20160623 中山成彬2

人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)
20160629 斎宮

「旅宿逢恋」
 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
 身を尽くしてや 恋ひわたるべき

百人一首の88番の皇嘉門院別当の歌です。
『千載集』に詞書があり、そこには
「摂政右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」と書かれています。
一般には解釈として、次のように書かれています。
「難波江のほとりにある蘆を刈って拵えた小屋での、
 たった一夜の仮の契り。
 そんな、蘆の一節(ひとよ)のような行きずりの情事のために、
 澪標(みをつくし)ならぬ身を尽くしてでも、
 命が尽きるまで私はあの人を恋し続けることになるのでしょうか」
こうした「一般の解釈」について、私が捏造しているなどとアホなことを書いている人たちがいるようです。
「誰の」解釈なのかを書いていないからなのですが、私は、その「誰か」と喧嘩するつもりはまったくなく、ただ歌の持つ本来の意味を取り戻したいと思っているだけです。
ですから具体的な書名は明らかにしていません。
ただ、私の主催する「古典塾」などでは、書かれたその本を持参して皆様にお見せすることもあります。
それこそ、「なぜ書名を明らかにしないのか、それくらいのことは察しろよ」と言ってやりたくなります。


さて詞書にある通り、この歌のタイトルは「旅宿恋歌」です。
そしてこの歌の語意は、要約すれば作者の皇嘉門院別当が、
「旅先で一夜限りの契りを交わした男性を忘れられずに、身を焦がしていますわ」と詠んでいるわけです。
ただ、以前にもご紹介しましたが
(昔)
「この和歌は、恋の歌です。」
「どうしてですか?」
「はい。タイトルに『恋』と書いてあります」
「不正解です。もういちど勉強してきなさい」
(いま)
「この和歌は、恋の歌です。」
「どうしてですか?」
「はい。タイトルに『恋』と書いてあります」
「正解です。たいへんよくできました」
いまの日本人が劣化するわけで、そもそもこの歌が、本当に個人的な恋心を詠んだ歌なら、歌人の名前も個人名にすべきところです。
ところがこの歌は、「皇嘉門院別当」としています。
皇嘉門院というのは、摂政藤原忠通の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子のことです。
別当というのは、その聖子様付きの女官の長官という意味で、いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理官の女性ということになります。
ちなみに、この皇嘉門院藤原聖子のことですが、「ふじわらのせいし」と音読みすることが通例となっています。
これは「漢字で今の時代に伝わっているこの名前が、生前になんと読まれていたのかわからないから、音読みする」のだと、学校で教えられます。
ですから「聖子」なら「せいし」、「定子」なら「ていし」と読むものとされています。
しかしこれは実に不思議な論説です。
なぜなら基本的にそのように言われるのは、中世の女性たちについてだけに限られるからです。
男性は、藤原忠通なら「ふじわらのただみち」、藤原道長なら「ふじわらのみちなが」であって、「ちゅうつう」とか「どうちょう」などという読み方はされません。
なるほど「聖子」なら、「せいこ」とも「きよこ」とも読めるわけで、実際に生前、どのように読まれていたのかは不明ですけれど、さりとて、いくらなんでも「せいし」や「ていし」では色気がなさすぎです。
似たようなもので、古事記などに登場する女性神たちについて、「比売」や「毘売」を「びめ」と読むということが、学会によって半ば強制されています。
ですからたとえば木之花咲耶比売なら「このはなさくやびめ」、須勢理毘売なら「すせりびめ」と読むように言われます。
しかし古事記に登場する女性たちのなかで、もっとも美しい女性のひとりとして登場する「このはなさくやひめ」が、「びめ」と濁音で読んだら、なんだか言葉の美しさが削がれます。
それに「比売」は、誰がどう読んでも「ひめ」であって「びめ」ではありません。
こういう細かなところにまで、戦後の左翼による日本貶め工作が入り込んでいるという現実を見るにつけ、とても残念な気持ちにさせられます。
さて、この歌をよく読むと、歌がたいへんに技巧的になっていることに気付かされます。
「かりね」が「刈り根」と「仮り寝」、
「ひとよ」が「一節」と「一夜」、
「みをつくし」が「澪標」と「身を尽くし」、
「こひ」が「恋ひ」と「乞ひ」
というように、ひとつの歌のなかに、四つも掛詞が入っているのです。
文意においても、「難波江の葦の刈り根の一節のように短い」という意味に「そんな短い仮り寝の一夜のために」が重ねて詠まれています。
また「みをつくし」の「澪標」というのは、海などの水路において、船に「これより先、浅瀬で危険」を知らせる海上標識のことで、そこから「限界ギリギリ、切羽詰まったような切迫感」を意味しながら、同時に「身を尽くす」、「なにもかも全てを捨てて危険を顧みずに全身全霊で相手に尽くす」といった意味が重ねられています。たいへんに激しい言葉です。
