟子を畜(やしな)へば
 師弟堕地獄 師弟地獄に堕(を)ちる
 不順教弟子 教へに順(したが)はざる弟子は
 早可返父母  早く父母に返すべし
 不和者擬冤  不和なる者を冤(なだ)めんと擬(ぎ)すれば
 成怨敵加害  怨敵(おんてき)と成つて害を加ふ
 順悪人不避  悪人に順(したが)ひて避(さ)けざれば
 緤犬如廻柱  緤(つな)げる犬の柱を廻(めぐ)るが如し
 馴善人不離  善人に馴(な)れて離れざるは
 大船如浮海  大船の海に浮かめるが如し」
昨今の日本は、「我々は日本人である」ということのための中心角となる価値観を喪失し、中心となるべき価値観を喪失したまま、演出される対立軸に振り回されてるというのが実情といえます。
古事記では、このような状態を、
「万神之声者  よろずのかみのこへは
 狭蝿那須満  さばえなすみつ
 万妖悉発   まんようことごとにおこる」
と表現しています。
「万神」と書いているのが、古事記の巧みなところです。
悪神に限らず、善良な神も含めてことごとく大騒ぎになったと書いています。
その騒がしい様子が、
「狭蝿那須満(さばえなすみつ)」です。
狭いところでたくさんの蝿がブンブンと飛び回っている状態です。
蝿は一匹でもうるさいですが、たくさんの蝿が満ちるように、しかも狭いところで飛び回っていたら・・・想像しただけで、そこは人の住めるようなところではなさそうです。
1秒だってそんなところにいたくありません。
古事記は、さらに「万妖悉発(よろずのわざわひことごとにおこる)」と続けています。
「妖」という字は、もともと女性が両手を挙げて頭を傾け興奮状態で舞っている姿をあらわした象形文字です。
いうならば暗がりの女性のセクシー・ダンスを表す文字です。
この漢字に、私たちの祖先は、「わざわひ」という大和言葉をあてています。
大和言葉の「わざわひ」は、人に不幸をもたらす物事、あるいは結果が不幸となる出来事のことです。
暗がりでの身をくねらせる誘惑を、私たちの祖先は「わざわひ」ととらえていたのです。
誤解のないように申し添えますが、古事記はダンスを悪いと言っているのではありません。
狭蝿那須満(さばえなすみつ)混沌がよろしくないと言っています。
では、その混沌を鎮めるものは何でしょうか。
それが、中心点と強制です。
中心点を置いて、すべてをその中心点のもとに置く。
このことを、古い大和言葉でシラス(知らす、Shirasu)と言います。
日本は天皇のシラス(知らす、Shirasu)国であり、天皇がすべての中心の国です。
けれど、中心点を置いただけでは、エントロピーの法則で、すべてのエネルギーは拡散の方向に向かってしまいます。
拡散の際に用いられるのが対立軸です。
その拡散を防ぐ社会体制のことを、やはり古い大和言葉でウシハクと言います。
ウシハクは、強制です。
つまり、世の中に中心点を定め、その中心点から逸れないように強制する力がウシハクです。
こうして、シラスの中にウシハクを配置することによって、世の中の一体性を保とうとしてきたのが、大昔からの日本人の知恵です。
シラスだけでは、狭蝿那須満(さばえなすみつ)混沌は防げないのです。
だからこそ、ウシハク力が必要になります。
けれど、ウシハクだけで、シラスがなければ、世の中はウシハク者の独裁となり、支配と隷属、支配と収奪だけの狭蝿那須満(さばえなすみつ)混沌よりも、もっと悪い状態に世の中がなってしまうのです。
シラスの中にウシハクがあるという形こそが、狭蝿那須満(さばえなすみつ)混沌を防ぐ、最良の道であることを、大昔の日本人は見つけ、それを社会体制にまで発展させてきたのです。
江戸時代は、とても治安が良かったことで知られています。
世界の人類史の中で、ここまで治安が良い社会を構築できたのは、おそらく日本だけです。
それがなぜ実現できたのかといえば、国全体が、天子様と呼ばれた天皇のシラス国であり、国の隅々まで、すべては天皇の「おほみたから」であり、その「おほみたから」の治安と発展について、徳川将軍が圧倒的力をもって責任を持ち、犯罪の発生抑止に全力をあげたことによります。
犯罪が起きてからではなく、犯罪が起きる前に先に察して手を打つのです。
犯罪が起きたなら、管理者はその責任をとって腹を斬るというのが、江戸時代の体制です。
これはとても厳しいものです。
けれどその厳しさがなければ、シラス国の完成はないのです。
ですから、シラス(知らす、Shirasu)とウシハクは、対立概念ではありません。
シラス(知らす、Shirasu)の中に、ウシハクが内包される共存概念です。
対立というもの自体がよくないのです。
ですから、世の中で、対立を誘うもの、対立するもの自体が、狭蝿那須満(さばえなすみつ)混沌であり、悪です。
つまり、社会の敵とすべきは、対立する一方当事者というのは、誤魔化し、まやかしでしかなく、本当は、その対立自体が悪なのです。
ですから、この悪へと誘うもの自体、もっというなら、ことさらに「対立軸」をあおるもの自体が、実は悪だということなのです。
「悪と戦う」とよく言われますが、その悪というのは、ことさらに「対立」を煽るものとの戦いです。
それは、一見すると「悪」に見えます。
つまり、悪と戦おうとする者が、「悪」に見られてしまうのです。
とりわけ、世の中全体が狭蝿那須満(さばえなすみつ)混沌、つまり社会全体がいわばゴミ屋敷と化していると、それを片付けようとする者が、悪とされてしまうことがあります。
よくあるのが、悪を正当化するために、政治やメディアが動員されることです。
裏で金が動きます。
こうして明らかに悪さをしている側が、その悪さのすべてを、相手の「せい」にして、自らがまっとうで正当な存在であることをアピールします。
つまり、特定の人が、金儲けをしたり、権力を得たりするために、悪を善にすり替えるわけです。
言論の自由を言う前に、何が大事なのかを見極める道徳心が必要です。
道徳のない正義、道徳なき法治は、それ自体が狭蝿那須満(さばえなすみつ)、悪です。
そうしたものを許さない社会正義の確立と、
その上で、国家国民が「おほみたから」であると認識される社会の両立こそが、いま求められている最大のものであると思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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