20161011 高天原
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古事記の本文の一番最初のところです。
「天地(あめつち)初めて発(おこ)りし時、
 高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、
 天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」
(原文:天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神)
続けて注釈が書かれています。
「高の下の天の訓(よみ)は「あま」と云ふ。
 下はこれに效(なら)ふ」
(原文:訓高下天、云阿麻。下效此)
見過ごしがちなところなのですが、要するに古事記は、漢字では「天」の一文字だけれど、読みは、「あめ」と「あま」とを使い分けています。
どういうことかというと、大和言葉には「あめ」と「あま」と言葉を使い分けているけれど、漢字にはその違いを示す概念がなかったということです。
だから「天」一文字を、意図的に「あめ」と「あま」に読み分けているわけです。
では「あめ」と「あま」は、どのように違うのでしょうか。
20160810 目からウロコの日本の歴史

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似たようなことは、日本語の一人称と英語の一人称の違いなどでも見受けることができます。
日本語で自分を指して言う言葉は「わたし、おれ、われ、わし、あたし、あたい、わい、うち、わす、わだす、おいら、おら、うら、ぼく、小生、小職、本官、わがはい、朕、世、吾人、身共、拙者、てまえ、こちら」など、さまざまな用語が、役割や、立場の違いなどによって区別して使い分けて用いられます。
けれど英語に直したら、これらは全部まとめて「I」です。
つまり日本語には、一人称に役割という概念が加えられるのに対して、英語にはそれがないわけです。
同様に古代の日本語では「あめ」と「あま」は使い分けて用いられていたけれど、Chinaの漢字にはそれがないから、古事記を漢字で書きあらわすに際して、文字としては「天」を用いたけれど、言葉に含まれる概念(語彙)が違うから、読みで使い分けをしたということになります。
では、「あめ」と「あま」の違いは何でしょうか。
「あめ」といえば、「雨(あめ)」を連想しますが、もともとは手の届かないはるか上空のことを「あめ」と言いました。
その上空から落ちてくる水が「あめのみず」で、これが長い年月の間に詰まって「雨(あめ)」という名詞なりました。
これに対し、高天原や天之御中主神に使われている「天」は「あま」です。
「あ」は、古語で名詞として使われる場合は「案」と同義で、案は、形而上学的なカタチのないものです。
代名詞として、吾(一人称)や彼(三人称)でも「あ」が用いられますが、こ場合の「あ」は、特定の誰かを指すというよりも、一般化した中での「吾(あ)」や「彼(あ)」です。
つまり、公(おおやけ)の中の自分、公(おおやけ)の中における彼を言うときに「あ」が用いられます。
「ま」は、漢字で書いたら「間(ま)」で、すきまや、あいだ、その間にある部屋などの場所を意味する言葉です。
すると「あま」は、「あめ」と同様、手の届かない上空ではあるけれど、そのなかにある「間(ま)」、つまり、どこかわからないけれど、天空にある特定の場所を意味した語ということがわかります。
繰り返していうなら、「あめ」が天空全体を指す言葉なら、「あま」は、天空の中の特定の場所という語感を持つ言葉ということになります。
そして「高天原」は「あま」と発音するようにと古事記は書いています。
「高(たか)」は、高所ということですぐに意味がわかると思います。
「天(あま)」は、その天空の中にある特定の場所です。
では「原」はというと、「はらから」という言葉がありますけれど、子は「おなか」から生まれます。同じ「おなか」から生まれた人々は、同じ腹(はら)から生まれたから「はらから」です。
つまり「はら」は、血縁や血筋を意味します。
ということは「高天原(たかあまのはら)」は、「高い高い天空のどこかにある、私たちの血筋のおおもとの場所」を意味するとわかります。
ですから死んでから行く天国や極楽(*1)と異なり、いま生きている人々の遠い祖先のおわすところが高天原ということになります。
ということは「天地(あめつち)初めて発(おこ)りし時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」という記述は、
「手の届かないはるか上空にある天空と、人の住む地面がいよいよ生まれようとする時、高い高い天空のどこかにある、私たちの血筋のおおもとの場所に、最初に成られた神様の名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」ということになります。
天之御中主神の御名にある「天」も、「あま」と読みます。
「御中(みなか)」は、ど真ん中、くらいの意味です。
「主(ぬし)」は、主人です。