皇嘉門院別当は崇徳院の皇后の聖子(皇嘉門院)に仕えている女性と申し上げましたが、崇徳院というのは、第75代崇徳天皇のことです。
ところが崇徳天皇は、天皇を退位して上皇になっておいでであったときに、「保元の乱」によって讃岐に流刑にされています。
崇徳天皇は、わずか三歳で即位した天皇ですが、十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子を皇后に迎えました。
まさに政略結婚と言ってしまえばそれまでですが、お二方は子宝に恵まれなかったものの、とてもお仲がよろしいご夫妻であったと伝えられています。
ところが、藤原忠通にしてみれば、我が娘に天皇の子が生まれればこそ、藤原家が天皇の外戚となって、お家安泰となるわけです。
子が生まれないなら、これは将来がとても危ないことになる。
そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫り、天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまうのです。
ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしまう。
そこで困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇にしてしまうわけです。
このとき後白河天皇は、29歳。
当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
天皇が未成年や子供で、まだ幼いからこそ、摂政の必要が生まれます。
それが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原忠通にとって、最大の脅威は、すでに天皇を退位されて上皇の地位にあられる崇徳上皇と、弟君であられる後白河天皇が手を結ぶことです。
わが国では、天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇となると、上皇は摂政関白太政大臣よりも政治的に上位のご存在となります。
ということは、後白河天皇は政治権力を持ちませんが、天皇を退位されて上皇となっておいでの崇徳上皇は政治権力を持つわけです。
もし、このお二方が、兄弟でしっかりと手を結ばれたら、藤原忠通の地位は風前の灯となります。
一方、この時代、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないように、毎日を歌会などをしてすごしておいででした。
藤原忠通は、崇徳上皇にとっては妻の父、つまり義理の父にあたります。
妻を深く愛された崇徳上皇には、妻の父の不安は痛いほどわかります。
だからこそ、崇徳上皇は、あえて政治に口出しをしないようにされていたのです。
このことは、徳川幕府成立時に、意図して阿呆を演じた加賀の前田家とよく似ているといえるかもしれません。
ところが、三歳児を天皇の地位に据えるなど、それまで権力をほしいままにしてきた忠通からすると、いくら崇徳上皇が馬鹿になったふりをされていても、もともと崇徳上皇が聡明な方であることを、誰よりも知っているわけです。
そして、自分が悪いことをする人というのは、自分もされるのではないかと不安でたまらなくなるものです。
疑心暗鬼に陥った藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得ると、平清盛らに命じて、崇徳上皇に謀叛の兆しありとあらぬ疑いをかけて、武力で崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にしてしまいます。
これが保元の乱です。
わが国の歴史上、天皇もしくは上皇が、このように流刑に遭うという事件は、きわめてまれなできごとです。
こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流され、妻の聖子様は、皇嘉門院と名乗って都に残りました。
そして世は、保元の乱、平治の乱を経由して、平清盛の全盛の時代にはいります。
その清盛は、自分の悪評が立てられることをおそれ、都に赤禿(あかかむろ)と呼ばれる、いまでいったら中学生くらいの若者に、赤い衣装を着せて、平家の悪口や、政府に対して不満を漏らす者を監視しました。
赤禿たちは、そうした人を見つけると報告し、報告された者は、即刻逮捕され、地位を追われ、場合によっては殺害されました。
その一方で、戦が続いた都に限らず、日本中で武威のために人が人に殺されるという自体が頻発します。
わが国では、民は、天皇のおおみたからです。
人が戦いによって傷つけば、その傷ついた人には必ず家族身内がいるのです。
世の中には、そうして傷ついたり、身内を失ったりした民衆の涙が満ちるようになりました。
そうした時代背景下にあって、ある日、皇嘉門院付きの女官長である別当が、摂政右大臣の家での歌合に招かれます。
そして詠んだのが、この歌です。
歌は、一見すると「一夜限りの男性を恋い続けるのでしょうか」と、遊女の恋を詠んだ歌です。
ところが、掛詞が幾重にも重ねられています。
たいへん技巧的な歌になっています。
そしてまず気になるのは、初句の「難波江」です。
