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お正月にちなんだ話題ということで、福井文右衛門のお話をしてみたいと思います。
福井文右衛門(ふくいぶんえもん)は、藤堂高吉(とうどう たかよし)の家臣です。
藤堂高吉は江戸時代前期の武将で、もともと丹羽長秀の三男として生まれたのですが、秀吉の朝鮮征伐のときに加藤清正らと並んで、たいへんな武功を立て、この功績から藤堂高虎の跡取りとして養子となりました。
ところが藤堂高虎に実子の高次が生まれてしまうのです。
このため高吉は、藤堂家の中で疎んじられるようになり、家中でささいな騒動を起こしたことをきっかけに、蟄居を命ぜられてしまいます。
ところがその後、慶長11(1606)年に、藤堂家が江戸城の普請を命ぜられ、人手の確保から高吉は許されて江戸城の普請を務めます。
その普請が、実に責任感あふれるしっかりとした采配であったことから、藤堂高虎によって、もともと高虎が治めていた伊予今治(いまばり)の城代に任じられました。
父の治めていた藩を受け継いだのです。
たいへんに名誉なことです。
高吉がそのようになれたのは、高吉が朝鮮征伐で大功を立てながら蟄居処分という不利益を被っても、そこでグレて不良になったり、世をひがんだりしなかったからです。
たとえ蟄居の身の上といえども、しっかりと文武に精を出し、生真面目に生きたのです。


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昨今のテレビドラマなどでは、韓流思考の影響なのでしょうが、不良が生真面目な人たちを出し抜いてかっこよく大功を立てるといった筋書きのものが多く見受けられます。
はっきりいって、ありえないことです。
特別な才能があったとしても、独りよがりで動いていては、誰も相手になどしてくれません。
どんなことでも、みんなの協力があってはじめて成り立つのです。
協調性のない不良では、世を動かすことも、変えることもできません。
すこし脱線しますけれど、仕事でも政治でも、現状が気に入らないからといって粗暴な振る舞いをしたり、デタラメなことをしたとしても、一時的には何らかの利得や地位を得ることがあっても、その結果は、大きな禍根という形にしかなりません。
このことは朝鮮戦争を招き自国民を大量虐殺した韓国の初代大統領の李承晩が見事に証明しています。
彼は結果として朝鮮半島の分断を招いたし、韓国民の経済をどん底に落としました。
韓国は日本の援助によって、経済はなんとか再興しましたが、民度はいまもおそらく世界最低のままにあります。
さて、慶長19(1614)年、高吉は大坂夏の陣で徳川方の武将として参戦します。
ここで彼は、強兵をもって鳴る長宗我部盛親を相手に見事な奮戦をし、大きな武功をたてて、寛永13(1636)年には、伊賀国の名張に移封されて、名張藤堂家1万5千石の大名となります。
ちなみに「大名」というのは、「大名主」を略した名称で、名主が地域を治めることを「知行」といいます。
「知行」は、「知らすを行う」という意味です。
今日のタイトルの福井文右衛門は、その藤堂高吉の家臣です。
高吉が名張に移封されたときに、伊勢領の出間村(現、松阪市出間村)のあたり一帯を治める代官に任ぜられました。

ところが当時の出間村は、水路がないために、農業は天水(雨水)だけに頼るほかありませんでした。
ですから日照りが続く年には、米を採ることができません。
このため出間村の農民は、とても貧しく、どの家もオカラ飯を食べて暮らしているありさまでした。
代官に就任してすぐに村々を視察してまわった福井文右衛門は、そんな村の実情を知り、
「なんとかしなければならない」
と決意しました。
いろいろ調べてみると、出間村は、櫛田川の流域にあたるのですが、土地が川面よりも高い。
このため、川の水を引くことができないということがわかりました。
水を引くためには、川の上流の下機殿(しもはたでん)から水路をひくほかありません。
ところが下機殿のあたりは、お伊勢様の御神域です。
「御神域は草木一本動かしてはならない」のです。
慶安3(1650)年5月20日のことです。
夕方、福井文右衛門は、代官所に出間村の村人たちを全員集めました。
そして、
「明日より下機殿からの水路を掘れ」
と命じました。
村人たちはびっくりしました。
「それはなりません。
