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←いつも応援クリックをありがとうございます。先日「倭塾」でお話したことなのですけれど、日本におけるシラス(知らす、Shirasu)統治というのは、天皇という最高権威のもとに、民衆を「大御宝(おおみたから)」とすることにより、民衆自身が権力者からの自由を得るという、極めて先進的な社会統治システムということができます。
なぜ先進的かというと、現代社会において、もっともすすんだ統治手法と思われている民主主義であっても、結果として、選ばれた統治者が私的に民衆を支配し隷属化させてしまうのに対し、シラス統治は、権力者にとって民衆がどこまでも国家の最高権威からの預かり物という形になるからです。
ですからシラス統治は、究極の民主主義であり、民主主義が行き着く最後の形ということができます。
実際、古事記の物語を追ってみると、最初は高天原は、天照大御神によるウシハク統治であったわけです。
ウシハクというのは、主(ウシ)が佩(は)く、つまり主人が私的に支配するという統治の形態のことをいいます。
ところが須佐之男命という脅威が高天原に現れたとき、このウシハク統治は行き詰まってしまうのです。
それで天照大御神様が、天の岩戸にお隠れになってしまわれる。
そのときに生まれたのが、議会制民主主義です。
八百万の神々の代表者たちが天の安の河原に集まって、議会を開き、その議会の決議に従って、再び天照大御神様に、岩戸からお出ましいただけるように計らいます。
そしてこの後に、天照大御神様を最高権威とし、議会と行政府がその下にあって政治や行政を行うという形が完成しています。

つまり、高天原の統治は、
天照大御神の独裁的ウシハク統治(最初の頃)
↓
天の安の河原での議会制民主主義の開始
↓
天照大御神を最高権威とし、
その下に議会と行政府を置くシラス統治
という順番で、シラス統治の形が完成し、その完成した統治の形態を、そのまま中つ国でも行うようにと、邇邇芸命が天孫降臨したのだ、ということが、古事記における話の流れとなっています。
ここでひとつ注意しておかなければならないのですが、大国主神神話では、「汝のウシハケルこの葦原の中つ国は、我が御子のシラス国ぞ」と、建御雷神の言葉が出てきます。
ここでは、シラスとウシハクが対義語として語られています。
しかし、建御雷神はウシハクを単に「汝のウシハケル」と言っているだけで、「悪い統治」と言っているのではないことには注意が必要です。
つまりシラスとウシハクは、対義語ではあっても、それは良い悪いを意味する対義ではないということです。ここは大事なところです。
なぜなら、天照大御神の岩戸開き前までの高天原の統治が、実質的にウシハクになっておいでだったわけです。
もし、シラス・ウシハクが善悪の対比なら、とんでもない冒涜になってしまいます。
そもそもすこし考えたらわかることですが、会社の創業期、あるいは非常時における軍隊の活動などにおいては、ウシハク体制が不可欠です。
今風にいえば、トップあるいは上官が、完全にリーダーシップを発揮しなければ、組織は形成されないし、動かないのです。
ですから世の中は、シラスとウシハクは同時に共存し、相互に補完するものであって、一方が良くて一方が悪いというようなことは、古事記には一切書かれていないという点には、本当に注意を払うべきです。両方必要なのです。
民衆が、より豊かに安心して安全に暮らせるようにする。
そのためには、民衆そのものを「おおみたから」として慈しむシラス体制と、
強力なリーダーシップのもとに、危険を顧みず民衆を動かすウシハク体制と、ときに応じて、どちらも必要なのです。
もっというなら、この二つの違いは、平時と変時における必要な統治の違いということができるかもしれません。
こうした統治の仕組みが、いつごろ我が国で考案され、それが実施されたのかは、まったくわかりません。
わからないくらい古い昔に考案され、それによって、国の根幹の形をシラスにしてきたのが、日本です。
シラスは、国家の最高権威と最高権力を分けます。
そして民衆を最高権威のもとに、「大御宝(おおみたから)」とします。
最高権力は、最高権威の下にありますから、これによって権力は、最高権威の宝を預かる立場になります。
