★次回倭塾は明日12月24日13:30開催です。
この日は、今年最後の倭塾なので、ちょっぴり特別なイベントが開催されます。
詳細は⇓で。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3232.html
←いつも応援クリックをありがとうございます。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)
満洲で実際にあった出来事をひとつご紹介しようと思います。
この「満洲」ですが、近年の歴史学会では、「満洲国」と呼んではいけないのだそうです。
まず書くときは、「満洲」ではなく、サンズイのない「満州」と書かなければならない。
そして頭に「偽」と付けて「偽満州国」と書かなければならないのだそうです。
満洲国は歴史上間違いなく存在した国ですが、「中華民国の後継国家を自称する中華人民共和国がその存在を認めていず、本来国として『存在してはいけないものが国を名乗った』ので「偽満州国」なのだそうです。
日本の歴史学会が、「近隣諸国に配慮して」そのような対応をしているのだそうですが、配慮というのは政治であって歴史学ではありません。
日本の歴史学会は、いつから政治団体になったのか、まことに残念に思います。
また、中華人民共和国は、中華民国の「後継国家」ではありません。
勝手に兵を挙げて中華民国を台湾に追い落として政府を名乗っているだけであって、中華民国はいまも台湾に存在しています。
これもまた歴史認識ではなく、政治認識と呼ぶべきものです。

【倭塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
第35回 2016/12/24(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
第36回 2017/1/14(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
第37回 2017/2/26(日)13:30〜16:30 第4/5研修室
第38回 2017/3/18(土)18:30〜20:30第4/5研修室
【百人一首塾】(江東区文化センター)
〒135-0016 東京都江東区東陽4丁目11−3
第11回 2017/1/19(木)18:30〜20:30 第三研修室
第12回 2017/2/ 9(木)18:30〜20:30 第三研修室
第13回 2017/3/23(木)18:30〜20:30 第三研修室
「満州」という表記も、満洲国の実在を認めたくない中華人民共和国政府によって、故意に広められている名称です。
ただしくは、サンズイの付く「満洲」が正解です。
もともと満洲は、マンジュという固有名詞を漢字にしたものですが、これを漢字で最初に「満洲国」と書いたのは日本人です。
江戸時代の中期、ちょうど十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版された頃、高橋景保という人が『日本辺界略図』(1809年)、『新訂万国全図』(1810年)という地図を書き、その中で満洲国という表記をしています。
この地図がシーボルトによってヨーロッパに持ち帰られて「マンチュリアManchuria」という英語になっています。(仁保本誌検定講座、宮脇淳子先生講義より)。
清王朝の聖地とされた「マンジュ」は、こうして漢字ではサンズイのついた満洲と書かれるようになったのですが、辛亥革命があった後、中華民国に追われた清王朝の皇帝は、その首都を満洲に移しました。
このあたりは誤解をしている人が多いのですが、清王朝の正統な後継国家が中華民国、その中華民国の正統な後継国家が中華人民共和国というのは、実は真っ赤な偽りです。
清王朝の正統な後継国家は、清王朝が大清帝国と名前を変えた後、満洲国がその正統な後継国家です。
中華民国は、名前こそ「国」ですが、実際には結果としてただの軍閥でしかなく、国家として必要な機能をまるで有さないまま、台湾に追われたし、その中華民国を追い払った中華人民共和国は、大東亜戦争で疲弊していた中華民国を、ソ連の力を借りて簒奪しただけです。
さて、その満洲で、満洲国が建国されて間もない昭和7(1932)年のことです。
夜の十時、新京(いまの長春)の中心街から少し離れた范家屯(はんかとん)の派出所の二階から、遠くの銃声や大勢が走り回る音を聞きつけた五人の巡査達が駆け下りてきました。
一階には、派出所の責任者である川添忠次郎と、妻のシマが勤務についていました。
「いよいよ来たぞ」
「来ないのが不思議だったのだ。
諸君、しっかりやろう。最後のひとりまで踏ん張るんだ」
覚悟を見せた夫の言葉を、健気なことと聞きながらも、シマの心はさすがに揺らぎました。
けれど、その奥底から湧き出たのは日本魂の言葉でした。
「あなた、皆さんと一緒に早く駅舎へ。本署への連絡は私がします」
「奥さんこそ、早く駅舎裏の塹壕へお逃げなさい」
「いいえ。ここは私一人でたくさんです。
すぐに追いかけますから、みなさんは早く行って、
あそこにいる大勢の人たちを助けてあげてください」
夫が決断を下しました。
「そうだ。連絡は妻にまかせて、
ぼくらは駅へ行かねばならぬ。さあ諸君!」
もう賊はかなり近づいてきていました。
銃声が豆を炒るように聞こえてきました。