「難波」は「百人一首」では十九番の伊勢や二十番の元良親王の歌にも登場しています。
その歌が、
 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる
 みをつくしても逢はむとぞ思ふ
という歌です。
「思いどおりにはいかないけれど、今となっては同じこと。
 難波の航行の目印の澪標のように、
 限界ギリギリであっても身を尽くしても逢おうと思います」
という、これはものすごく情熱的な愛の歌です。
ところが実は、本歌取りされた元良親王のこの歌は、親王でありながら、政治的な繋がりから天皇になれなくなった元良親王が、宇多上皇を貶めるために、その愛妻があたかも親王と不倫の関係にあるようなことを吹聴した歌とされています。
つまり「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」と言ってはいるけれど、それ自体が虚飾なのです。
皇嘉門院の別当は、そんな虚飾の歌を、意図して本歌取りして「身を尽くしてや恋ひわたるべき」と詠んでいます。
そして歌い出しは「難波江」です。
実は元良親王の時代には、難波江は、Chinaとの交易のためにたいへんに栄えた港でした。
ところが時代が進むに連れて、難波の港はさびれていき、皇嘉門院別当の時代には、難波は女郎屋がはびこる、いまでいう風俗街になっていました。
その風俗街の女性の恋を、皇嘉門院別当は「難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ」と歌っているのですが、その歌の歌人名は、別当の個人名ではなく、なんとそこに「皇嘉門院別当」と書かれているわけです。
同じ斉藤さんでも、「斉藤さん」と呼びかける場合と、「斉藤社長」と呼びかける場合では、意味が違います。
まして、別当は、自分の主人である皇嘉門院様のお名前を出して、別当と書いているわけです。
歌も掛詞を多用した技巧的な歌なら、歌には皇嘉門院様のお名前まで付されているわけです。
そしてその皇嘉門院様は、保元の乱で追われた崇徳院の奥方です。
この時代の日本人は、聖徳太子の十七条憲法の精神をとても大切にしていました。
そして十七条憲法の第11条にある「明察功過」、つまり「察する」能力を高めるために、歌会を積極的に開催しています。
つまり、歌会の参加者全員が、この歌に隠された真意を読み解く力があったのです。
一見すると、遊女の恋を詠んだ歌です。
けれど、歌が出詠されると、参加の貴族たちは、その歌の真意を頭の中で読み解きます。
「かりね」も「ひとよ」も掛詞です。
「昔繁栄していたけれど今はすっかり様変わりしてしまった難波江の、群生している葦を刈ったあとに残っている根本の短い一節のような、そんな短い仮り寝の、たった一夜」となります。
つまりここでは、昔の繁栄と今の衰亡が描かれています。
そして、群生する葦と刈り取られた葦によって、何事かが失われた状態が描かれています。
さらに「短い仮眠、短い夜」によって「短い時間」が強調され、下の句は、それらを「身を尽くしてや」と受けています。
「身を尽くし」は、「危険があっても、命懸けで」という意味になります。
「恋ひわたる」は、「恋」が「戀」で千々に乱れる心を暗示し、さらに「乞ひ」との掛詞になっています。
「わたる」は長い間続けることを指し、「や~べき」は係り結びで「~するべきなのでしょうか」「~するのでしょうか」と自問しています。
つまり下の句は、「たとえ危険があろうとも身を尽くして(命懸けで)、恋い(乞い)続けるべきなのでしょうか」という意味です。
たいへん強い語調になっていて、自問というより、これはどうみても「分かってほしい、気づいてほしい」という強い願いが込められています。
上の句と下の句をつなげてみると、「昔繁栄していたものが今は刈り取られているのなら、たとえ身の危険があっても、それを取り戻すべきではないでしょうか」という歌意を読み取ることができます。
皇嘉門院別当は、「旅宿逢恋」という恋話にかこつけて(オブラートに包んで)、そのように詠んでいるのです。
「昔繁栄していたもの」というのは、「保元の乱」以前の五百年続いた平和と繁栄の社会です。
それが今は刈り取られてしまっています。
皇嘉門院別当が仕える皇嘉門院聖子は、先にも述べましたように、流刑にあった崇徳院の皇后です。
阿呆のふりをしてまで平和を望んだ崇徳院が、あろうことか流刑されています。
そんな状況に皇后、皇嘉門院は涙しています。
皇嘉門院に仕える女官として、皇嘉門院別当は歌合の場にいる群臣たちに、まさに血の涙を流す思いで、
「あなたたちは、それでいいのですか?」と呼びかけているのです。
昭和天皇が常に平和を望まれていた偉大な天皇であったことは、皆さんご存知のとおりと思います。
その昭和天皇にもしものことがあったなら、日本人ならおそらく身が震えるほどの怒りを感じることでしょう。
天皇は政治に関与しないというのが、私たちの国の基本的なカタチです。
ですから皇后陛下はおそらく何のメッセージも発せられないことでしょう。
けれどたまたま皇后陛下にお仕えする女官が歌合の席に呼ばれたのです。
それが皇嘉門院別当の置かれた立ち位置です。
そこには並み居る群臣たちがいます。
歌合のテーマは「旅宿逢恋」です。
順番が巡ってきたとき、皇嘉門院別当は、持参した歌を披露しました。
