
以下にご紹介するのは、産経新聞に平成7(1995)年に掲載された二人の米国人のお話です。
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【終戦時の二人の少年】
産経新聞、1995/11/5
▼幼いマリコへ
81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。
親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、
「義理、恩、おかげさま、国のために」
に、日本人がもう一度思いをはせてほしい、というものだった。
終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。
丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。
言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。
その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。
少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。
彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。
持ち出しは禁じられていた。
だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。
少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。
少年は、
「おなかはすいています」といい、
「3歳のマリコが家で待っています。
一緒に食べたいんです」
といった。
アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。
「この7歳のおなかをすかせた少年が、
3歳の妹のマリコと、
わずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。
しかし、日本には2カ月しかいなかった。
再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。
そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。
メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。
「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、
靴磨きの少年の名前は知らなかった。
私は彼に会いたかった」
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。
記者は経緯を確認したかった。
アリヨシ氏の手紙は、
「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、
あの少年の気概と心情を思いだす。
それは「国のために」という
日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」
と記されていた。
今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。
今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。
ほとんどの人びとは、
両親や祖父母が新しい日本を作るために
払った努力と犠牲のことを知らない。
すべてのことは容易に手に入る。
そうした人たちは今こそ、
7歳の靴磨きの少年の
家族や国を思う気概と苦闘を
もう一度考えるべきである。
義理、責任、恩、おかげさまで
という言葉が思い浮かぶ」
凛(りん)とした日本人たれ。
父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
▼厳しい時代に苦闘と気概の物語
終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。
原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。
素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。
「焼き場に
10歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、
ぼろぼろの服を着てはだしだった。
少年の背中には
2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。
(略)
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、
足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、
じっと前を見つづけた。
私はカメラのファインダーを通して
涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、
ただもう一度シャッターを切った。」
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。
フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。
フジテレビによると、その内容はこうだった。
「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、
冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)
「精いっぱい生きるという一番大切なことを
改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。

オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。
「ほっそりとした体はびしょぬれで、
黒髪もべったりと頭にはりついていた。
おじぎを繰り返しながら、
私たちになにかしきりに訴えていた。
どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。
オダネル氏は、
「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性は
そのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。
一言のお礼さえ伝えられなかった」
と述べている。
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。
こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。
それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。
日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
(中静敬一郎)
***
戦後生まれの私たちは、明日は今日よりきっと良くなると誰もが信じる、豊かで平和で素晴らしい時代を生きさせていただきました。
子供の頃の私たちは、21世紀と聞けば、まるで夢がいっぱいの、科学と希望に満ち溢れた未来世紀を、誰もが思い浮かべました。
当時、「21世紀」という語を聞いて、人々が長引く不況にあえぎ、大学生には就職がなく、人殺しや強姦が連日報道され、日本人のような顔をした外国人が、茶髪の前髪を垂らして日本人女性を猟色をする、そんな未来を想像できた子供たちなど誰一人いなかったと思います。
けれど、そんな21世紀を作ってしまったのは、平和に甘え、家族や国を思う気概を忘れた、間違いなく戦後生まれの、その子供たち、つまり私たちです。
考えてみれば、戦後世代というのは、高度成長期には戦前の教育を受けて、長く苦しい戦いを経験し、焼け野原から裸一貫で国の未来を信じて汗を流した諸先輩たちに、反発したり、言われたとおりに若さと労働力を提供してきたりしたにすぎません。
戦後の貧しい生活の中にあって、小学校では給食のコッペパンが不味いと文句を言い、大学生になれば「俺たちは戦争を知らない子供たちだ」といいながら口先だけの反戦を唱えてフォークソングを歌い、麻雀に興じ、長じては先輩たちが爪に火を灯すようにして蓄えた貯蓄を、郵貯民営化と称して、海外に垂れ流したり、バブルのマネーゲームに便乗しようとして、株価急落とともに、財を失ってきました。
そしていまでは、日本経済を沈滞化させているのみならず、リベラルを唱えて私たちの国の存続さえも危険にさらしています。
戦後世代というのは、いったい何だったのでしょうか。
爺さんの世代は、苦しくつらい戦場の時代でした。
親父の世代は、焼け野原の日本を復興させた時代でした。
私たちの世代は、ただそれを浪費しただけの世代と、何百年後かの歴史の中で、私たちは言われるだけの存在なのでしょうか。
せめて死ぬ前に、何かひとつでも、私たちの子や孫の世代のために、何か良いことをひとつでも遺していかなければならない。
それが、戦後という平和な時代に生を受けさせていただいた、せめてもの恩返しなのではないかと、思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。

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