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20160619 伊丹小学校

天宇受売(あめのうずめ)といえば、天の岩戸を開くときに激しいダンスを踊られた神様であるとして有名です。
ところがこの天宇受売、天孫降臨のところにも登場します。
天孫降臨の際に、猨田毘古(サルタヒコ)が邇邇芸命(ににぎのみこと)の道案内をしてくれるのですが、その猨田毘古が、邇邇芸命が新たな治世を始めようとする矢先、月見貝に手を挟まれて海で溺れてしまわれるのです。
このことを知った天宇受売は、すぐに海の生き物たちに招集をかけると、「邇邇芸命に仕えるか?!」と問います。
そしてそのときに、黙っていたナマコに、
「この口が答えぬ口かっ!」と言って、刀でナマコの口を斬り割いたという描写が古事記にあります。
この逸話は、現代法に馴れた私たちには行き過ぎ感があるように思われるかもしれませんが、実は、みんなが豊かに安心して安全に暮らせる世の中を作るためには、とてもたいせつなことです。
まず猨田毘古に噛み付いた月見貝、つまりテロの実行犯は、テロの組織の中では、末端の構成員でしかありません。
音頭を取っている悪者は他にいるわけです。
けれど初動段階では、その悪者が誰かまではわかりません。
迅速な対策が採られなければ、テロはエスカレートします。
はじめは、たいして害にもならない軽微な事件であっても、オウムがはじめは役所に集団で怒鳴りこむ程度だったものが、次第に坂本弁護士一家殺害をしたり、果ては東京の上空からサリンをばら撒こうとしたりの例にあきらかなように、犯罪は必ずエスカレートするわけです。
これは困ったことです。
主犯がわからない。末端を処罰してもたいした罪にもならない。
処罰することが、かえって「甘い」という認識をテロ集団に与え、以後のテロをエスカレートさせる。
けれど主犯はわからない。
ではいったいどうしたら良いのでしょうが。
世論を味方につけるしかありません。
世間に警鐘を与え、施政者の目だけでなく、市民の目が、テロを見張ることができるようにしていく必要があります。
そのためには、施政者側の明確な意思を示す必要があります。
そこに「一罰百戒」の意義があります。


この段では、もしかするとナマコは、
この日たまたま風邪をひいて声が出なかっただけかもしれないし、ナマコはテロと無関係の冤罪(えんざい)であった可能性もあります。
しかし新たな統治の実現のためには、反乱の芽を、とにかく早期に取り除かなければならないのです。
このときに、下手な人道主義は、かえって混乱を助長させることになることは、日華事変の始まる前に、大陸でChineseたちがさかんに日本に悪さをしかけ、それが次々とエスカレートしていって、しまいには通州事件のような、悲惨が巻き起こされ、さらには第二次上海事変のように、日本の軍人さんが多数死亡するようなおおごとにまで発展してしまった歴史を見てもあきらかなことです。
初動段階で生半可な態度をとるのではなく、ごく初期の段階で、迅速に厳しく果敢に対応する。
このことは学校や会社、組織などにおいても同じです。
小さな反乱の芽が起きたとき、これを、「まあまあ」で済ませていると、最後にはとんでもなくおおきな事件や事故や反乱にまで、悪が育ってしまうのです。
おおごとになってから対処するのでは、あまりに遅いのです。
昨今では、学級崩壊という言葉をよく聞きます。
授業中に生徒たちが教師の話を聞かない。
横を向いておしゃべりに興じている。
授業そのものが成立しない。
そんな悩みをよく聞きます。
これらは、ふた昔前には、日本の学校では考えられないことでした。
それどころか、授業中は背筋を伸ばし、肩さえも揺らさない。
それが日本の江戸時代の寺子屋や藩校、あるいは私塾の時代から続く日本の学校の伝統でした。
なぜそれができたかには理由があります。
入学早々から、授業態度について、先生から厳しく指導されたのです。
ちゃんとできなければ、バケツを持って廊下に立たされました。
学校に来るなと言われました。
罰が与えられました。
幼いうちから、そうして授業態度を叩きこまれました。
だから、ちゃんと背筋を伸ばして、静かに先生の話を聞く態度が、常識だったし、あたりまえだったし、ごく普通のことだったのです。
実際私が小学校に入学したての頃、いまでもはっきり覚えていますが、担任の先生は教鞭を持っていて、授業中に隣の生徒に話しかけたり、教科書を読む時の姿勢が正しくなかったら、「鞭で叩きます」と言われたことを今も覚えています。
私は、小学校1年生の2学期から転校して別な小学校に入ったのです。
そのとき、新しい担任の山崎先生という女性の先生から、みんなの前でそのように言われたことを、いまもはっきり覚えています。
こわいので、授業中、じっとおとなしくしていました。
そしてそれは習慣になりました。
ただ「言われた」だけです。
けれど、その「ただ言われただけ」で、ひとクラス42人が、6年制になるまで、みんな授業態度が良かったのです。
山崎先生は、名教師と言われた女性の先生でしたが、いま思い返しても、すごい先生だと思います。
もっとも私の場合、休み時間の態度があまりに悪くて、親を呼び出されたりしていましたが(笑)
これが一罰百戒です。
火事は、ボヤのうちに消すのです。
大火災になってからでは、被害者が出てしまうのです。
最近ではどうでしょう。
一罰百戒どころか、新入社員も、新入生も、まずは甘やかすことからはじまります。
周りも、下手に恨みなど買いたくないから、誰も注意しない。
いつのまにか上司と部下はタメ口で、世間知らずの身勝手な部下に舐められた上司が、しきりに部下にごまをする。
そうやって育って肩書を持ったアホが、こんどは新入社員から舐められる。
国家の統治も同じです。
いい若いものが、国会前で仕事もせずに、ありもしない「戦争反対!」、「ヘイト反対!」とシュプレヒコールをあげる。
挙げ句の果てが、刺青を入れた極道者と国会議員が、ヘイト反対と座り込みをする。
オウムの事件もそうですが、教団があれだけの大きなものとなり、あと一歩で東京中にサリンがばらまかれるという状況にまで至って、ようやく逮捕です。
あの事件では、上九一色村のサティアンに警官隊が突入する歳、麻原がサリンを持ってヘリで逃げることを想定して、自衛隊まで出動する騒ぎになっていました。
もし、ヘリに乗って飛び立っていれば、戦後初の、国内でミサイル使用の事件にまでなっていたかもしれない。
わが国は神話の時代から、早期対処、一罰百戒を地でやってきた国です。
そうすることで、みんなが安心して安全に豊かに暮らせるようにしてきたのです。
もちろん行き過ぎは禁物です。
しかし、足らないのもいけないのです。
そのバランスをどこにとるか。
打つ手は、早ければ早いほど良いのです。
そのことを古事記は、女性であるアメノウズメに、ナマコの(あるのかないのかわからない口を裂いた・・・ということは、実際には裂いたふりをしただけ・・・なぜならナマコの口は今も裂けていると古事記は書いているけれど、ナマコの口は裂けてないから)という逸話で、私たちにその意味するところを考えるようにと教えてくれています。
そういう、大昔から日本社会の根底にある大切なものを、私たちはいまいちど見なおすべきときにきているのではないかと思います。
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