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20170210 伝統工芸
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以前にも一度書いたことがありますが、今回、また別な切り口で、山崎闇斎(やまざきあんさい)について書いてみたいと思います。
もともと儒者であったけれど、神道を学び、後の尊皇思想に大きな影響を与えた人です。
山崎闇斎は、元和4(1619)年に京都で生まれました。
父の清兵衛は、もともと秀吉の臣下でしたが、後に仕官を辞して、京の都で鍼灸医をしていました。
妻が妊娠したとき、比叡山の神様にお産の安全を祈ったのですが、ある日のこと、梅の花を一輪手にした老翁がやってきて、清兵衛の左の袖に入れるという夢をみました。
生まれてきた子は、男の子でした。
幼い頃からある種の豪傑児で、あまりの素行に、父は、ついに子を妙心寺に預けます。
闇斎は、そこで剃髪して、絶蔵主(ぜつぞうす)と名乗り、日々修行に明け暮れ、修行は一日たりとも欠かすことはなかったそうです。
ところが頭が良くて気が強く、しかも負けん気が強い。
ある日、同じ寺の兄弟子と議論になり、もちろん子供ですから、その兄弟子に見事に論破されてしまった闇斎は、その日の夜、ひそかに兄弟子の寝所に行き、枕元で紙に火を付けて燃やしたのだそうです。
あるいは、寺にいて仏典を読み、深夜に突然大声で笑い出す。
何事かと同僚たちが起き出すと、
「釈迦の欺瞞性を笑ったのだ」とケロリとしている。
その、良く言えば豪邁、悪くいうなら傍若無人さは、他に比類がない程で、あまりのことに同輩たちは、もうこの寺から闇斎を追い出そうと、これは全員一致で決議に至ったのだそうです。
20161026 倭塾バナー

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たまたまこのとき、土佐のお偉いさんが妙心寺に来ていて、その話を聞き、
「この子は、神姿非常の児である。
 後の世に必ず名をなすであろう」
と、闇斎を引取り、土佐の吸江寺(きゅうこうじ)に学ばせました。
その寺には、同じく生徒として、小倉三省や、野中兼山がいました。
人は人を呼び、また人は人を見抜きます。
三省も兼山も、闇斎の器を見抜き、その闇斎が異端に陥ることを惜しんで、彼に宋学の書を渡します。
闇斎は、これを素直に喜び、ついに還俗して儒学に帰すことを決めています。
ときに、闇斎25歳のときのことです。
36歳になった闇斎は、土佐から京の都へと帰り、そこで闇斎塾を開きます。
ここは現在、「山崎闇斎邸跡」となっているところです。
そしてここで、吉川惟足(きっかわこれたる)という神道家と運命の出会いをし、もっぱら神道へとその思考を傾斜していきます。
要するに闇斎は、儒教を学び、儒学の師匠として名を為していながら、儒教の持ついかがわしさに気付き悩み、そこで新たに日本古来の随神(かんながら)の道に出会うことで、真実を知るわけです。
ところがこうなると、商売としてはたいへんです。
儒教の学問所の師匠が、儒教を、端的にいえば、辞めてしまったのです。
当時、闇斎の弟子は都に6千人を数えました。
けれど、佐藤直方、浅見絅斎(けいさい)その他高弟たちが相次いで、闇斎のもとを去り、そして生徒数も激減していきました。
やむなく闇斎は、住み慣れた京の都を離れ、江戸に転居します。
闇斎、46歳のときのことでした。
江戸に出た闇斎は、長屋で貧しい暮らしをしました。
内職程度の仕事をしたようですが、生活の足しにもならず、きわめてその生活は貧しかったようです。
このとき、常陸の国の笠間の城主の井上正利(後の浜松城主)が、出入りの商人に、
「誰か良い師匠はおらぬものか」と問います。商人答えていわく、
「近頃、儒生の山崎闇斎という者が、京都から来て江戸の東屋に住んでいます。私も会いましたが、尋常に度を越す人でした。もし閣下が山崎闇斎を召せば、それは不慮の幸運であり、感奮してご恩に答えること間違いありません。
井上公はおおいに喜び、ぜひ闇斎に会いたいと言います。
一方、その商人は、帰宅後にさっそく闇斎のもとに行き、以上の経緯を告げます。
ところが闇斎は、毅然ととして、
「井上公が道を問いたいのなら、井上公から来るべきです」
商人は憮然とし、
「こんな様子では、いまどきの時勢では通じない。かえってこちらの身にわざわいでもふりかかれば、たいへんなことになる」とばかり、闇斎の件を放置していました。
ところが井上公が、「あのときに聞いた山崎闇斎の件はいかがいたした」と聞きます。商人は、
「小人でした。実は先日、彼に公のことを伝えたのです。ところが彼は『教えを乞いたいのなら、まず公より来て我を見よ』というのです。あまりに頑固な態度で、私も腹が立ちまして。他にどなかたお選びなされた方がよろしいかと」
