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学童集団疎開
20160628 学童集団疎開

昭和19年6月30日、「学童疎開促進要項」が閣議決定され、学童の集団疎開が始まりました。
日本全国の都市部が空襲や艦砲射撃によって、焼け野原にされていく中にあって子供たちの未来を守ろうと、都市部の国民学校初等科の子供たちを、空襲のない田舎に集団で避難させたのです。
これが学童集団疎開です。
個人の疎開は、田舎の親戚などを頼ってのものであったのですが、学童集団疎開は、いまでいうなら林間学校のようなもので、子供たちは柳行李(やなぎこうり)に、衣類や日用品を、カバンに教科書や文具などを詰めて、多くの場合、田舎のお寺や学校などで寄宿生活を送りました。
私の叔父なども、この集団疎開組で、田舎のお寺で集団生活をしながら、毎日を過ごしました。
親元にいれば、空襲があるし、その都度、灯火管制が敷かれて、防空壕に避難しなければならないし、食べ物もこの頃は配給が乏しくなってきていて、お腹いっぱいご飯を食べれるということもなくなっていました。
ところが集団疎開した先では、お腹いっぱいご飯は食べれるし、空襲はないし、夜も友達と一緒ですから、夜中にこっそり級友たちとお墓で肝試しをやったり、地元の子供たちといろいろな遊びの対抗試合をやったりして、叔父いわく、
「いささか不謹慎だけど、あの頃が人生で一番楽しかったなあ」


とにかく田舎ですから、山あり、小川ありで、昆虫採集や、山での山菜採り、タケノコ取りなど、その都度級友たちと大騒ぎしながら、いっぱい遊んだのだそうです。
祖母(叔父からしたら母)は、心配して何度も疎開先まで足を運んできたそうですが、真っ黒に日焼けして、笑顔いっぱいの我が子の姿を見て、もちろん我が子が手元を離れることは、不安でならなかったけれど、国費で疎開させてくれたもらえたうえに、真っ黒に日焼けして元気いっぱいの我が子を見て、本当に、疎開させていただいて良かったと、引率の教師にも感謝の気持ちでいっぱいだったそうです。
なにより嬉しかったのは、地元の農家のみなさんが、集団疎開してきた子供たちが、親元を離れてかわいそうだからと、採れたての野菜などをいっぱい運んできてくれたことで、お腹いっぱいご飯が食べれたことでした。
もちろん、親が恋しいと凹む子供もいたのですが、そんな級友を、みんなで励まし、子供たちは子供たちのなかで、疎開先で元気いっぱい生活していたそうです。
戦争が終わって、疎開先から親元に帰ったら、とたんに食べ物が不足し、そば粉をまるめたコウセンとか、うどん粉をまるめたものが、たった一個、お湯の中に浮かんでいるスイトンくらいしか食べるものもなく、当時は、疎開先がまるで夢の国にいたようにさえ感じられたといいます。
当時のスイトンを、「町中では戦時中も戦争が終わったあとも、こんなものしか食べれなかったんだよ」といって、私からすると婆さんが、ときどき当時のままの食事をつくってくれました。
死んだ婆さんは、孫に辛かった生活のことを教えようとして作ってくれたのですが、子供心に私にとっては、何の味付けもされていない、お湯にうどん粉が沈んでいるだけのスイトンが、実はとてもおいしいものに感じられたことをいまも覚えています。
それはきっと、料理そのものの味ではなく、乏しい配給生活の中で、少しでも子供たちのお腹をふくらませようとした、婆ちゃんの愛情がいっぱいこもっていたからの味であったのだろうと思います。
飽食の時代といわれ、不景気ながらも「お腹を空かせる」という経験自体が、ほとんどなくなってしまったいまの時代ですが、マックのハンバーガーや、コンビニの弁当には、決して出すことのできない、愛の味というものは、人の味覚にものすごく影響を与えるものなのであろうと思います。
学童疎開について、昨今書かれたものをみると、辛かった、悲しかったといった、マイナーなイメージのことばかりが強調されて書かれているものが多いように思います。
けれど、日本の子供たちは、もっとずっとたくましい。
もちろん、集団疎開の疎開先でも、苦しいことや辛いこともいっぱいあったと思います。
けれど、だからとって、泣き言を言って甘ったれたりしなかったのも、日本の子供たちだったのです。
悪いけれど、日本男児は、そんな根性なしばかりじゃないです。
どんなに苦しくても、決してへこたれないのです。
ところが、いまどきの集団疎開について書かれたものを見ると、どれを見てもまるでコピーでもしたかのように、
「楽しかった。けれど悲しいこともあった」
という「Yes、But方式」を用いた否定的な記述になっています。
この「Yes、But方式」というのは、実はとても卑劣な文章方式で、書く側は賛成、不賛成両方の記述をすることで、双方にいい顔をするように見せかけておきながら、後出しの「しかしながら〜」のところで、読み手にごく限られた否定的な事実を提示し、前の段の「Yes」の記述を打ち消してしまうというものです。
たとえば例をあげると、
「江戸の享保年間、江戸市中に泥棒はいなかった。
 しかし20年後、ひとりの凶暴な盗っ人が現れた」
といった書き方をします。
凶暴な盗人は20年後にひとりです。
江戸時代の享保年間は20年間です。
そして江戸市中の人口は200万人です。
年間の盗難事件発生数でいったら、
1人÷(20年×200万人)です。
計算するまでもなく、どれだけ安全な行政が行われたかということなのですが、上の文章を読めば、20年間の治安の安定と、たったひとりの盗人の跋扈が、イーブンになっています。
あたりまえのことですが学童疎開は子供たちにとっては、楽しいことも悲しいことも、両方ともいっぱいあったのです。
親元に帰りたいと泣く子もいれば、山や川でおもいきり楽しんだ子もいたのです。
そしてなにより大切なことは、戦況が悪化し、都市部は、壊滅的と言って良いほどの焼け野原になったときに、当時の内閣は事前に子供たちを集団で田舎に避難させ、子供たちの命を守ったということです
それをしなければ、焼夷弾で焼かれて、その子供たちの10人に8人は、死んでいたかもしれないのです。
ときは戦時中の昭和19年です。
戦時下という情況のなかにあって、出来る限り子供たちの命を守ろうとした政府。
そのおかげで助かった命。
その助かった人たちが、実際には、ほとんどの人たちが、疎開先での生活を楽しい思い出にしているのに、これを記述するときは、反戦運動の一環か、はたまた共産主義の陰謀か、読み手に暗い時代を印象づけるような書き方しかされていない。
これは悪質なことだと私は思います。
戦時中の日本の子供たちは、そんなにヤワじゃないです。
悲しいことや辛いこともたくさんあったけれど、そんな中で、最大限にのびのびと毎日を楽しくすごしていたのです。
そして、そういう根性のある子供たちが、たくさん学童疎開によって生き残ったからこそ、日本は戦後に高度成長ができたのです。
そんな肚の座ったど根性のある、そして明るく励まし合える日本を、ふたたび取り戻していきたいものだと思います。
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