自分のモノなら、勝手に処分できますが、上司からの預かりものでは、粗略にできません。
しかも民衆は「おおみたから」というのです。
最高の宝物です。
ということは、シラスは、「究極の民主主義」、あるいは「民主主義が最後に到達する最終的発展形」ということができます。
このことは裏返していうと、民衆にとって、権力者からの自由は、天皇という存在によって担(にな)われているということがわかります。
ですから天皇の御存在がありながら、天皇を重視しない社会風潮が生まれると、結果として民衆は権力者に支配されるだけの哀れな存在となります。
天皇という存在のありがたさによって、権力者は、どこまでも大御宝である民衆の誰もが豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが、最大の使命となるのだし、民衆は天皇の権威のもとに、権力者からの自由を得ているのです。
天皇という存在のありがたさがなければ、民衆は、単に権力者に支配されるだけとなり、世の中は、ただ上下関係だけの支配と隷属が蔓延することになります。
これが発展すると、民衆は、事実上の奴隷となります。
ちなみに、日本には上古の昔から、奴婢、生口はいましたが、奴隷はいません。
大陸的な意味における奴隷というのは、単に人間が売買の対象となるというだけではありません。
奴隷はモノであって、人でさえありません。
先般の口蹄疫事件のときに、口蹄疫に罹患した牛が約30万頭、殺処分となりました。
30万頭です。とんでもない数ですが、この殺処分を命じた官吏も、実施した官吏も殺牛罪には問われません。
つまり、殺人罪も傷害罪も強姦罪も、人に対して適用されるものであって、動物やモノに対しては適用されません。
つまり奴隷は、ただの動物やモノと同じ扱いだったということです。
これに対し、日本の奴婢・生口は、どこまでも人です。
まず奴婢から申しますと、奴婢は、
「奴(やっこ)」=男性、
「婢(ひ)」=はしため
です。つまり、下男、下女のことを言います。
下男、下女というのは、お屋敷等で住み込みで働く人達で、いまでいうなら会社の「社宅に住んでいる社員たち」です。
たとえば製造業の会社なら、工場で働く人達が戦士、
事務所で経理などをして働いている男女が下男下女で、奴婢です。
ちゃんと給料をもらって働いているし、優秀な者なら、屋敷の主が費用を負担して高い教育が得られるようにしてあげたり、養子に迎えたりということもありました。
屋敷の主が世襲なら、下男下女たちも、その多くは世襲でした。
なぜなら、世襲であることで、信頼、信用が増すからです。
これはどうみても、人としての処遇です。
ということは、奴隷と奴婢は、まるで異なるものです。
いまの時代でも社宅に住んでいる社員さんたちのことを誰も奴隷とは思わないでしょう。
生口(せいこう)は『後漢書』に「107年(後漢永初元年)、倭国王・帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じた」という記録があります。
日本(当時は倭国)が、後漢の皇帝に160人の人を献上したのです。
少し考えたらわかることですが、最高の存在を自称する一大権力者である後漢の皇帝に、国家儀礼として献上する人たちを、果たしてホームレスのような穢い人たちを献上したりなどするでしょうか。
ちゃんとChinaの言葉がわかり、それぞれに技術を持った優秀な人たちを160人献上することで、我が国が国家としての威信を示すのでなければ、献上にならないのではないでしょうか。
生口は、生きる口と書きますが、要するにこれは生きた人ということです。
しかも口があるということは、後漢の皇帝は、160人もの人を、これから生涯、食わせて行かなければならないのです。
食わせる以上に値打ちのある人達、つまり技術や教育のある人達でなければ、後漢の皇帝にしても、もらっても迷惑です。
つまり生口は、生きている優秀な技術や知能を持った人たちであって、これを大陸的な意味での奴隷と同じと考えるほうが、常識としてどうかしています。
日本は、民衆を大御宝とするシラス国なのです。
ところがそのシラス国が、昨今、たいへんに乱れてきています。