一見すると「遊女たちでさえ、一夜の恋が忘れられない」という意味の歌です。
ところが皇后陛下付きの女官が遊女の歌を詠むことも異例のことなら、たった一夜の恋であっても「身を尽くしてでも恋い続けるべきです」というのも異例の言葉です。
歌は「べき」で終わっているのです。
疑問の係助詞「や」を受けて推量の意味になりますが、もともと「べし」は意志・命令の助動詞です。
つまりこの歌は、「や」を「も」に変えるだけで、「身を尽くしても恋ひわたるべし(命懸けで恋い続けるべきである)」と意志・命令を伝えています。
さらに歌には掛詞が多用され、いくつもの意味を重ねるなどたいへんに技巧を凝らしています。
「寂れた難波江のたかが遊女の恋」を詠むのに、ここまで技巧を凝らすなど普通は有り得ません。
この歌はあまりにも異例づくめなのです。
和歌は「察する」文化です。
ですから当然、その場に居合わせた貴族たちは、
「どんな意味なんだろう」と、その掛けられた言葉のひとつひとつを追っていきます。
すると、そこに詠み込まれた歌の真意に驚愕するのです。
「遊女の短い一夜限りの逢瀬でも
 一生忘れられない恋だってあるといいます。
 私たちは一夜どころか、
 五百年続いた平和と繁栄を享受してきました。
 そのありがたさを、その御恩を、
 たった一夜の『保元の乱』を境に、
 あなた方はお忘れになってしまったのですか。
 父祖の築いた平和と繁栄のために、
 危険を顧みず身を尽くしてでも平和を守ることが、
 公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか・・・」
都中の政府の閣僚や高級官僚たちが大勢集まった歌合の席で、
一人の女性が真剣な面持ちで、
「一夜限りの恋が忘れられませんわ」と、一見すると官能的な恋歌を詠み上げると、その真意を察した並み居る群臣たちは、誰一人、言葉を発することもできずに、ただうつむくばかりだったのです。
歌合の席には、敵方の人たちもいたことでしょう。
いやむしろ、その場の全員が敵方に回っていたというのが実際の情況であったといえるかもしれません。
そんななかにあって、皇嘉門院別当はまさに檄文のごとき和歌を携えて、たった一人で戦いを挑んだのです。
その凄味、その気迫。
これが日本の「察する」という文化の神髄です。
平安貴族たちというのは、仕事をほっぽり出して毎日和歌に興じていたわけではありません。
聖徳太子の「十七条憲法」十一条にある「明察功過」を大事にし、わずかな兆候を事前に察して、問題が広がっ
たり大きくなる前に対処するのです。
良いことであれば、その徴候の段階で褒めたり顕彰したりし、悪いことは、その徴候の段階で「あらかじめ察し」て、事件になる前に対処をしてきました。
そのために必要な「察する」能力を極限まで高めるために、誰もが競い合うようにして和歌を学んでいたのです。
皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあったわけです。
しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院にも及ぶかもしれません。
ということは、別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
「この歌の出詠は、あくまで私の独断でしたことにいたします。
 皇嘉門院様には決して咎が及ばないようにいたします」とお話になられていたことでしょう。
そして別当からこの申し出を聞き、それを許可した皇嘉門院も、その時点で自分も「殺される」と覚悟を決められたことと拝します。
つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
そこまでの戦いを、この時代の女性たちはしていました。
いかがでしょう。
なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。
「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。
それが日本の文化です。
※この記事は、先日行われた「女性のための古典塾」の講義をもとに、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に掲載した皇嘉門院別当の記事を、あらためて編集したものです。

20160623 中山成彬2

20151208 倭塾・動画配信サービス2

人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
 http://goo.gl/WicWUi
「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。
 http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782
ねずさんのひとりごとメールマガジン。初月無料
 http://www.mag2.com/m/0001335031.html


【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
ねずブロメルマガ

コメントは受け付けていません。