◆第34回倭塾は、2016年11月12日 18:30〜開催です。
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木下恵介監督『野菊の如き君なりき
20161110 野菊の如き君なりき1

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伊藤左千夫の小説『野菊の墓』に、主人公の政夫と民子の次の会話があります。
このとき民子17歳、政夫15歳です。
兄弟同然に育てられた二人は、互いに慕情を抱いています。
二人は畑仕事に行く途中、道端に咲いている野菊を見つけます。
**********
「まア綺麗な野菊、
 政夫さん、私に半分おくれッたら。
 私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。
 民さんも野菊が好き?」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。
 野菊の花を見ると
 身振いの出るほど好もしいの。
 どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き。
 道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
二人は歩きだす。
「政夫さん、私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、
 民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって?」
「僕大好きさ」
*********
と、こういう会話です。
私がこの小説を最初に読んだのは、小学校の頃のことで、映画を見たときもそうでしたが、ラストではもう号泣してしまいました。
上のセリフのシーンは、映画でも、この通りに描写されていました。
さて、このやりとりの意味がおわかりいただけますでしょうか。
女性の方なら、説明するまでもなく、民さんの気持ちはおわかりになると思います。
男性の方はいかがでしょう。おわかりになりますでしょうか。
20161026 倭塾バナー

【倭塾】(江東区文化センター)
第34回 2016/11/12(土)18:30〜20:30 第4/5研修室
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政夫は「野菊が好きだ」と言いました。
そして民子のことを「野菊のような人だ」と言いました。
この二つから民子は「政夫さんは自分のことを好きだと言ってくれている」と思っています。
だから民子は、”頬を赤らめながら、うつむいて黙って”しまっているわけです。
大好きな政夫さんが間接的にせよ、自分のことを好きだと言ってくれたと感じたからです。
ところが政夫のなかでは、
「野菊が好き」ということと、
「民子さんは野菊のような人だ」ということは、それぞれが独立しています。
つまりこの二つは結びついていません。
もちろん政夫は民子のことが好きでいます。
だからといって「民子さんが好き」と言っているわけではないのです。
ここでは政夫は、民子さんのこと好きと思う気持ちと、野菊が可愛い花で好きだという気持ちと、民子のイメージが野菊のようであるということのそれぞれが、まったく別な事実として認識されています。
だからこのあと、しばらく黙ってしまった民子に、政夫は次のように言っています。
******
「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」
「わたし何も考えていやしません」
「民さんはそりゃ嘘だよ。
 何か考えごとでもしなくてあんな風をする訣(わけ)はないさ。
 どんなことを考えていたのか知らないけれど、
 隠さないだってよいじゃないか」
「政夫さん、済まない。
 私さっきほんとに考事(かんがえごと)していました。
 私つくづく考えて情なくなったの。
 わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。
 私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」
「民さんは何のこと言うんだろう。
 先に生れたから年が多い、
 十七年育ったから十七になったのじゃないか。
 十七だから何で情ないのですか。
 僕だって、さ来年になれば十七歳さ。
 民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
*******
民子の頭の中では、自分は政夫さんが好き。
政夫さんも自分のことが好き。
私も政夫さんが好きだから、二人は結ばれたい。
けれど私のほうが歳が多い。どうしよう・・・・、とこのようになっているわけです。
一方、政夫の方はというと、民子のことが好きではあるけれど、野菊が好きと言っただけで、民子に好きだと告ったわけではない。
