◆24日は、「ねずさんの百人一首」塾です。今回は小式部内侍です。
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20161118 天の岩戸
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高天原の天の岩戸の神話について、これを単に、天宇受売(あめのうずめ)が楽しいダンスを踊った物語だとか、あるいは、天照大御神が岩戸に篭ったのは、いわゆる「ひきこもり少女」になった話だとか、古事記を語る先生によって、いろいろな解説がされています。
古事記の原文はひとつ。
それについての解釈は自由です。
しかし、神様への非礼はいけません。
天照大御神は最高神です。
その神様は時空を超越した存在です。
つまり天照大御神には、結果はすでに見えていたと考えなければならないのです。
私たちの住む次元は、縦横に立体軸が加わった三次元が、さらに時間軸に沿って移動するという四次元世界です。
神々のお住いになる次元は、もっと高次元の時空を超越した世界です。
ですからひとことでいってしまえば、時間軸をも超越しています。
何億年の歳月も一瞬であり、一瞬は何億年にもなります。
要するに時間軸や三次元の空間軸に縛られない。
それがおそらく神界というものであろうし、高次元な神という存在であろうと思います。
ですから天の岩戸の神話においても、天照大御神は、そもそも何もかもお見通しなのです。
そしてお見通しの上で、「岩戸に篭もるという神としての決断をされた」と古事記を読むべきなのです。
では、何故、天照大御神は、そのような決断をされたのでしょうか。
このことを人の身で考えることは、もちろん不十分なものにしかならないかもしれません。
けれど、すくなくとも、そのことを神話として後世に伝えようとした古代の日本人の、何らかの思いや学びが、そこにあったはずです。
そしてそれは、人が考えた思いや学びである以上、そこまでならば、私たちも同じ人間なのですから、至ることはできるのではないかと思うのです。
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そもそも天照大御神は、伊耶那岐大神(いざなきのおおかみ)の子です。
そして、伊耶那岐大神から「お前は高天原をシラセ」と詔された貴神です。
その高天原に弟の須佐之男命がやってくるところから、天の岩戸神話は始まります。
やってきた須佐之男命を、天照大御神は、軍装してみずから出迎えておいでになります。
この「軍装して須佐之男命を出迎えた」という記述から、
「この物語は古代において、出雲のスサノオ一族が、伊勢のアマテル族に戦いを挑んだ物語なのだ」と説く方もおいでになります。
それは、そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれません。
私はその時代を生きた者ではありませんので、事実関係はわかりません。
また、何をどのように信じるかは、それぞれの勝手であろうと思います。
ただ、それが「後世に語り継がれる神話」となったということについては、もっと重要視しなければならないと思います。
先程も書きましたが、それは「伝えるべき値打ちのある物語ないし歴史だからこそ、人が人に代々伝え続けた」ということだからです。
たとえば私たちが、愛する子や孫に、父祖の時代を語るとき、祖父には二号がいて、吉原で遊女を身請けしたけれど、後に別れて祖母が苦労したとか、そのようなことは、どうでも良いことです。
せいぜい、孫や子の代までは、敬愛するお婆ちゃんの愚痴として伝わったとしても、数十代、数百代を経て、尚、伝え続けられなければならないような重要な祖先の逸話にはなりません。またその値打ちもありません。
そのようなことよりも、いまの例でいうならば、なぜその祖父が二号や遊女の身請けをできるほどの富を得ることができるようになったのか。
それは祖父の努力だったのか、あるいはそのまた偉大な曾祖父の血の滲むような努力の結果だったのか。その際の心得はいかなるものであったのか等々、むしろ成功者となった偉大な先祖のそのような物語の方が、すくなくとも、子や孫の教育には不可欠といえることと思います。
