20161003 新皇居於テ正殿憲法発布式之図
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大日本帝国憲法は、我が国の歴史伝統文化に基づく我が国国体を明確にした優れた憲法である一方で、諸般の事情があるとはいえ、戊辰戦争から昭和20年の終戦までのわずか80年の間に、日本は日清、日露、第一次、日華事変、満洲事変、大東亜戦争と、6度もの大きな戦禍を経験しているわけです。
日本国憲法が良い憲法だとは言いませんが、すくなくとも戦後70年、日本は戦争をしないで済んできているという事実もあるわけです。
もっともその一方で、汚職や無責任など、人心の荒廃は目を覆う情況があります。
実は、大日本帝国憲法が内在させた問題の本質と、日本国憲法が持つ問題の本質は同じところにあります。
また、失ってはならないたいせつなこともそこから見えてきます。
大日本帝国憲法の成立までの過程をみると、おもしろいことがわかります。
明治22年2月11日 大日本帝国憲法が発布
明治23年11月29日 第1回帝国議会によって大日本帝国憲法施行
大日本帝国憲法は、議会で決めた憲法ではないのです。
議会は施行をしただけです。
帝国憲法は、天皇によって黒田首相に下賜するという形で発布されています。
だから欽定憲法です。
なぜ欽定憲法にしたかには理由があります。
20160810 目からウロコの日本の歴史

【倭塾】(江東区文化センター)
第33回 2016/10/8(土)13:30〜16:30 第1/2研修室
第34回 2016/11/12(土)18:30〜20:30 第4/5研修室
第35回 2016/12/24(土)13:30〜16:30 第4/5研修室

【ねずさんと学ぶ百人一首】(江東区文化センター)
第8回 2016/10/20(木)18:30〜20:30 第三研修室
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第10回 2016/12/8(木)18:30〜20:30 第三研修室


