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草鹿任一海軍中将
20161108 草鹿任一

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これからはじまるトランプ米国とのお付き合いに、もっとも必要と思われる人をご紹介したいと思います。
GHQにモンローという米国人検事がいました。
彼は東京裁判のときに、海軍の戦犯を暴くことが任務でした。
なかでも南東方面での艦隊事案が担当です。
そこは激戦地でした。
事実を知っている我々からしたら、戦時国際法を遵守した日本軍が、どうして国際法を無視して残酷な行為をしていた米軍検事に法廷で裁かれなければならないのかと不服ですが、それが敗戦というものなのだから仕方ありません。
モンローは、日本の戦時国際法違反を突き止めるため、南方最大の日本海軍基地であるラバウルの調査を行いました。
そして、ラバウルの指揮官であった草鹿任一(くさかじんいち)中将と出会いました。
そして話をするうちに、すっかり草加中将に心服してしまったのです。
モンローは、草鹿を「オールド・ジェントルマン」と呼びました。
そして自分から、草鹿元海軍中将のもとに何度も出かけました。
そしてその草鹿中将のために、東京裁判における海軍関連の事案を全部取り下げるために資料を集め、
結局「Case is Dismissed」、つまり立件そのものを見送っています。
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当時、日本に駐屯していた米海軍には、アーレイ・アルバート・バーク(Arleigh Albert Burke)もいました。
バーク海軍大将は、米海軍史上でただひとり、海軍作戦部長を3期6年の長きにわたって勤めた人です。
当然GHQの中でも発言権が強い。
そのバークは、GHQ職員として日本に赴任した当初は、大の日本嫌いで、「ジャップ!」、「黄色い猿!」と日本人を露骨に侮蔑していましたが、そのバークも、取り調べの途上で草鹿任一中将と知り合いました。
その出会いが、彼の人生を一転させています。
そしてバークもまた、草鹿中将との出会いのあと、うって変わったように親日家となり、モンローとともに日本海軍軍人の裁判をことごとく不起訴にしたばかりか、日本が早く占領状態から解放されるよう尽力し、さらには戦後において、日本が海上自衛隊を創設できるようにと、全力をあげて貢献してくれました。
ちなみにこのバーク大将の息子さんが、平成23年の東日本大震災のときに日本の救援に駆けつけれてくれた原子力空母ロナルド・レーガン艦長のトム・バーク氏です。
では、草鹿元海軍中将は、モンローやバークらと、儒教の先生よろしく、まさに「オールド・ジェントルマン」らしい、紳士的でにこやかな対応をしていたのでしょうか。
実は全然違います。
草加中将は、GHQで日本を敵視していた人々に、いちいち会っては大喧嘩をし、大口論をしていました。
日本は当時占領下にありましたし、元軍人となれば、常に銃口を突きつけられている、そんな情況です。
ところが草鹿中将は、銃を突きつけられようが、殴られようが押し倒されそうになろうが、構わず、大声を張り上げて、違うものは違う、正しくはこうだ!と、ものごとをはっきりと言ったのです。
しかもその話す内容が、いちいちもっともで、筋が通っている。
結果、大の日本嫌いのバークや、日本を裁くはずのモンローまで、草鹿中将を尊敬してしまったのです。

アーレイ・バーク
アーレイ・バーク

草鹿任一中将は、明治21(1888)年、石川県出身の海軍軍人です。
戦艦艦長、海軍砲術学校校長、艦隊参謀長、海軍兵学校校長などを歴任し、大東亜戦争では、昭和17年12月から終戦まで、ラバウルで指揮を執っていました。
性格は頑固で短気、筋の通らないことには一切妥協せず、たとえ上官であっても激しく叱責した人物だったそうです。
普通、組織の中ではそういう人は煙たがられてしまうものなのですが、ところが草鹿中将には私心が毛筋ほどもないのです。
しかも理路整然としている。
戦場にあっては、まさに百戦百勝の猛将なのです。
ところが、その風貌は、どこか村長さんみたいで愛嬌がある。