まして神話ともなれば、おそらくまだ文字がなかった太古の昔からの言い伝えです。(このことは神代文字が生まれる前の時代と云う意味です)。
おそらくは口伝として、祖先の大切な事績を何代も、何十代にもわたって、伝え続けられてきたことが、神話です。
長い年月の間に、余計なことが削ぎ落とされ、ほんとうに子孫たちにとって大切なことがあるからこそ、神話として語り継がれてきているわけです。
すくなくとも、日本の場合はそうです。
世界には、そうでない神話もあります。
近代になって創作された神話です。
神話を滅ぼしてしまった国や民族においては、神話がない=アイデンティティがない、ということが問題視され、日本で言ったら、ただの民話程度のものを神話に仕立てて国民教育のプログラムに組み込むといったことがなされたりもします。
これは日本でいったら、さしづめ「耳なし芳一」や「雪女」の物語を神話に仕立てるのと同じことで、冷静に考えれば、そのような話を神話に仕立てても、ろくな結果はないであろうに、それでもそれを神話に仕立てるということは、その国や民族が、いかに、古代や中世において、血マナコになって正統な歴史を抹殺してきたかということであろうと思います。
さて、話を戻します。
日本神話では、やってきた須佐之男命と、天照大御神が、ウケヒで勝負をしたとあります。
勝負の判定は、どちらが勝ったともいえない、微妙なものでしたが、須佐之男命は「勝ちサビ」といって、自分こそウケヒの勝負に勝ったと宣言します。
そして高天原で乱行をはたらき、やむなく天照大御神は、天の岩戸に篭られたとあります。
天照大御神は、太陽神ですから、太陽がお隠れになれば、高天原も、地上の国々も、みな闇に閉ざされます。
すると悪鬼悪神がはびこったとあります。
さて、ここで、ウケヒによって、明確な答が出なかったということは、明確な答を出す必要がなかったということです。
そもそも神々が行うウケヒなのです。答は見えているとみるべきです。
ということは、ウケヒは、そこで答を出すことが目的ではなく、別な目的があったとみるべきです。
これを「行間を読む」と言います。
日本の古い文献等の特徴で、もともと引き算で書かれた文章ですから、たくさんの書かれていないことが行間に埋まっているのです。
そしてそれは、前後の話の矛盾や、疑問に思える文章として現れます。
そこを、読者の側が、しっかりと受け止めて、考えながら読むことを「行間を読む」といいます。
高天原は、天照大御神がシラしめておいでになります。
このことは、天照大御神と須佐之男命の共通の父である、伊耶那岐大神からの詔です。
絶対に無視してはいけないことです。
ところが、高天原に須佐之男命がやってくるという報告が天照大御神にもたらされたとき、天照大御神は、完全武装し、さらに八百万の神々を従えて、須佐之男命を待ち受け、「何をしに来たのか」と詰問されたとあります。
ここは、いっけんすると、天照大御神が、須佐之男命が高天原を奪いにきたと見た、ような記述になっています。
ところが、よくよく考えてみれば、天照大御神は最高神です。
すでに、須佐之男命がやってくるということも、その理由も、すでにご存知であったと読むべきです。
その証拠に、須佐之男命が、「では私の心の清明を証明しますので、ウケヒをしましょう」と申し出たとき、天照大御神は、二つ返事で、この申し出を受けられています。
そもそも、須佐之男命がやってくるという報に接した後に、天照大御神が完全武装し、軍団を整えて須佐之男命を待ち受けたということは、かなり早い段階で、須佐之男命の来訪が、高天原のトップである天照大御神にもたらされたということです。
これは、高天原が、たいへんに風通しの良い組織風土にあったことを意味します。
そして自ら完全武装するだけでなく、八百万の神々の大軍を率いて、須佐之男命を待ち受けたということは、これは軍では常識と思いますけれど、軍隊の出発というのは、専門の軍隊であってさえ、「さあ、出発だ」と言われて、その瞬間にできることではなく、出発にはさまざまな準備が必要なものです。