あそこは神宮の御神域です」
とためらいました。
福井文右衛門は、堂々と笑顔で、
「だいじょうぶだ。
おまえたちに難儀がかかることはない。
安心して工事を実行すればよろしい」
と、重ねて水路工事を村人たちに命じました。
お代官様が、掘れと命じているのです。
「ということは、お代官様は、なんらかのカタチで
お殿様や神宮と折り合いをつけてくださったにちげえねえ」
そうとわかれば、村人たちは大喜びです。
みんな納得し、村中総出で水路を掘りはじめました。
「この水路さえできあがれば、
オラたちだけじゃねえ、
女房子供どころか、
これから生まれてくる赤ん坊や未来の子供たちまで、
みんなが腹いっぱい白い飯が食えるようになるだ。
もう飢えに苦しむことはねえだ。」
村人たちの腕には、自然と力がはいりました。
そしてなんと村人たちは、徹夜で水路を堀り、なんと一夜で水路を完成させてしまいました。
*
明け方、ようやく水路は完成した水路の最後の堰(せき)を切りました。
水が音を立てて水路に流れ出しました。
水がなく、貧しかった村が、豊富な水に支えられる豊かな村へと生まれ変わった瞬間です。
みんなの歓声があがりました。
泣き出す者もいました。
そんな涙を、泥だらけになった手でぬぐうものだから、顔が泥だらけになりました。
「おめえさ、顔がひどいことになってるぞ」
「何言うか。おめさの顔の方が、もっとたいへんだ」
くしゃくしゃになった顔に、笑顔がこぼれました。
ところが、先ほどまで工事の監督と励ましのために、一緒に徹夜して笑顔で指揮してくれていたお代官様の姿が見えません。
お代官様の尽力で、やっと完成した水路なのです。
何をおいても、お代官に知らせなくてはと、村人たちは代官所に向かいました。
するとそこには、代官福井文左衛門の割腹して果てた姿がありました。
近くには文右衛門の遺書がありました。
そこには、
「今朝、流したあの水は、
この文右衛門が命に替えて
出間村へ贈ったものである。
孫子(まごこ)の代まで
末長く豊作とならんことを」
と書かれていました。
たとえ村人たちのためとはいえ、お伊勢様の御神域を侵すのは重罪です。
本来なら、罰(ばつ)は藩主にまで及ぶことです。
だからこそ、福井文右衛門は腹を切ることで、すべての責任を一身に背負ったのです。
介錯なしの切腹というのは、実はたいへんなことです。
即死しませんから、痛みと辛さが長く続きます。
そして腹から流れた血で失血して死に至ります。
ですからとても辛いことなのです。
その痛みに耐えて、死を持って責任を果たすのです。
事件から360年経った今でも、出間村の人々は、文右衛門の命日に、欠かさず村人一同で供養の法要をしています。
お伊勢様も、下機殿に福井文右衛門のための大きな顕彰碑(けんしょうひ)を建ててくれました。
文右衛門の志は、お伊勢様にも認められるものとなったのです。
そして福井文右衛門は、いまも立派に出間村に生きています。
冒頭に不良ではだめだ、生真面目でなければいけないということを書かせていただきました。
どこまでも誠実、どこまでも人々のためにと身を律していくことこそが、実は大事なことですし、これからの日本に求められることであると思います。
世界が力で動いている、金で動いている、嘘がまかりとおっているからと、日本や日本人がそんな不良の仲間入りすることなど、神々はきっと望んでなどいないと思います。
個人としてなら、文右衛門は不利益を被ったかもしれません。
けれど、彼の胸に大誠実があったからこそ、お伊勢様も、彼の行動を認めてくれたのです。
*
繰り返しになりますが、御神域というものは、絶対におかしてはならない神聖な場所です。
ところがそこに水路を敷かなければならないという大きな問題が生まれたとき、果たしてどのような解決の方法があったのでしょうか。
お伊勢様と話し合う、
それがダメならデモをする。テロをする。戦争をする。
あるいはお伊勢様の前で腹を切る。
果たしてそのようなことを、お伊勢様はお喜びになられるでしょうか。
けれど福井文右衛門の行動は、お伊勢様もお認めになられています。
何が違うのでしょうか。
まず前提条件として、村人たちが、貧しい土地であっても、そこで愚痴を言ったり、あきらめたりせずに、貧しいながらも真面目に必死に生きているという姿があります。
未来を見据えて、ともに頑張っていきたいという共通の思いがあります。