天皇軽視の風潮が広がってきているからです。
天皇権威を否定したり軽視したりすると、いちばんワリを食うのが民衆です。
下に行けば行くほど、ワリをくらいます。
なぜなら権力者はどこまでも自己の権力の肥大化、極大化を目指すものだからです。
ここでいう権力者というのは、お金持ち(富者)を含みます。
お金持ちは、もっとお金を求めます。
すると相対的に、多くの民衆は隷属下に置かれます。
つまり正規雇用が減り、人がまるでモノであるかのように、いつでもクビにできて、安い時間給だけを与えれば良いという状態になります。
従業員は、ただの駒であり、駒は安いほど良い。
そういう価値観が蔓延します。
そうなるのです。
経営者は自分が稼ぐためにパート、アルバイトを雇っているのです。
パート、アルバイトの生活の心配など、経営者には関係ない話なのです。
これが、大御宝を預かっているという関係になると、その宝が、より豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことが経営者の使命になります。
そうであれば、時給労働者ではなく、正規雇用、もっというなら終身雇用があたりまえの社会になります。
こうしたことが極端に現れたのが、ちょっと前までのChina社会です。
ChinaにはChineseの経営する晩春宿がありましたが、ほんの数十年前まで、そこでは妙齢の女性が雇われ、両目が針で突かれて潰されるのが当然でした。
目が見えたら、客の選り好みをするからです。
そして、一定の年齢になると、その目の見えない女性たちが、店から追い出されました。
要するに使い捨てでした。
人が、カネと権力にしがみつくようになると、そこまで他人に対して冷淡になってしまうという、これはひとつの典型です。
昨今の日本でも、もはや終身雇用などという考え方自体が、ほとんど死語になりつつあります。
社員は使い捨て。
それも、自社で雇用するパート・アルバイトどころか、派遣を利用することで、雇用関係さえも拒否されるという風潮です。
そのどこにも、大御宝を預かっているのだという気概も思想も責任感もありません。
要するに天皇という国家最高権威のもとに、民が大御宝とされている社会が、いつのまにか、天皇は象徴という名のただの国家のお飾りでしかないような、きわめて侮辱的、国辱的な思想が蔓延し、その結果、そのように思い込んでいる民衆自身が、ただの隷属的支配を受け入れざるを得なくなってしまっているわけです。
いやいや、自分は終身雇用で、安定した仕事を持っているから関係ないと思われる方もおいでになるかもしれません。
けれど、その方の息子さんや娘さんが、将来正規の終身雇用になれる可能性は、いまや皆無に等しい情況に至っているわけです。
ということは、「天皇なんて関係ない。自分はちゃんと稼いでいる」と言っている、あるいは思い込んでいるその人自身が、一番大切な我が子の未来の幸せを潰していることになります。
シラスは、民主主義の超発展形です。
過去の歴史において、日本と同じように国家の最高権威と最高権力を分けるという統治の形態を生んだ国や民族は、他にもたくさんあったのかもしれません。
けれど残念なことに、せっかくそうした究極の民主主義が生まれていたかもしれないけれど、それらは民衆を支配し隷属させ、民衆から収奪の限りをつくす乱暴者や乱暴な民族、欲の塊となった不埒な人種によって、ことごとく滅ぼされ、いまではその片鱗さえもうかがい知ることができなくなってしまっています。
日本は島国だからシラスが生き残った、ということも違うと思います。
島国の内部であっても、権力争いというのは、いつの世も壮絶なものです。
日本でも、有史以来、そうした権力の争奪戦は何度もあったけれど、結局のところ、天皇のシラス国という統治スタイルが、結果として誰もが納得できる最も優れた統治形態だからこそ、紆余曲折はいろいろあっても、最後には、天皇のシラス統治が守られてきたのです。
一昨日、天皇のお言葉が発せられましたが、わたしたちは、いまいちど、シラス、ウシハクという、日本の原点に帰って、いまの日本を考えなおしてみる必要があるのではないかと思います。


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