出立までには、それなりの時間がかかるのです。
このことからも、かなり早い段階で、須佐之男命の来訪の情報がもたらされていたということがわかります。
ところがそこまでして、迎えた相手は、いってみれば、須佐之男命ただ一柱(ひとり)です。
その状態で天照大御神が須佐之男命を詰問したということは、これはたとえてみれば、奉行所で、お奉行がお白州に曳き出された罪人をお取り調べになる状況に似ています。
力関係でいえば、完全武装した百の軍団対、たったひとりの武装もしていない男性、です。
圧倒的な力関係の差があります。
にもかかわらず、天照大御神は、須佐之男命の「ウケヒをしましょう」という申し出を、簡単に受けておいでになります。
ウケヒというのは、サイコロを振って丁か半かと決めるようなもので、これは天照大御神も須佐之男命も、対等な立場で神様の御神託を受けるという神事です。
ここは「おや?」と思えるところです。
圧倒的な力関係の差があるのに、お奉行が、科人と対等な立場で御神託を得るという勝負などするものなのでしょうか。
でも、天照大御神は、それをされているのです。
ここでも、天照大御神がウケヒの申し出を受けられたということには、何か別なところに目的があるというサインが立っています。
しかもウケヒの結果は、どちらが勝ったともいえないものです。
そして、須佐之男命が「自分が勝った」と言い出したとき、天照大御神は、それについて、何の論評もしていません。
大軍を率いて、自らも完全武装しているのです。
相手は、須佐之男命ただ一柱(ひとり)です。
「お前は、勝ちさびをするか!」と、ひとこと発して須佐之男命を逮捕し、そのまま牢屋に繋ぐか、放逐するか、いくらでもできる状況にありながら、天照大御神は、むしろ逆に、須佐之男命を受け入れています。
ここもハテナです。
(勝ちサビ=勝ってないのに勝ったといつわりの申告をすること)
このあと古事記は、須佐之男命が高天原で数々の乱行を働いたとあります。
そしてそれらの乱行を、なぜか天照大御神は、須佐之男命の行動をお認めたと書かれています。
そして、ついには天の岩戸にお隠れになられるのです。
ここまで丁寧に古事記は説明しているのです。
ここで読者はひるがえって、「そもそも何もかもわかっておいでの最高神であられる天照大御神が、なぜ岩戸にお隠れになったのか」と、気が付かなければならないのだと思います。
高天原は、天照大御神によって、素晴らしい統治が行われています。
その証拠に、須佐之男命がやってくるという情報も、早い段階でもたらされています。風通しのよい組織風土が確立されていたということです。
そして武装についても、すくなくとも須佐之男命の到着以前に、軍団を整えて須佐之男命を詰問に出迎えに行けているわけですから、素早く迅速な対応ができるだけの組織風土、もしくは政治体制が確立されています。
けれども、そこでどうして最高神であられる天照大御神ご自身が、わざわざ出張らなくてはならないのでしょうか。
しかも、それだけの軍装を整えて出迎えていながら、なぜ天照大御神は、須佐之男命のウケヒの対等な1:1の勝負を受け入れられているのでしょうか。
どうして、勝ちサビをした須佐之男命を咎めず、やりたい放題をさせているのでしょうか。
企業において、ワンマンな経営者が何もかも取り仕切って会社を成長させるということは、よくあることです。
けれど、ワンマン企業では、その社長の身に何かあれば、会社の業績そのものに狂いが生じ、場合によっては倒産の憂き目に遭うことにもなりかねません。
ある程度会社が大きくなれば、一定の権限の委譲を行い、決裁権を部下に委ねる体制を築かなければ、社長の目の黒いうちは良いですけれど、万一のときにたいへんなことになってしまいます。
そして会社がたいへんなことになり、倒産でもしようものなら、その会社の社員全員が、悲惨な目に遭うことになります。
それでも、国の体制がしっかりしていれば、社員は再就職が可能かもしれません。
けれど、その国自体が、倒れてしまったら、その国に住む人はどうなるのでしょうか。