明治10年頃から「日本は憲法を作るべし」という議論が全国的に巻き起こりました。
その中心となったのが、自由民権運動です。
彼らの主張は、議会を作れ、自分たちを国民の代表として政府に入れろ、議員として政府の決定権に関与させよ、それを明文化するために憲法をつくれ、というものです。
この運動によって、全国から45もの憲法草案が集まりました。
ところがその内容と言えば
「天皇は国務長官である」と規定したもの、
「天皇の地位は国会によって決まる」などといった、我が国の歴史伝統をまるで解さない暴論としかいえないようなものもありました(皿木喜久著『明治という奇跡』)。
その状況で議会をつくり、その議会によって憲法論議をすれば、おそらく議論の対立ばかりで噛み合わず、おそらく憲法の制定にまで至らない。
仮に議会で決まったとしても、その憲法の内容がどのようなものになるのか、これまた想像もつかないという情況であったわけです。
それでは・・・ということで政府がなんらかの案をまとめたとしても、おそらく議会はこれに猛反発するであろうし、そうなれば国論は割れるし、割れれば再び内乱が起きる可能性は十分にあったし、そのような国家の分裂を欧米列強が見逃すはずもなく、日本は早晩、列強によって分断され、植民地化されてしまう。
では、これを防ぐためにどうするか。
議会開催の前に、憲法を発布してしまうしかないのです。
そもそも憲法というものは、国をひとつにまとめるためのものです。
ひとつのまとまりが国です。
分裂しているのなら、それは「別な国」です。
私たち日本人は、海に囲まれた国土を持っています。
ですからなんとなく「意見が割れても国はひとつ」みたいな感覚を持っていますが、陸続きの諸外国ではそうはいきません。
考え方が違えば、強いほうが弱い方を国内で粛清するか、あるいはどちらかが独立運動をして、戦って別な国となって独立するのです。
それが、国、です。
そういう意味では、明治初期から中期にかけての日本は、いつでも国家分裂の危機にあったということができます。
憲法論議にかこつけて欧米が反対派のスポンサーにでもなれば、戊辰戦争の再来です。内乱が起こる。
伊藤博文はこのことを危惧しました。
ですから彼は、なんとしても議会発足の前に、欽定憲法の形で憲法をまとめてしまうことを思い立つわけです。
そして井上毅に我が国の歴史伝統に即した憲法案を考えさせる一方で、自分はヨーロッパに1年半留学して西洋の憲法を学びました。
こうしてできた帝国憲法案には、第一条に、
「大日本帝国は、万世一系の天皇これを知らす」
と記載されました。
これが井上毅の原案なのですが、伊藤博文は「シラス(知らす、Shirasu)」に対応した外国語が存在しないことから、これを、
「大日本帝国は、万世一系の天皇これを統治す」
に改め、これが採用となりました。
けれど伊藤は、憲法発布後に著わした『憲法義解』という憲法の解説書で、「ここに書かれた『統治ス』は『知らす』の意である」と明記しています。
天皇を中心としたシラス国という、我が国の歴史伝統文化の根幹を、帝国憲法は明文化したのです。
このことは国民に、誰もが天皇のシラス国の大御宝であるという自覚をもたらし、そのなかでいかに良く生きるか、人の道を踏み外さないようにして生きるかということを、民衆の隅々にまで浸透させるという素晴らしい結果を生みました。
かつての帝国軍人が勇敢で立派だったことも、数々の大戦で日本が勝利し続けたことも、台湾や朝鮮半島や満洲の統治にあたって、素晴らしい成果を残したのも、この自覚があってのことということができます。
その意味で、この第一条は、たいへんに意義深い条文であるといえるし、伊藤博文は、まさにこの一条を通すために命がけで踏ん張りました。
その代わり、あとは自由民権運動派が好き勝手に言ってくる言い分をほぼ丸呑みする形で、憲法の各条文の調整をしています。
ここに、問題の火種が生まれました。
最大の問題が、選挙で選ばれた議会(衆議院)が、予算の拒否権を持ったことです。
政府が決めた予算案は、衆議院でまたたく間に否決されるのです。
つまり衆議院が、国家予算のイニチアシブを取るようになりました。
政党内閣ができるようになると、大蔵大臣が衆議院から出るようになり、衆議院がますます強大な予算権を握るようになります。
するとこの予算権という権力の争奪戦が起こります。
衆議院は二大政党制となり、互いに激しく対立しました。
対立への勝利の鍵は、票の数です。
そして票を得るためには、選挙区への利益誘導が最大のポイントとなります。
つまり、予算権を握っている政治家の目線は、常に地元への利益還元にあって、これによって日本の国家としての外交、安全保障に対する目線が失われていくのです。
歴史を振り帰る限り、議会は、こと外交安全保障問題について、あまり日本国民にとって良い影響を及ぼしたとはいえないものであったのではないかと思います。
なるほど議会は、足尾銅山事件に代表されるように、政府の横暴に歯止めをかける、あるいは国内の弱者救済のために果たした役割は大きなものがあります。
しかしそれさえも、どちらかといえば制度というよりも、議員個人の資質によるものです。
すこしまとめます。
国家予算を握っているのが衆議院です。
衆議院の議員は、票によって選ばれます。
するとその行動は、国内で票になるかが最大の原理です。
するとChinaや満洲などの外地で、日本人がどんなひどい目に遭わされるという現実があっても、外地の人は票になりませんからほったらかしです。
しかも軍事予算は、金額が莫大ですから、常に最大の削減のための攻撃対象です。
そのために国家が弱体化して、他国からの脅威に晒されるようになっても、それは政府の責任であって議会の責任ではありません。
そもそも戦争は、「起こさなくても良いように備える」ことがいちばん肝心なことです。
そのためには、諸外国と対等もしくはそれ以上の軍事力を常に備え続けなければなりません。
弱いとみられるや、すぐに魔の手が伸びてくるからです。
ところがその「備え」のための予算が、真っ先に削られるのです。
さらに議会は、もうひとつの問題を生みます。
それは議会は政府を追求するもの、というおかしな考え方の蔓延です。
常に追求と批判にさらされるようになれば、官僚は、保身に走らざるを得ません。
保身ということは、事なかれに走るということです。
誰しもカネや地位は欲しいけれど、責任を負いたくありません。
攻める議会も、守る行政も同じです。
だれもがネや地位は欲しいけれど、責任を負いたくない。
国政を担う者が、このようになれば、国民の利益など、どこかに飛んでしまいます。
日華事変や満洲事変を日本の侵略だという人がいます。
しかし、まる四半世紀、一生懸命に、土地の人々のために働いて、その働いて得た利益を地元のギャングたちに全部持っていかれ、あるいは暴行を加えられ、あるいは殺され続けてきたのです。
そしてそのギャングの大ボスが、こうして築いた冨によって、政府を名乗ったりしているのです。
暴力を嫌い、真面目に働くしか能のない日本人は、とりわけこの犠牲になりました。
我慢に我慢を重ねて、どうにもならなくなってついに挙兵したのが2つの事変です。
むしろ日本の政治が、国内の利害の衝突にばかり追われて、外地にある日本人居留民の保護や、そこで起きている現実についてをキチンと世界に向けて情報発信してこなかったことの方が、はるかに問題なのです。
数々の戦争や事変に際して、日本国臣民である軍の兵士たちは、ほんとうによく頑張りました。
背も届かないようなクリーク(ドブ川)に 三日も浸かって戦ったり、十日も食べずに戦ったり、あるいは泥水をすすり草を噛み、多くの命を散らせて戦いを勝利に導きました。
その強さは、ではどこからきたのかといえば、大日本帝国憲法の第一条です。
しかし、そういういわば下々の日本人の命がけの努力を、事なかれの役人仕事と、議会のなかの権力闘争に終始して、まるで省みることのなかった日本ができてしまっていたことが、結果として大東亜の敗戦の原因をなしているということができます。
要するに、日本国の強さは帝国憲法第一条によって担保されたけれど、憲法制定前に民権運動に譲歩した部分によって、日本国の政治の弱化の原因が生まれ、そのことが数々の戦争を招き、多くの臣民の命を奪ったということことができるのです。
戦後は、これが日本国憲法に変わりました。
しかしそこには、帝国憲法の第一条がありません。
つまり、日本の強さの根本が失われ、帝国憲法時代からあった対立と無責任の構造だけが、憲法に生き残りました。
結果、政治の意思決定は、一部の利権者のためだけに国益を失わせるか、その利権者に反対することでカネをもらって利益の一部に預かるか、事なかれ主義でいくかという、三者択一でしかなくなっているのが、戦後政治の姿です。
そうした中にあって、真剣に国民のことを考え、現状を打破しようする政治家は、責任ある発言をするから、それを問題発言として逆手に取られて議員生命を失うといった事態が繰り返されてもいます。
憲法論議が起ころうとしていますが、おそらくいまのままでは、国論が分裂するだけで何も決まらないのではないかと思います。
総論がなくて、各論の対立だけだからです。
決めるための軸足がないのに、いったいこの先に、どんな憲法案ができるというのでしょうか。
まずは日本国民が、もういちど「シラス国」に目覚めること。
テクニカルな法律理論に走るよりも以前に、私は、そこが出発点だと思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。

20151208 倭塾・動画配信サービス2

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