ですから天之御中主神は、私たちには手の届かないはるか天空のど真ん中の主人の神様、という意味であるということがわかります。
ちなみに、ど真ん中というのは常に「点」です。
ところが「点」に大きさも姿もカタチもありません。時間もありません。
だから「点=0」です。
「0」は、なにと掛け算しても答えは「0」です。
ですから「0」を、いくつで割っても、答は「0」です。
ところが、あらゆる数を「0」で割ると、答えができません。
たとえば「3÷0」は、「0×( )=3」の()の中を計算することと同じで、答えようがありません。
また「0÷0」は、
「0×( )=0」と同じで、()の中には、どんな数を入れても良いことになります。
つまり、「0次元」ということは、無限大次元と同じということです。
ということは、あらゆる時空間の大元にあるのが「0次元」となり、それが天之御中主神ということになるのかもしれません。
続く文は、
「次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
 次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。
 此(こ)の三柱(みはしら)の神は、
 並(とも)に独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して
 身を隠(かく)しましき」
(原文:次高御産巣日神、次神産巣日神。此三柱神者、並独神成坐而、隠身也)
です。
「産巣日(むすひ)」というのは、「むす」が生じること、「ひ」が霊的な力を意味します。
ですから「むすひ」と書いて「天地・万物を生じさせる霊的な力」を意味します。
「高御」は、「はるかな高み」ですから、はるかな高みに生まれた天地・万物を生じさせる霊的な力が、高御産巣日神です。
それは高貴な力ですから「高御」と「御」の字が付されています。
その霊的な力が物質や光を生みます。
神は光に例えられることがありますが、物質や光、あるいは時間などのおおもとにあたられるのが神の産巣日(むすひ)です。
そしてこの三神は、
「並(とも)に独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠(かく)しましき」
(原文:此三柱神者、並独神成坐而、隠身也)
と書かれています。
面白い話があります。
私たちの住む宇宙は、138億年前のビックバンに始まったとされていますが、最近の研究では、そのビックバンよりも、さらに前の時代があったというのです。
これが「超弦理論」で、ビックバンよりも前に、高次元空間に点が生まれ、その点が振動して弦になり、その弦が振動して立体となり、立体が振動することで光となり、光がスパークすることでクォークが生まれ、ここまでが十のマイナス数十秒という短い時間で展開されて大爆発(ビックバン)を起こし、宇宙となったという理論です。
これが最新の現代物理学がたどり着いた、宇宙創生の理論的展開です。
これまでの説明で、天之御中主神は、最初の高次元空間に生まれたカタチも大きさもない点であり、おおもとです。
その点が振動して弦となると、カタチが生まれます。ムスヒによってカタチが生まれるわけです。なぜか高御産巣日というお名前とこれが一致します。
その弦が振動して立体となり、その立体がスパークして光となってクォークになるのですが、神産巣日という言葉があらゆる物質の原点となるクォークの状態を指すとすれば、まさに神産巣日によって、宇宙のおおもとが成立したことになります。
ということは、現代物理学がようやくたどり着いた宇宙創生の秘密が、なんと古事記に書かれていたということになるのかもしれません。
一般には、この天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神様は、産巣日(むすひ)の二神(高御産巣日神、神産巣日神)が陰陽を意味していて、その核としてあとから、天之御中主神を加えられたというのが通説です。
なぜ加えたのかというと、中国の道教思想に「三尊三聖」という思想があり、これを模倣して「造化三神」としたのであろうというのです。
つまり三柱の神様は、Chinaから輸入した思考によって考え出された神様なのであろうというわけです。
ところが、もし輸入の神様の概念であったとするならば、なぜ「天」の一文字に、「あめ」と「あま」という区別をしたのかの説明がつきません。
ということは、この三神は、中国からの輸入の神様などではぜんぜんなくて、やはり大和言葉に基づいて、日本の上古の昔から言い伝えられた神様であると考えたほうが、適切であるのではないかと思います。
もちろん古事記が書かれた時代には、超弦理論なんてありませんし、それよりももっと古い神話の時代に、そのような理論があろうはずがないという見方もあろうかと思います。
しかし現代物理学がようやくたどり着いた理論と、古事記の記述が一致しているとするならば、これは注目に値することではないかと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

20151208 倭塾・動画配信サービス2

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