国というのは、他の誰でもない、その国の国民のためにあります。
そして、その国の主というのは、まさにその国のみんなが豊かに安心して安全に暮らせるようにするための責務があります。
けれど、その国の主に万一の事があった場合、あるいは、その国の主の決断に、なんらかの障害等が発生した場合、困るのは国民です。
高天原で言えば、天照大御神に何かあったとき、困るのは、八百万の神々なのです。
ということは、たとえば「やってくる須佐之男命をいかに出迎えるか、どのように対処するか」といった、政治的責任を負わなければならない政治的決断の何もかもを、天照大御神さまが直々にすべて行われるという体制では、実は困るのは八百万の神々なのです。
しかし、そのことを、八百万の神々に自覚してもらうためには、どのようにしたらよいのか。
同じことは、会社や組織などにおいても、よくあることです。
トップダウンで、命令して「やらせる」ということも大切なことです。
けれど、後ろから銃を突きつけて兵に無理やり戦わせていたかつてのChina兵が、何十万の大軍であっても常に弱兵であったことに明らかなように、意味もわからず、無理やりやらされている仕事では、決して良い結果は生まれないのです。
会社でいえば、社員のひとりひとりが、自らの自覚のもとに、まじめにひたむきに仕事に取り組むようになって、はじめて仕事はスムースに運ぶようになるし、そうした社員同士が固い絆で結ばれるようになって、はじめて組織は強固なものになるし、会社は社員全員の人生の共同体に生まれ変わります。
けれどそうしたことは、社長がいくら口を酸っぱくして説いたところで、あるいは社長自身が、そうでありたいと願ったところで、なかなかそのような組織風土はできるものではありません。
ゼロからスタートして、世界的大企業にまで会社を育て上げたある社長は、ある日、社員全員を集めて、工場の庭で在庫となっていた自社商品を燃やしました。
自分たちが一生懸命に作ってきた商品が目の前の炎で焼かれ、灰になっていく。
黙って社員の前で、次々に商品を火に投げ込む社長の姿に、社員全員が、そのとき、涙を流したそうです。
そして、絶対に俺達の力で、二度と灰にならない商品を作っていこうと、誓いあったといいます。
「自覚を促す」ということは、それほどまでにたいへんなことなのです。
高天原における、以上の天照大御神と須佐之男命の対決のお話を、これを天照大御神が、
「八百万の神々が、自分たちで責任をもって高天原の政治運営を行うように」
と、すべてわかったうえで、八百万の神々の前で、意図して軍装し、意図してウケヒを行い、意図して岩戸に篭もられた、須佐之男命も、弟であり、三貴神のうちの一柱(ひとり)です。
父の伊耶那岐大神が、これと見込んだ優秀万能な神様です。
高天原のとば口に差し掛かったところで、大軍を率いて、自分を出迎えて、日頃に似合わぬ口調で「何をしに来たのか」と詰問する姉の姿をみた瞬間に、天照大御神の意図をすべて悟った、あるいは神様ですから、やはりすべてをわかって、姉の行おうとすることに、自ら悪役を買って出ることによって、姉の理想への協力をした、と考えることはできないでしょうか。
いやむしろ私は、そのように読むこととこそ、古事記を読むことなのではないかと思えるのです。
天照大御神も、須佐之男命も、全部わかっていて、これらのことを八百万の神々の前で行っていたのです。
そして岩戸以降、高天原の統治は、天照大御神が最高権威となって、より上位の神々とつながり、政治責任を伴う政治的権力行使は、すべて八百万の神々による協議によって、行われるという、権威と権力を切り離すという、世界初のシラス(知らす、Shirasu)統治が、ここに誕生しています。
会社の経営者の方ならおわかりいただけようかと思いますが、社長が何もかもわかっているだけではだめなのです。
会社がまだ小さいうちは、それでも良いかもしれませんが、会社が大きくなり、組織で動くようになれば、組織そのものが自己の責任の名において、しっかりと職務を遂行できる体制を築かなければならないし、そのためには、何よりも社員、もしくは最低でも幹部社員が、自分たちが会社を背負って立つのだという自覚が必要です。
その自覚を、トップだけが持っているだけでは、意味がないのです。
その自覚を、どのようにして根付かせるか。
これは、組織の長であれば、人の心を対象にした問題であるだけに、おそらく誰もが経験する最大の難題です。
このことを促し、定着させるために、天照大御神は、意図して須佐之男命対決し、須佐之男命も三貴神の一柱として、瞬時に天照大御神の御心を知り、あえて意図して泥をかぶられておいでになる。
天の岩戸の物語に書かれていることは、そういう物語であると読むべきであろうと思います。
そしてこのことを、八百万の神々の側から読むならば、良くないことが起こったとき、そこで考え、知恵を絞ってその難関を乗り越えたとき、そこには、素晴らしい新たな未来が現出する、という物語になります。
そのことを、古事記は、天照大御神が岩戸から現れたときに、あらゆる悪鬼悪神が払われて、この世が光に包まれたと喜びをもって表現しています。
人の人生においても、組織においても、会社そのものも、あるいは国家においても、いやなこと、つらいことというものは、必ず起きることです。
しかし、その嫌なこと、つらいことから、何かを学び、そこから立ち上がって、二度とそんな辛いことがおこらならないように知恵を絞り、行動して新たな未来を切り開く。
その繰り返しの中にこそ、人の幸せや誇りがあるのだということを、天の岩戸の物語は伝えてくれています。
誰もが幸せを求めるものです。
これは世界中の人々、みな同じです。
けれど、辛いことがあるから、幸せのありがたみがわかるのです。
良くないことがあるから、良いことの喜びがあるのです。
良いことばかりなら、その良いことは、その人にとって、何の意味も持ちません。
良くないこと、辛いことがあるから、それを乗り越えたときに、そのことのありがたさや、喜びを知ることができます。
八百万の神々は、須佐之男命の乱行や、天照大御神の岩戸隠れという、苦しみや悲しみ、そして辛さを経験し、それを乗り越えるために、衆知をつくし、みんなで協力しあうことで、自分たちで進んで政治責任を負うという選択をし、天照大御神が求めるシラス(知らす、Shirasu)という素晴らしい統治の完成に、自らも一役買うことで、シラス(知らす、Shirasu)を自分たちの喜びとまですることができました。
正しい心を持ち、その正しい心を持った者たちが、みんなで知恵をしぼり、みんなで協力しあって苦難を乗り越えたときにこそ、本当の素晴らしさがやってくる。
逆の言い方をすれば、いま目の前にある良くない出来事というのは、実は、これまで以上に、もっと良くなるためのステップなのだと理解できるのです。
世の中に、あるいは人生に、良いことばかりであったのなら、人はその良いことへの感謝の心を忘れてしまいます。
良くないことがあるからこそ、良いことの値打ちが増すのです。
お汁粉は甘いですが、砂糖と小豆ばかりでは、人は甘いと感じないし、おいしくもないのです。
そこに塩気が入ることで、はじめて人は、甘さを幸せに感じるようになるのと同じです。
戦後の日本は、ハード面では目覚ましい復興がなされたものの、人の心は荒廃したと言われています。
もし、荒廃しているのなら、そこから日本は立ち直らなければなりません。
そしてそのためには、一時的には、天の岩戸隠れ、つまり、荒廃が一定のとろこまで突き進む必要があります。
そしてそこから正しい心で立ち上がる。
立ち上がった時が、本物です。
いま、日本は、立ち上がろうとしているところです。
そして日本を立ち上がらせるのは、他の誰でもない、日本人自身の自覚です。
他でもない、日本の神々は、まさにそのことを日本人いま、問うておいでなのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。
※このお話は、2016/8/6の倭塾でお話した内容をとりまとめたものです。
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