だから政夫は、先回りして思考が進んでしまった民子の思考についていけず、
「民さんはほんとに妙なことを云う人だ」と言っています。

映画で民子を演じた有田紀子さん
20161110 野菊の如き君なりき2

このような男女の思考の微妙なすれ違いが、日本文学ではとても大事にされてきました。
これはもう、そうとしか言えないというくらい確かなことで、なんとなればこのすれ違いを題材にした日本最古の作品が古事記です。
古事記には、イザナキ、イザナミの思いのすれ違い、トヨタマヒメとヤマヒコの、お互いの心のすれ違いなどが美しく描写されています。
世界最古の女流文学である『源氏物語』も、こうした男と女の微妙な意識差が描かれ、それが人々の大きな共感を呼び、それは千年たっても色あせない文学となっています。
ひとくちに千年と言いますが、これはとてつもないことです。
いま、毎日のようにさまざまな文学作品が出版されています。
ベストセラーになる本もありますし、人気の作家さんもおいでになります。
けれどその作品が、果たして千年後に生き残っているかと考えたら、古事記の世界や源氏物語の世界が、いかに凄いものであるかがわかります。
千年経っても生き残るということは、千年経っても人々の共感を得続けているということです。
こういう心のヒダのすれ違いは、とてもやっかいだし面倒なものです。
けれど、やっかいだからこそ、千年たっても、そこに共感があるわけです。
ところがこうした心のすれ違いのようなものは、西洋の文学には、ほとんど描かれることがありません。
イプセンの人形の家にしても、トルストイのアンナ・カレーニナにしても、ハーベイのテスにしても、シンデレラのような童話であっても、女性の気持ちと、男性の脳の働きからくる互いのすれ違いは、テーマになりません。
シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』にしても、二人が愛し合っていたのはわかるけれど、愛し合いながらも、互いの心のスレ違いに葛藤する男女というのは、そこにはありません。
題材は、物理的に結ばれるか結ばれないかであり、思慕は描かれても、心のすれ違いは、テーマとして扱われていません。
要するに、女性の気持ちになど関係なく、『人形の家』のように、手に入れたはずの女性がが家を飛び出してしまった。なんでだろう、みたいなものが世界最高峰の古典文学になっているわけです。
これが東洋文学に至ると、女性の気持ちが描かれるということ自体が皆無になります。
楊貴妃にしても、虞美人にしても、本人の意思や思いにまったく関係なく、ただ美しかった、だから武将に愛されたというだけの存在として描かれています。
要するに西洋においても、東洋においても、女性は男性にとって、単に略奪の対象でしかないわけです。
それがたまたま女性の側に、その男性を思慕する気持ちがあれば、シンデレラのストーリーになりますから、これはロマンスです。
シンデレラは、たまたまシンデレラも王子様も独身であり、互いに相手を慕う気持ちがあったからロマンスになっています。
けれど王子様は、シンデレラを得るために、その権力を用いて国中の女あさりをしているわけです。
もし探していたシンデレラが人妻であったり、あるいは他に好きな男性がいたならば、いったいどういう展開になったことでしょう。
あるいはそれが若い独身の王子様ではなく、好色で頭の禿げたヒヒ爺の王様であったり、強欲な商人であったりしたら、いったいどういう展開になったことでしょう。
現実には、そういうケースの方がはるかに多いのではないでしょうか。
シンデレラは、お城でダンスパーティーがあるというから、美しい衣装を着て踊ってみたかっただけであり、他に好きな彼氏がいたり、夫がいたりしたら、あのガラスの靴による女探しは、とんでもない迷惑ストーカー行為となります。
歴史を振り返れば、西洋でもChinaでも、現実には、そうした迷惑行為となる女漁りが現実だったわけで、このとき、シンデレラが王の要求を拒めば、本人はおろか家族や好きな男性まで下手をすれば皆殺しにされたことでしょうし、それがChinaであれば、食べられてしまっているところです。
それが現実だったわけです。
だからこそ、ともに独身で、互いに惹かれ合っていたということが、稀有なロマンスとなるわけです。
けれど、すこし考えたらわかることですが、そのような社会構造にあっては、男女の微妙な心のすれ違いが文学のテーマになることは、まずありません。
逆にいえば、冒頭にご紹介したような、微妙な心のすれ違いが、「ああ、そうだよなあ。たしかにそんなことあるよね」といった人々の共感を生むということは、日本が築いてきた社会が、とても平和で、お互いの気持を大切にしあうということが大切にされてきた社会であったということです。
そしてそういう社会であったからこそ、思考が先回りして働く女性と、誠実だけど不器用な男性の葛藤が文学のテーマになるわけです。