そして同時に、お伊勢様の御神域はおかしてはならないという、強い自覚があります。
一方、福井文右衛門は、殿様も藤堂家の家風も、そして福井文右衛門自身も、ともに生真面目に、どんな苦労があっても、その苦労と真摯に向き合い、やはり真面目に生きてきたということは、誰もが認めることでした。
そして、このお代官さま言うことならと、誰もが認める品格がありました。
そしてお伊勢様を大切に思う心がありました。
このことは、もし、その水路を拓くということを、テロリストがテロとして行ったということなら、藤堂家も、村人たちもむしろ水路が完成することよりも、犯人の逮捕と処罰を選んだであろうことを考えたら、当然のこととして理解できるものと思います。
要するに日頃から、真面目に真摯に生きてきたという実績があり、その実績の上で、一身に責任を負って腹を斬っているから、周囲の誰もが認め、また、水路もいまなお使われているのです。
別な言い方をするなら、藤堂家にしても福井文右衛門にしても、日頃から人格高潔であり、真心で誠実に人を動かす人であり、しかも最後には大罪を謝するために、従容として潔く割腹するという人だからこそ、このことが多くの人に、多大な感銘を与えたものであったということです。
この物語に限らず、国においても個人においても、生きるということは、常に矛盾に満ち溢れたなかを行くことです。
矛盾があるからと、忿(いか)り、周囲に攻撃の矛先を向け、ただやみくもに敵対して攻撃し、中傷し、粗悪な振る舞いを繰り返すのでは、そこに感銘は絶対に生まれないし、問題の解決もありません。
世の中は、そんな単純なものではないと思います。
江戸時代のお大名やお代官のことを書いて置かなければならないと思います。
よく、江戸時代の大名を、大陸風の「封建領主」と勘違いする人がいますが、まったく違います。
ヨーロッパにおける国王は、ローマ法王によってその地域における神の代理人となります。
これが王権です。
王権は神の力ですから、そのエリアの領土領民のすべてを私有します。
王の部下である貴族にとって、貴族の妻は自分の私有物です。
けれど貴族である夫は、王の所有物です。
ですからその妻は、王のものです。
王が「お前の奥さんは可愛いから俺によこせ」と言ったら、夫は妻を王に差し出さなければなりません。
「そんな横暴な!」と思うかもしれませんが、それが現実です。
しなければ貴族は殺されるだけです。
それが王による統治です。
China皇帝は、天帝から天命を授かった天帝の代理人です。
ですからこの世界のすべてを私有します。
周辺の異民族も、その国家も、皇帝のものです。
ですから世界の中心は、皇帝のいるところです。
日本では、天皇は神に通じる唯一の存在です。
国土も国民も神々が創造したものですから、天皇はこれを「おほみたから」とします。
そして「おほみたから」が、豊かに暮らせるよう臣を親任します。
臣は権力を持ちますが、権力は同時に責任も生みます。
その責任とは、民が安心して豊かに暮らせるようにすることです。
大名は将軍の部下です。
将軍は天皇が親任します。
そして大名の部下が代官です。
ですから代官にとって、担当地域の領民たちは、天皇や将軍、そして大名から預かったたいせつな「たから」です。
このような認識のもとにあるから、福井分文右衛門は、民のために命を捨てたのです。
これが日本人のものの考え方です。
正邪は関係ありません。
どこまでも生真面目に、誠実にその責任をまっとうしていく。
これが日本人です。
日本の戦後のめざましい復興も、また、高度成長も、この延長線上にあります。
逆に平成以降の日本の停滞は、天皇否定、個人主義、利己主義という不誠実が蔓延した結果です。
私たちは、新しい年を迎えました。
元旦の記事に書きましたが、今年は「丁酉(ひのととり)」の年です。
そして「丁酉(ひのととり)」は、これまでの陰徳が稔り成熟する年です。
今年はこれまでの努力が実を結び、明確に古くて新しい日本の姿が明確に描かれる年になります。
みなさまの一層のご多幸をお祈りします。
お読みいただき、ありがとうございました。

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※この記事は2011年2月の記事をリニューアルして再掲したものです。



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