しかも明るい。
そして、いかなるときにあっても、常に心は部下とともにあるのです。
海軍兵学校の校長時代には、生徒たちと常にともにあり、ひとりひとりの名前を全部覚えていて、生徒たちからは「任(じん)ちゃん」と愛称で呼ばれていたほどでした。
その
戦後のことになりますが、兵学校時代の同期の井上成美提督が、生活に困窮して胃潰瘍で倒れたときには、昔の生徒や仲間たちとともに、その治療費集めに飛び回っています。
村夫子然としていて、愛嬌があり、いつもニコニコしているけれど、ひとたび怒ると手がつけられないほど烈火の如く怒る。
それが、腹の底から真剣に怒るし、自分のことなどほっておいて、相手のことを考えて怒るから、もう誰もが言うことをきかざるをえない、そんな人柄だったそうです。
ひとつエピソードがあります。
海軍兵学校の校長時代のことです。
ある日の軍人勅諭奉読式のとき、草鹿中将は、最初の五箇条だけを読みあげたあと、生徒たちに、
「軍人たるの本分は何か」と質問しました。
海軍兵学校にいる生徒たちですから、皆、優秀です。
当然、すぐに手が上がり、次々といろいろな回答が返ってきました。
それをいちいちうなづいて聞いていた草鹿校長は、最後に全員の前でひとこと、こう発したそうです。
「軍人は戦いに勝つことが本分である」
たったこれだけです。
生徒たちは、自らの不明を恥じ、草鹿校長の言葉を胸に刻んだといいます。
昭和17年12月に、草鹿中将はラバウル基地の司令官として赴任していますが、翌昭和18年4月の「い号作戦」の翌日ののときのことです。
搭乗員に訓示敬礼する山本五十六連合艦隊司令長官
(向かって右が草鹿任一南東方面艦隊司令長官)
山本五十六

「い号作戦」というのは、ラバウル周辺に日本軍の航空兵力を集結し、ソロモン諸島およびニューギニア島東部への集中的な攻撃によって戦局の打開を図ろうとした作戦です。
山本五十六司令長官が、直接ラバウルにやってきて指揮をしています。
作戦の翌日に、朝8時から作戦の反省会議が開かれたのですが、なんとこの会議は、夕方6時40分まで、延々実に10時間におよぶ会議となりました。
出席者全員、疲労も極限に達していたころ、最後に宇垣聯合艦隊参謀長が立って、まとめとを述べました。
「航空兵力の不足が今日の戦況をまねいた主因です。
 現地部隊の一層の強力をのぞむ」
これを聞いた草鹿中将は、突然立ち上がると、宇垣参謀長に向かって大声で怒鳴りました。
「そんな考えの者は、一人もおらん!!」
草鹿中将は、現地で指揮をとっています。
連日のように出撃があり、連日、部下の戦死を見ています。
その草鹿の前で、
「何をどう、強力を望むのか
 そのような安直な考えで、
 部下を死なせろというのか。
 全員が死を賭して闘っているのだ。
 甘く見るな!」
それは、手がつけられないほどの激高だったそうです。
この場は、なんとかおさまったものの、まだ草鹿中将の腹はおさまりません。
会議が終わり、宿舎に帰ったあと、たまたまそこで宇垣参謀長の顔をみると、ふたたびそこで彼を怒鳴りつけました。
その宇垣参謀長を怒鳴りつけた翌日、ブーゲンヴィル島方面に飛び立った山本五十六長官の搭乗する飛行機が米軍機によって迎撃されています。
このとき、単機で出向くという山本長官に、草鹿中将は、無理やりゼロ戦6機の護衛をつけました。
けれど草鹿の心の中には、終生このときの責任が棲みついていたようです。
「い号作戦」を含め、草鹿は、終戦までの2年9か月をラバウルの責任者として過ごされていますが、その当時の様子を著書『ラバウル戦線異常なし』(光和堂)に書いています。
すこし抜粋してみます。
 ***
 魚はようやく一ヶ月2回くらい入る程度で、お話にならず。
 ある日爆音に驚いたのか何に戸惑いしたのか、
 鯨(くじら)の子供が3匹連れ立って
 港の奥に向かって突進して海浜に乗り上げてしまった。
 その辺にいた通信隊の兵員は、
 思わぬお客様に面喰らったが、
 早速緊急呼集で皆つかまえて大喜び。
 子供でも鯨の子供だから相当なもので、
 一番大きいのは全長3m40cm、
 小さいので2m半もあり、
 その付近の部隊で一食くらいはお陰を被ったらしい。
 引き続いてまた来ないかといく分あてにしていたが、
