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20170123 高千穂の雲海
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ある方から教わったのですが、私は前世で、杖を手にして岩山の上で朝日(夕日?)を眺めながら、「この美しさをみんなに見せてあげたい」と強く願っていのだそうです。
「お坊さんだったのですか?」
と伺いましたら、そうではないのだそうです。
それ以上詳しいことは伺えなかったし、それがただのイメージなのか、本当に前世の記憶なのかは、自分にはわかりません。
ただそのように言われれば、そうなのか、と思うだけです。
ただ、ひとついえることは、このような衝動といいますか、願いは、常に心のなかにあります。
とっても美しい景色を見たり、何かとても感動したとき、どういうわけか、それをひとりで独占したらもったいないって思うのです。
みんなで楽しみたい。
感動を共有したい。
いつもそのように思います。
そういう人は、たぶん、他にもたくさんおいでになると思います。
いわゆる「美味しいお店の口コミ」なんていうものも、美味しかったという感動をシェアしたいという素朴な願いが形になったものなのではないかと思えるからです。


以前にも書いたことですが、理屈では人は動きません。
人は感じて動くものです。
だから「感動」といいます。
理屈で動く「理動」という言葉はありません。
けれど行動には理論的裏付けが必要です。
おそらく日本を変える、あるいは日本を取り戻す力というのは、理論と実践の間に、「感動」という要素が必要なのであろうと思います。
日本には、歴史や古典の中に、本当にすごい人物がたくさん登場します。
とりわけ日本的ヒーローやヒロインというのは、スーパーマンのように最初からあらゆる力を持っている人ではなくて、様々な葛藤の中で、いろいろな失敗を繰り返しながら、それでもあきらめずに最後まで努力を続けた人、あるいは多くの人のために尽力をした人が、歴史に名を残しています。
衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六という人がいます。
この方が、豊橋市にいた小原竹五郎のことを書き残しています。
原文は文語なので、いつものようにねず式で現代語訳してみます。
 *
「小原竹五郎」
明治十二年の夏のこと、私の郷里の豊橋に、コレラが流行しました。
私の住所である船町にも数名の患者が出ました。
しかし伝染力が強いから、誰も遺体の運搬をしてくれません。
私の父は当時、町の用務係を勤めていたのですが、その頃の用務係は、後の戸長に相当するもので、町内のあらゆる世話を行うものとされていました。
その頃、町に小原竹五郎という者がいました。
竹五郎は、いつも酒を飲んでは暴れまくる乱暴者でした。
町の人たちは、彼のことを「オボ竹」と言って、たいそう嫌っていました。
その竹五郎が、この非常事態に際して、父の勧誘に応じて決然と立ちあがり、進んで遺体の運搬夫の役を買って出てくれたのです。
彼の動作は勇敢でした。
見るものを驚嘆させました。
けれど竹五郎は、ついにコレラに感染してしまいました。
初代渥美郡長だった中村道太氏は、当時はまだ豊橋に住んでいました。
深く竹五郎の侠気に感じ、自ら竹五郎を病床に見舞いました。
私の父もしばしば石塚の庚申堂の一隅にあった竹五郎の床を見舞いました。
けれどその甲斐なく、竹五郎はついに還らぬ人となりました。
竹五郎の死後、明治15(1898)年6月20日に、竹五郎の墓が建てられました。
このとき中村氏は、自ら筆を揮って、その墓標に
「奇特者小原竹五郎之墓」と大書されました。
それは幅40cm、高さ1m50cmくらいの石柱なのですが、その側面には碑文が刻まれ、今猶ほ龍拈寺の墓地内に現存しています。
 *
竹五郎は、大酒のみの暴れん坊でした。
ですから日頃は、町の嫌われ者です。
けれど、いざとなったら町の人たちのために一肌もふた肌も脱ぐ。
そしてそのことを地域の総主がちゃんと慈しむ。
おなじ本に、もうひとり、江崎邦助が紹介されています。
 
 *
明治19(1886)年のこと、江崎邦助(えざきくにすけ)という巡査が、豊橋警察署田原分署(現田原警察署)勤務を命ぜられました。
江崎邦助は、文久元(1861)年の生まれですから、このとき25歳です。
三重県鳥羽市の生まれで、長じて愛知県警に就職し、明治19年には、19歳の妻「じう」と結婚しています。
つまり、新婚ホヤホヤです。