日本文学が、妙にねちっこくて嫌だという人もいますが、社会科学として、このことを考えた時、この違いはたいへんに大きなものということができます。
つまり、
 気持ちなど関係なく蹂躙されることがむしろあたりまえであった社会と、
 気持ちこそが大事とされた社会
という違いです。
そこから生まれる文学は、前者は「ロマンスへの共感」となるし、後者は「すれ違いへの共感」となります。
なぜ日本では、心こそ大事という文化が育まれたのでしょうか、
その最大の理由が、シラス(知らす、Shirasu)にあります。
これは、日本では神々の国である高天原で開発された国の形です。
高天原の最高位の存在は天照大御神であり、その下に八百万の神々がおいでになります。
天照大御神は、その八百万の神々を代表してさらに上位の創成の神々につながる存在です。
このことは逆の言い方をすれば、八百万の神々は天照大御神を通じて創成の神々と繋がっているし、創成の神々は天照大御神を通じて八百万の神々と繋がっています。
その天照大御神からみたとき、八百万の神々は「おほみたから」です。
「おほみたから」は、漢字で書いたら大御宝ですが、もともとはこの言葉は大和言葉です。
大和言葉で
「おほ」は「意富」で、おおいなる意思を表わします。
「み」は、我が身です。
「たから」は「田+から」で、「から」は「はらから」つまり身内であり我が子です。ですから「田んぼで働く我が子達」といった意味になります。
つまり「おほみたから」は、「田んぼで働く人々を、大いなる意思のもとに我が子とする」といった意味になります。
末端の国民が、たいせつな我が子なのです。
この世に、我が子ほど可愛くて大切なものはありません。
ということは、天照大御神は、八百万の神々を大切な我が子とし、創成の神々の大いなる御意思のもと、大切な我が子たちが豊かに安心して安全に暮らせるようにしていく、ということが、シラス(知らす、Shirasu)統治の意味になります。
そして天照大御神の孫である邇邇芸命が地上世界に天孫降臨されるとき、天照大御神が邇邇芸命に命じたことが「高天原と同じ統治を地上において行いなさい」ということです。
そして、邇邇芸命からの直系のご子孫が、125代続く日本の天皇です。
天皇は、神々とつながり、神々の御意思のもとに、国民を「おほみたから」とします。
そしてその「おほみたから」たちが、豊かに安全に安心して暮らせるように、「臣」を置きます。
ですから「臣」にとって、民衆は被支配者、つまり隷民でもなければ、私有民でもありません。
どこまでも、天皇の「おほみたから」であり、その「おほみたから」たちが豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが、「臣」の使命であり勤めと規定されます。
その「臣」が行う領民への統治を「知行」といいます。
「知行」は、訓読みしたら「しらすをおこなふ」です。
これが日本古来の国のカタチです。
上に立つものは、下の者から収奪したり簒奪したりするのではなく、どこまでも私心なく、民のための統治を行う。
そのときに大事にされるのが、民の気持ちです。
社会の構造が、こうして「気持ち」をたいせつにするという仕組みになれば、心や思いの微妙なすれ違いが、社会としてとても大切なものになります。
そしてこれが男女の間においても、それが「たいせつなもの」とされているという共通認識があるからこそ、文学に反映し、人々の共感を得るのです。
冒頭にお話した伊藤左千夫の小説『野菊の墓』は、1955年から2009年までの間に、12回もテレビドラマ、映画化されています。
民子役には、冒頭の写真の有田紀子以外に、山口百恵や松田聖子、岡崎行など、様々な女優さんが、これを演じておいでになります。
そのうち何本かは、ご覧になられた方も多いかと思います。
けれど、非常に残念に思うのは、1955年(昭和30年)に木下恵介監督が撮った冒頭の写真の映画以降、年代が新しくなるに連れて、おそらく「おほみたから」という観念が薄れてきたためなのでしょう。
映像の解釈が、ただ可愛い女の子が虐められて死んだという表層的な上辺だけの解釈になり、互いの心を大切にしようとして生きてきた日本人的な心の葛藤が、ほとんど描かれなくなってしまいました。
日本人が日本人としての文化性を失うと、どれだけ素晴らしい俳優や脚本、映像美を作ったとしても、結局は、すこし厳しい言い方ですが、駄作にしかならないということなのかもしれません。
結果は、過去にこれだけ素晴らしい作品ができていながら、1994年以降、もうまる22年も、この作品は映像化されなくなってしまいました。
私たちは、もっと日本を知り、日本の文化をあらためて、いまいちど根底から考え直してみるべきときにきているのではないでしょうか。
※この記事は2015年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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