 そう何度も、柳ではない椰子の下に鯨は来なかった。
 *
 動物性蛋白の補給としては
 成長期間の長い豚よりは
 鶏でいこうということになった。
 一年あまりで、ひとり当り一羽半か二羽くらいには
 なっていたように覚えている。
 私も初め、今村(均)大将にすすめられて、
 幕僚達の食卓用を引き受ける決心でやり始め、
 大いに奮励努力した。
 いつの間にか三、四十羽に殖えて、
 時々卵の一つずつくらいは食卓にならべられるようになって
 本当にうれしかった。
 *
 酒は、いちばん普遍的なものは椰子酒で、
 いも焼酎も造られた。
 たまには陸稲から濁酒を造るものもあったようだ。
 日常労働の後の一服の煙草、一杯の酒、
 それは理屈を超越した醍醐味がある。
 いわんや御国をあとに数千里の前線で、
 一意敵に対して張り切っている親愛なる強者どもには、
 なろうことならば酒も煙草も
 充分に満足せしめたかったのである。
 *
 塩は、火山の麓の海岸に熱湯の出る場所があり、
 その付近に穴を掘って、
 湧き出る熱湯の中にドラム缶を幾つも並べ、
 これに海水を汲み入れておけば
 白然に塩が出来るという寸法である。
 煙も出ず、敵機が上空から見ても、
 うまくカムフラージュしておけば、
 なかなか判らぬので爆撃の心配も少く、
 比較的苦労せずして塩が採れることになり、
 これは大成功であった。
 ***
この本には、その他バナナの茎を材料に、オクラの根を糊にして美濃紙の類を一日4千枚生産したとか、ギンゴジカという灌木から採った繊維で布を織り、照明弾底部の黄燐と火山の硫黄でマッチを製造したなど、若い部下たちの食や生活に細々と気遣う草鹿中将の思いが描かれています。
ラバウルの青い空に飛び立ち、還ることのなかった部下たち。
敵機の来襲で命を失った部下たち。
そのひとりひとりの顔と名前を思い浮かべながら、生きている間に、すこしでもひもじい思いをさせたくない。
そんな草鹿中将のやさしさに、心が打たれます。
そんな草鹿中将が、終戦後にオーストラリア軍がやってくると、鬼の草鹿に一変します。
降伏調印のためにやってきたオーストラリア軍は、文書調印に、日本軍代表として陸軍の今村均大将を指名してきたのです。
これに草鹿中将は噛み付きました。
「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない!」
というのです。
建軍の本筋から考えて陸軍には海軍の降伏調印の権限はない!と言い張り、一歩も引かない。
しかも火のような剣幕です。
そして海軍側の指揮官として、陸軍の今村大将と連名で調印をしています。
連名で調印するということは、自ら最高責任者と名乗りをあげることです。
それはそのまま「死」を意味することでした。
ふつうなら、指名を受けなければホッとするところです。
ところが、草鹿中将は断固として連名を主張し、占領軍であるオーストラリア軍を押し切っています。
この当時、敗軍となった日本軍の将校に対して、オーストラリア軍が示した極めて差別的行動を考えれば、その中にあって、頑として意思を押し通した草鹿中将の、破格の気迫の凄みがわかります。
さらに、オーストラリア軍によるBC級戦犯の調査が始まったときです。
自分自身が知らない部下の事件や問題に対しても、
「それは自分が命令した」
「それは自分の責任である」
と逐一、烈火のごとき剣幕で、すべてを自分の責任に帰すべきと横から口をはさみました。
これはもう、ものすごい剣幕だったそうです。
現場の最高責任者である指揮官が、自分が逐一命令したというのでは、取り調べにもなったもんじゃありません。軍は、指揮官の命令で動くものだからです。
ぜんぶが指揮官の指示によるものなら、実行犯は、ただ命令を遂行しただけとなり、軍事裁判で責任の追及のしようもありません。
その剣幕に、オーストラリアの担当官は、驚きあきれ、結局草鹿元中将は、ラバウルのBC級戦犯についても、海軍関係者全員の不起訴を勝ち取ってしまっています。
終戦後の草鹿元中将は、復員局に足しげく通っては、ラバウルで苦楽を共にした部下の状況を確認するために、自分も苦しい生活費の中から、ひとりひとりを訪ね歩きました。
復員局の職員は、
「日本海軍の司令官は数多いが、
 俺の部下に変わったことがないか?
 といまだに訪ねて来るのは草鹿さんだけでした」
と回顧しています。
(『ビッグマンスペシャル 連合艦隊・下巻激闘編』世界文化社、p.172)
草鹿中将は、戦後はずっと鎌倉に住みました。
昭和45年、彼はその鎌倉から、はるばる南の果てのブーゲンビルに、山本長官らの墜落現場を訪れました。
墜落現場で、空から香華を手向けた草鹿元海軍中将は、
「長官、遅くなりました。
 草鹿ただいま参りました」
と手をあわせられました。
このとき、草鹿元中将、81歳でした。
一緒にいた者は、平素、涙など見せたことのない草鹿中将の、その老いた眼から、滂沱の涙が落ちるのを見ました。
同じ鎌倉に住んでいた方に、ガダルカナルの中将・木村進元氏がいます。
彼の回想です。
「そういえば、任一氏が亡くなる半月ほど前のことでした。
 何を思ったか、ひょっこり何の前ぶれもなくやってきて、
 『木村、貴様だけは元気なのだから、しっかりやれ」
 とハッパをかけて去っていかれました。
 何をしっかりやればいいのか、
 こちらにはサッパリ見当がつきませんでしたが、
 いや、亡くなる直前まで、あの人は憂国の士だったですな。
 自分はもう歳だからそんな元気はないと言うと、
 ご機嫌斜めでした。」
その年の8月24日、草鹿任一元海軍中将は、常世の国に旅立たれました。
享年83歳でした。
最近の日本人は、怒らなくなったといわれます。
顔を真っ赤にして怒る者がいると、怒っている事柄や内容ではなくて「怒っている」そのこと自体が、みっともないとか、いい年をしてとか、非難の対象にされたりもします。
けれど草鹿中将が、敵さえも味方にしてしまったのは、彼が裸の人間として、腹の底から正義のために怒ったからです。
喜怒哀楽というのは、人間の自然な感情です。
ときにその感情を爆発させてでも、不条理は不条理として許さない。
あらゆる泥を自分からかぶる。
そして常に部下たちとともにある。
日本人は、これを日本人に対してだけでなく、差別され迫害され続けていた東亜の人々に対しても、まったく同様に行ってきました。
だから日本人は、いまでも尊敬され続けているのです。
その東亜のある島で、
「日本人の顔なんて絶対に見たくもない!」と、日本人とは会おうともしないご老人がおいでになりました。
写真家の池間哲郎さんは、
「いったいどういう人なのだろう」
と、そのご老人に会いに行きました。
場所は、激戦の島、ペリリュー島です。
何度も何度も訪問したそうです。訪問するたびに、会うことを拒まれました。
それでも訪問しました。
そしてついに、面談に成功しました。
ご老人は言いました。
「ペリリュー島には、日本人の兵隊さんの遺骨がたくさん残っている。
 けれど、戦後の日本人は、それをほったらかしにしている。
 そんなのは日本人じゃない。
 そんな酷い日本人になど、会いたくない。
 ペ島にいる日本人の兵隊さんたちのご遺骨は、
 自分たちが守る。」
そうです。そのご老人は、あの中川州男大佐に、若い頃、他の島民たちとともに、命を助けられた、あの島民のなかのひとりだったのです。
やさしかった日本人のことを、だからいまでも忘れない。
そんなやさしかった日本人のことを、遺骨さえもほったらかしたままにしている戦後の日本人なんて、そんな人達は日本人じゃない!、
日本人じゃないなら、それは似非日本人なのだ。
そんな似非日本人など、会う必要などない。
だから、そのご老人は、日本人に会おうとしなかったのです。
池間先生は、そんなご老人(男性1人、女性一人)と、会って取材をされています。
先日、池間先生の講演会で、そのお話を伺い、そしてその動画を見せていただきました。
お二方とも、パラオ人というより、もはやそのお顔は、戦前の日本人のお顔になっていました。
そして、お婆ちゃんの方は、歌まで作っておいででした。
「ペ島の遺骨は、私たちが守る
 ずっとずっと私たちは一緒」
と、そんな内容の歌です。
みなさん。本気で日本を取り戻しましょう。
私は、戦後の高度成長や、70年間の平和、そしてパブル期に少しは良い目をみさせていただき、浮かれさせてもいただくことができた私たちの世代で、これからの私たちの子や孫の未来のために、何かひとつでも良いことを遺して行きたいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。
※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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