井上公は、しばらく考え込んで言いました。
「自ら儒学の師匠を名乗る者の多くは、その説く道は空論にすぎぬ。
 だからこそ、東奔西走して、真の師を求めているのです。
 しかるに、あなたが問うと、彼は
 『礼は来たりて学ぶべし。
  行って教えるというのは聞いたことがない』
 と申したわけですな。
 山崎闇斎と申す者、よくこれを守る。
 すなわち、彼こそが真の儒者にちがいないであろう」
と、即日、籠を出して、闇斎の宅を訪問します。
こうして大名に見立てられた闇斎のもとには、次々と大名が出入りするようになります。
そのなかには、会津藩主の保科正之もいました。
ある日、保科正之が闇斎に問いました。
「先生には、楽しみというものはあるのでございましょうや」
闇斎は答えました。
「臣には三楽があります。
 およそ天地の間、生あるものは数ありますが、
 そのなかで万物の霊長として生まれたのです。
 これがまず第一の楽しみ。
 天地の間は一治一乱、定まるところがありません。
 しかるに偶々泰平の世に生まれ、
 書を読み、道を学び、古の聖賢の教えを一堂に学ぶことができます。
 これ、一楽です。」
これを聞いた保科正之が、
「わかりました。ニつの楽を伺いました。
 では、残りのひとつは何でしょうか」
闇斎が答えます。
「三つめの楽は、もっとも大きなものです。
 しかし言いにくいことでもあります。
 もし述べたとしても、きっとお信じにならないでしょうし、
 聞けば公が誹謗中傷を受けることになりましょう」
保科公が、さらに問います。
「たとえ我が身が誹謗中傷を受けたとしても構いません。
 ぜひとも聞かせてください」
闇斎「では申しましょう。
 いわゆる楽の最も大きなものとは、
 幸いにして卑賤の身に生まれ、
 公家や大名の家に生まれなかったことです。」
保科「どういう意味ですか?」
闇斎「思うにいまの諸侯は、深宮の中に生まれ
 婦人の手によって育てられ、
 不学無術、声色に従って遊戯に耽る。
 しかして臣たる者も、主意に迎合し、
 主意に沿えば賞賛され、沿わなければ捨てられ
 ついに本然の性を消滅させてしまっています。
 一方、卑賤の身に生まれた者は
 辛酸を舐め、長じては事務に習い、
 師の教えを守り、友とたすけあって行きていくことができます。
 まさに、このことが私の楽しみの最大のものです」
保科正之は、この言葉を聞いて茫然自失し、ため息をして次のように話されました。
「まことに先生のおっしゃる通りです」
またある日のこと、群がる弟子を前に闇斎は次のように問いました。
「方々、今、Chinaが孔子をもって大将とし、孟子を副将となして、数万騎を率いて我が国に攻め込んできたら、我が党の孔孟の教えを学ぶ者は、これをいかにするか」
弟子たちが答えられずに言いました。
「私たちには答えようがありません。願わくば、その答えを教えてください」
闇斎は、次のように答えました。
「不幸にしてもしかくのごとき厄災に遭ったなら、すなわち我が党は、身に鎧をまとい、手に槍刀を持って彼らと一戦し、孔孟を捕らえて国恩に報ぜん。これこそがすなわり孔孟の道です」
後に弟子の伊藤東涯は、このことを例にひき、
「我が闇斎先生の如きこそ、聖人の旨に通じているというべきものです。
 このことそこ、よく孔孟の深義を明らかにするものです。
 もっとも、孔孟が攻めてくることがないことを祈りますが」
その闇斎の教え方ですが、これはたいへんに厳しかったと伝えられています。
子弟の間は厳として、まるで君臣のようであったという。
教えを受ける者は、たとえ貴卿巨子の別なく、
書を講じるときは、その声はまるで梵鐘が鳴るかのようであり、
その表情はまるで怒っているかのようであり、
生徒たちは凛然として、顔を上げて闇斎を見る者さえいかなったといいます。
生徒たちは、
「我々は、つれあいを得ることもできない。
 情欲は、ときに動いて自ら制することもできなくなるが
 瞑目して先生を一想すれば、欲念はたちまち消え
 寒くもないのに背中がぞくぞくする」
山崎闇斎は、幼い頃から、いわゆる天才児でした。
それだけでなく、猛烈な気迫を持ち、その天才的頭脳と猛烈な気迫を持って先ず、仏門を学び、次いで実践的儒学を学びました。
そしてその道の第一人者となりました。
ところが46歳にして神道と出会い、それまでの道をあらためました。
このことは、昨今の環境からいえば、秀才だった全共闘世代の子が、若い頃には左翼運動に精を出し、共産主義こそが正義に違いないと信じて活動していたものが、社会に出て、年輪を重ね、人の上に立つ経験を重ねることによって、若い頃に傾倒した主義のいかがわしさに目覚め、そこで日本的な美学や随神(かんながら)の道に出会うことによく似ています。
そのことが山崎闇斎にとっては、自身が儒学を教える教授として、多大な影響力を持っていた者であるだけに、軌道修正、方向転換は、それまでの高弟からも見放され、京の都を離れて江戸に移住して貧乏暮しをしなければならなくなるほどの、たいへんな苦行でもありました。
とりわけ神様ごとというのは、孟子の「天のまさに大任をこの人に降さんとするや」の語ではありませんが、必ず、一定の苦難の道が与えられるものです。
孟子はこのことを、「天がその人に忍耐力を付けさせるため」の試練なのだと説きましたが、我が国では、どうも違うようです。
人は、苦難を知り、それを愛の力で乗り越えることによって、魂が鍛えられ、魂のステージを上げていくということのようです。
山崎闇斎は、その薫陶を経由することで、まさに歴史に名を残す偉大な人物となっていったわけです。
それともうひとつ。
先般、谷時中の「師道」にも書かせていただいたことですが、山崎闇斎の教え方も、とても厳しいものでした。
それは、教える側にも、また、教わる側にも、双方に厳しさを求めるものでもありました。
そして、その厳しさを、本日のお話の中で、井上正利のもとに出入りしていた商人は、理解しえませんでした。
商人というものは、お客様に媚び、我が利を得るものです。
いまの日本は、1億総商人化していて、製造業のようなモノ作りにあっても、あるいは教育の場にあっても、いずれも、「媚」と「利」が社会の原則になっています。
商人は、買うときは「安くしろ」と買い叩き、売るときは愛想笑いを浮かべながら媚を売って少しでも相手に満足してもらおうとするものであるからです。
けれど、日本はもともとモノ作り国家です。
それは稲作などの農業全般がそうですし、工業も同じ、また教育も「人つくり」という意味において、実はその根を同じくします。
モノ作りの場では、愛想笑いやダンピングよりも、より良い品をつくることが第一とされます。
その根幹には、厳しさと誠実さが要求されます。
社会の仕組みが、商人国家とモノ作り国家では、実は真逆です。
日本は、神話の時代に、モノ作りを国の根幹に据えてきたということが古事記に書かれています。
それが天孫降臨です。
ニニギノミコトが五伴緒神(いつとものをのかみ)とともに降臨されましたが、これは社会の仕組みの根幹をモノ作り国家に変えようとするものでした。
天照大御神の天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅も、斎庭稲穂(ゆにはいなほ)の神勅も、いずれも売買よりも、つくることを、世の中の中心に据えようとするものです。
すこし考えたらわかることですが、たとえば林業業者が、一時的な利益だけを求めるならば、森の木々をすべて伐採して、愛想笑いを浮かべながら、少しでも高値で木々を売れば、莫大なお金を手にすることができます。
けれど、森の木々は、伐採したら、そのあと植林し、また枝打ちをしながら何十年もかけて木々に手を入れ続けなければ、森そのものが失われてしまいます。
3〜4千年前に人類文明があったところは、いま、世界中どこをとっても砂漠です。
砂漠は、太古の昔から砂漠だったのではなくて、そこで人類が古代文明を築いていたということは、そこはかつては緑の大地でした。
エジプトにはナイル川があり、メソポタミアにはチグリス・ユーフラテス川があり、Chinaには黄河があります。
ちゃんと水があるのです。
にも関わらず、いまだに砂漠です。
人が鉄器を得るために木を伐り、植林をしなかったがために森が失われ、結果として、砂漠になっています。
日本は、我が身の儲けよりも、次代につながるモノ作りを優先したために、古代からたたら製鉄が行われていながら、いまなお、森を持つ国でした。
ところがこの数十年の間に、森の緑はおよそ30%も失われています。
日本は果たして国土の砂漠化をしたいのでしょうか。
山崎闇斎や谷時中が、いわゆる「師道」を厳格に実現できた背景には、世の中の仕組みそのものが、ものをつくることを大切にするという「根っこ」が確立されていたことによるものということができます。
そしてはっきりいえることは、教師が生徒にただ媚を売るような甘やかされた教育では、ろくな人材は育たないし、モノ作りに携わる企業が、その本義を忘れて、安かろう悪かろうのただの金儲けに走れば、その会社は一時的には繁栄できて、世界に名だたる大企業になったとしても、商品が爆発して、一瞬にして世界中から信用をなくして、おそらく近々破産に追い込まれる。
同様に、国家が、その本義を忘れて、政治から企業活動に至るまでのすべてが、お金と儲けを中心に据えた仕組みになれば、短期的には儲けが上がったとしても、かならずカルタゴのように、国そのものを失ってしまう。
私たちは、そういうことを、いまいちど真剣に考え直していくべきときにきているのではないかと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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