この年、大阪で発生した伝染病のコレラは、またたくまに広がって、6月には愛知県全域にまで多数の死者を出すようになりました。
そんなある日、分署長の命令で、奥郡(現田原市渥美、赤羽根一帯)を巡察していたしていた邦助は、堀切村でコレラが発生したとの情報を聞きつけました。
邦助は、すぐに医師を連れて現場に向かいました。
医師の見立てにより、真性コレラであることが確認されました。
すぐに消毒をしなければなりません。
ところが村人たちは、消毒なんてとんでもないといいます。
村の恥さらしだというのです。
邦助は、医者とともに、村人たちを懸命に説得しました。
一時は石を投げつけられました。
鎌を向けられたりもしました。
それでも邦助は、三日三晩、眠らずに説得を続けました。
そしてようやく村人の協力を得て、村中の消毒が行われました。
消毒を済ませた邦助は、この事を署に報告するため、急いで堀切村を出発しました。
しかしこのとき、邦助もコレラにかかっていたのです。
そして若見村(現田原市赤羽根町若見)まで来たときには、もう一歩も歩けなくなってしまいました。
一緒にいた医師が、人力車を呼んでくれました。
帰路を急いだけれど、加治村(現田原市田原町加治)まで着いた頃、邦助は、もはや人力車に乗り続けるだけの体力も残されていませんでした。
邦助は人力車を降りました。
そして近くの林に身を置きました。
しばらくすると、役場の職員や妻の「じう」も、そこに来てくれました。
邦助は、言いました。
「自分が田原の街に入ったら
 大勢の人にコレラにうつってしまう。
 だからよ、俺はもう署には帰れねえ
 おめえさんたちは、俺に近づくんじゃない。
 俺に近づいたらコレラが感染る。」
しばらくして、医師や仲間の警察官も到着しました。
親しい仲間も、妻さえも、邦助は近づけさせません。
仕方なく、みんなでまわりを囲むようにして、邦助が自分で歩いて近くの小屋に移動させました。
妻の「じう」は、その小屋の中に入っていきました。
「私がしっかり看病します。
 そして、夫の元気な姿をお目にかけます。」
じうは、小屋の中で必死に夫の看病をしました。
けれど翌日、邦助は、還らぬ人となりました。
そして妻の「じう」も、邦助の後を追うように、19歳の命を閉じました。
邦助が林に残ったことで、田原の町では、コレラの罹患を最小限に抑えることができました。
 *
邦助が殉職した稲場を校区に持つ田原市立衣笠小学校では、いまでも毎年11月の学芸会で、六年生が「江崎巡査物語」を演じているそうです。
この頃には、コレラ対策もだいぶ発達していて、病原菌を克服して生き残れる医療もだいぶ整ってきていたのです。
ですから邦助は、田原の町に帰って入院していたら、もしかしたら死なずに済んだのかもしれません。
けれど、町に入るということは、それだけ、町民たちへの感染のリスクをもたらすことになります。
けれど邦助は、警察官として自分の身よりも町民の命を大切にしました。
そして妻じうも、結婚したての夫のために、必死の看病をして、この世を去りました。
このような物語は、全国に数限りなく存在します。
それが日本です。
身命を惜しまず、みんなのためにを優先する。
お金儲けが第一の世の中では、こうはいきません。
自分さえ良ければという考え方が最優先になります。
けれど、ものつくりの世の中では、なによりも人の役に立つということが最優先の選択肢になります。
日本は、そういう国であったのです。
日本では、スーパーマンのように、はじめから超人的な力を持っていて、正義を貫くために敵と戦い、そのためにあらゆるものを破壊していったという人物は、あまり評価されません。
というより、いません。
日頃から真面目に一生懸命働く名もない民。
それこそがスーパーマンだというのが、実は日本の国柄です。
日頃は嫌われ者であっても、いざとなったら、命も惜しまず人々のために献身的に身を捧げる。
それこそがスーパーマンだというのが、日本の国柄です。
何もかもが正しく、何もかもが優れている人なんて、世の中にいません。
自分も含めて、正直、おバカな人たちばかりの世の中です。
それは愛すべきおバカであったり、ほんとうにどうしようもないおバカであったりもします。
けれど、それでも、どっかで絶対に人のため、世の中のためにこの命を静かに燃やしたい。
それが普通の日本人の感覚です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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