少なくとも賊は四百を超える多数のようです。
巡査たちは手にピストルを握りしめながら、折から隠れていく月影を幸いに、地面を這うようにして駅舎をめがけて走りだしました。
この年の3月、満洲国が建国されました。
その満洲には、昭和20年の終戦までの14年間におよそ27万人の日本人の満州開拓団が入植しました。
開拓団の人たちは、満洲の荒野を開墾して広大な農場に変え、そこで主として大豆の栽培を行いました。
こうして生産された大豆は、満洲大豆と呼ばれ、日本やヨーロッパなどに輸出されました。
満洲は世界最大の大豆輸出国となり、次々と農地が拓かれ、また農作物を運ぶための鉄道網が整備され、満洲経済は大発展を遂げました。
好況に沸く満洲は仕事も豊富でした。
ですからそこにはたくさんの中国人やモンゴル人、そして当時は日本人だった朝鮮人たちも入植してきました。
ところがその満洲には、人々の労働の成果である冨を武力で奪う匪賊(ひぞく)と呼ばれる人たちがいました。
匪賊というと、なにやらむつかしい言葉に聞こえますが、今風に言うならギャングの一味です。
匪賊は、夜陰に紛れて次々と村を襲撃し、民家に火を放ち、食料や衣類等を奪いました。
匪賊は、満洲で昭和7年に出版された『満州Chinaの結社と匪徒』によれば、その数36万人です。
しかも地方ごとに分散していました。
これに対して当時、満洲に配備されていた日本陸軍の関東軍の兵力は、広い満洲全土に、わずか1万2千です。
ですから村人たちの防衛は、主として派出所の警察官の仕事となていたのです。
民家に火を放ち、銃を持って村人たちを容赦なく射殺する匪賊の襲撃に対し、これを少人数の警官たちで村人たちを護ろうとするには、村人たちを塹壕に隠れさせ、壕の入り口に土嚢を積み上げて応戦するしかありません。
そして応戦のうちに、本署から応援を呼ぶという方法が採られていました。
本署への連絡ための電話回線は、この時代、派出所にしかありません。
ですから応援要請は、巡査長の妻のシマが行い、夫を含む男性の巡査6人は、先に村人たちの警固へと向かうという決断がなされたのです。
「もしもし、本署ですか。
范家屯(はんかとん)の派出所です。
ただいま匪賊約四百が来襲しました。
戦闘中です。
すぐに応援を願います!」
シマが受話器を置いてほっと息をつくと、匪賊は駅舎に近づいたとみえて、百メートルばかり向こうの塹壕から銃火が起こりました。
派出所をめがけて近づく賊もいるようです。
もうこうなっては、シマは夫たちを追いかけて壕に行くことはできません。
シマは拳銃をとるなり、窓に駆け寄って、闇に迫る黒い影に弾丸を浴びせました。
すると、そこにめがけて賊が銃撃してきました。
シマが握りしめた拳銃から、火を吐いて弾丸が飛んでいきました。
28発目の弾丸が銃口を離れたとき、シマは左胸に銃弾を受け、ばったりと倒れました。
ほどなく本署からの応援隊が、匪賊の背後から銃火を切りました。
匪賊はこそこそと高粱の影に隠れて逃げて行きました。
范家屯の人々は、生き返った思いで、避難所から家に帰りました。
これを見届けて、巡査たちも派出所に戻りました。
その派出所では、血に染まったシマが、まだピストルを握りしめたまま、がっくりと窓で絶命していました。
昭和8(1933)年4月25日、シマの魂は、護国の神として、同じく満洲や上海の地に斃れた尊い犠牲者1,698名の英霊とともに、靖国神社に合祀されました。
この川添シマのお話は、大阪府教育会が昭和13年に刊行した『女子鑑』から抜粋したものです。
いくら警察官の妻とはいえ、たったひとり派出所に残り、賊徒の撃つ鉄砲の弾が飛んで来る中を、本部にしっかりと連絡して応援要請をし、さらに並み居る賊徒たちと、たったひとりで銃撃を行うというのは、どんなに心細く、また切羽詰まったことでしょう。
それでも彼女は、最期の瞬間まで、愛する夫を支えるために、無我夢中で戦ったのだろうと思います。
そういう日本人の、ひとりひとりの愛と熱い正義の思いが、理不尽にも最終的にことごとく粉砕されて、何もかもが奪われてしまったのが満洲の地です。
人道という言葉を使うなら、人々の欲望が優先し、人道がことごとく無視されてきたのが大陸の歴史です。
このため満洲は、中華人民共和国の人民解放軍による同化政策で、いまや満洲に生粋の満州人は、ほぼ皆無に近い状況となっています。
いま、日本で、毎日のように女性がさらわれたり、無残に殺される事件が多発しています。
報道では、犯人の名前は、日本での通名か、もしくは通名がなければ名前そのものが報道されません。
大陸の人、あるいは大昔に、いと醜き醜き穢き国と書かれた半島からの人を多く受け入れれば、必ず同種の問題が起きます。
そしてそれは日本だけでなく、同様に同国人を受け入れた東南アジア諸国、あるいは欧米でもまったく同じ事が起きています。
日本人は、凛として生きることを好みます。
私はそういう日本を取り戻すべきだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2015/9の記事をリニューアルしたものです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。



ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓


