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20160615 イスラエル

6月4日から10日まで、イスラエルに行ってきました。
要件は、
1 イスラエル・ネタニア市の日本の斑目先生の寄贈プラネタリウム竣工式出席
2 イスラエル・ネタニア市のスギハラ・ストリートの命名式出席とご挨拶
3 エルサレムの仏教施設「平和の梵鐘」見学
4 エルサレム・聖墳墓教会での動画収録
5 イスラエル・マサダ砦での動画収録
6 イスラエル・トランペルトールゆかりの地での動画収録
の5つです。
ものすごくたくさんの学びを得た旅となりました。
やはり、その場に立つと、感じるものがものすごく大きいということを、あらためて実感しました。
そこで、感じたことを、すこしまとめてみたいと思います。


はじめに、この機会を与えて下さった斑目先生、ツアーの企画と案内を精力的にしてくださった武藤さん、そしてご一緒させていただきました皆様に心から感謝申し上げます。
イスラエル・ネタニア市のプラネタリウム竣工式は、斑目先生の寄贈によって出来上がったプラネタリウム&瞑想センターの竣工式典への出席です。
イスラエルと日本は、ちょうど地球の反対側同士です。
宇宙全体から見たら、地球自体がちっぽけなものでしかないし、地上における国家や民族の対立など、それよりもまだちいさなものでしかありません。
私たち人類が、対立と闘争という壁を超えて、右翼でも左翼でもない、互いに「ナカヨク」していくことができる未来を目指して、先生がイスラエルのネタニア市に、センターを寄贈したものです。
たいへん立派な式典です。
 *
さらにこのプラネタリウムを寄贈された斑目先生は、エルサレム市内に仏教施設の「平和の梵鐘」を建立されています。

20160615 平和の梵鐘_th

 *
翌日は、イスラエル・ネタニア市にできた、杉原千畝を顕彰する「スギハラ・ストリート」の命名式に出席し、ご挨拶などをさせていただきました。
挨拶文は、ヘブライ語にも翻訳され、同時通訳されました。
【挨拶文・Zenkou Onagi】
杉原ストリートの命名、おめでとうございます。このことはわたくし共、日本人にとりましても誇りであり、また杉原千畝の行為に心から敬意を表したいと思います。
杉原千畝が、多くのユダヤ人の方々を救ったというお話は、みなさまご存知の通りです。私からは、なぜ、日本人がそのような振る舞いをしたのかについて、歴史家という立場からすこしお話してみたいと思います。
さて日本とユダヤの人たちとの関係は紀元前2676年前からあったようです。その起源前の時代の神武天皇は「八紘一宇」、すなわち世界の民は宇宙の中で生かされている、という意味の言葉を唱えられました。誰もが兄弟です。日本人には元々人種差別の意識はないのです。
もう一つ例をあげます。
1919年の国際連盟発足当時のことです。日本は世界の人種差別撤廃を訴え賛成多数を得ました。ところが、当時の米国ウィルソン大統領は「全会一致でなければならない」とこれを却下しています。
このように日本人は太古の昔から人種、国籍のよる差別意識は持ち合わせていなかったのです。これが杉原千畝の「命のビザ」にもつながっているのだと思います。
私は今日の機会に、杉原千畝以外にも、その日本古来からの伝統を発揮した日本人をご紹介し、杉原千畝共々記憶にとどめていただきたいと願います。
それは、杉原千畝のビザ発行の2年前、1938年の出来事です。
ナチスから国外追放を受けた約2万人のユダヤ人が、満州国への入国を希望して、シベリヤ鉄道の終点のオトポール駅に押し寄せました。
このとき時の満州国政府は、他の諸国同様にユダヤの人々の入国を拒否しました。このことを知ったハルピン特務機関長の樋口季一郎少将は、難民通過ビザの発行を決めさせ、さらに満洲鉄道の松岡洋右総裁(後の外務大臣)に連絡をとって、臨時の救援列車の運行を依頼しました。
「臨時の」救出列車は、ハルピンとオトポール駅を13回往復しまた。そして駅に集まっていたユダヤ人全員を救出しました。このことは、ユダヤのゴールデンブックに記録されていることです。
この樋口季一郎の行為は、ナチスからの抗議の対象となっています。抗議を受けた日本陸軍関東軍参謀長の東条英機(後、首相です)は、「日本国及び満州国はナチ・ドイツの属国ではない、八紘一字の国である」という樋口季一郎少将の意見を理解納得し、救出活動を不問に付しています。
日本の欧州の駐日大使たちもまた、杉原千畝には及びませんが、何百通かのビザを発行し、また日米開戦当時の首相近衛文麿の弟、近衛秀麿は、ユダヤの友人を個人的に助けています。このように個人的にユダヤ人を助けた日本人は他にも数多くいると伝えられています。
日本とイスラエルは神代の時代からの関係を尊重し、これからも絆を一層強くして、繁栄と平和の道を歩んでいくことを望みます。
最後に、樋口季一郎中将がハルピンにいたカウフマン博士が開いた第一回極東ユダヤ人大会で行った演説の終わりのところだけご紹介して、わたくしの挨拶といたしたいと思います。
*****************
 20世紀の今日、
 世界のどこかでユダヤ人を
 追放するさまを見ることは
 人道主義の名において、
 また人類の一人として
 私はこころから悲しむものである。
 ある一国は、
 好ましからざる分子として、
 同胞であるべき人々を追放するという。
 追放せんとするならば、
 その行先を明示し
 あらかじめそれを準備すべきてある。
 当然の処置を講ぜずしての追放は、
 刃を加えざる虐殺に等しい。
 私は個人として心から、
 かかる行為をにくむ。
 ユダヤ人追放の前に彼らに土地、
 すなわち祖国を与えよ!
*****************
ご清聴ありがとうございました。

この命名式の模様は、日本でもニュースで流れました。
杉原千畝 命のビザの功績でイスラエル ネタニヤ市にスギハラ道り

イスラエルのニュースでは、私も13秒あたりにちょっとだけ映っています(笑)
Israel Honors 'Japanese Schindler' By Naming a Street After Him

 *
──────────
1 イスラエル到着
──────────
今回、モスクワ経由での旅となりました。
片道、20時間の長い旅です。
テルアビブ空港に到着すると、当然お決まりの入国審査です。
ズラリと並んだ旅行客。
そのひとりひとりの審査が、たいへん長い時間です。
英語が苦手で、質問されてもろくに答えられないから困ったなと思っていたのですが、なんのことはない。日本人とわかると、ほとんどフリーパスで通してもらうことができました。
海外渡航をするといつも感じることですが、本当に日本の信用ってスゴイと思います。
たいせつなことは、その信用は、自分が作ったのではなく、明治以降の先輩たちの努力の結果だということです。
「海外渡航は、ひとりひとりが外交官なのだかから、しっかりするように」
昔はよくそんなことが言われたものです。
昔の人がそういう自覚で海外旅行をされたからこそ、いまの日本の信用がある。
あらためて、そのことに感謝の気持ちが湧いてきました。
ついでに言うと、モスクワではありませんが、私の親父などは英語、北京語、広東語、韓国語が達者で、現地の人と間違われるくらいだったのですが、海外旅行ではいつも日本語で押し通していました。
昭和40年代くらいまでは、それでも通用したのです。
なぜなら、戦中までは、日本語が(特に東南アジアから太平洋諸国では)共通語だったからです。
もちろん、いまでは通用しません。
それは日本の国力が落ちているから・・・と思っていたら、意外なことに、いまでもその日本をお手本として学んでいる国があり、そのことが新しい国家建設にものすごく大きな役割を果たしている事実に、今回の旅行で気付かせていただきました。
このことは、後で詳述します。
 *
長い飛行機の旅が終わり、イスラエルのテルアビブ空港に到着すると、そこからはみんなでバスに乗って、近くのネタニア市に移動しました。
この街は、つい最近まで、日本の地図にも乗っていなかった街です。
ところが市長の猛烈な大活躍と、日本の斑目力廣先生の尽力で、いまではしっかりと地図に載っています。
地中海に面した、とっても美しい街です。
ネタニア市
20160615 ネタニア市

ネタニア市の人口は、わずか30万人です。
この人口なら、日本なら中堅都市です。
東京なら中野区や北区、都市なら埼玉県越谷市、滋賀県大津市、福島県福島市、青森市、久留米市、四日市市など、人口25万から35万の都市は約50市区町村ありますが、それらと同規模です。
そしてそのいずれもが、いまの日本では、狭い道路に駐停車禁止、全国いたるところに大型SCができて、地元の商業は壊滅しているという悲惨な状況になっているのですが、このネタニア市は、日本で言ったらまるで横浜の海浜地区のようです。
ものすごく発展している。
道も広く、街も美しく、空気もおいしくて、ビジネスに居住にレジャーに、とても住みやすそうな実感があります。
もとは、ただの砂漠の寒村だったそうです。
ところがそこにいまのミリアム・フェアバーグ市長が就任するや、街が勢いづいて発展し、イスラエルきっての大都市にまで発展しました。
しかもこの街、とても安心なのです。
イスラエルは昭和23年の建国ですが、ご多分に漏れず、民族問題を抱えています。
私たちが訪問している間にも、テルアビブで銃の乱射事件があり、4人が死亡しています。
ところがネタニアには、なんと民族問題さえも「ない」のです。
その全てが、このミリアム市長の市政によるものなのですが、そのミリアム市長の市政の根幹となっているのが、「日本にならえ」なのだそうです。
そしてミリアム市長は、なんとその実績を買われて、時期大統領候補と目されています。
イスラエルの人々の希望の星なのです。
イスラエルは、他の西洋諸国同様、市長の人格や能力、方向性次第で、市ごとに見せる表情がまるで異なります。
同じ国でありながら、民族紛争や殺し合いが絶えない市もあれば、年中無休で交通渋滞が緩和されない市もあります。
エルサレムなど、その点ひどいもので、街を走るクルマに、まともな状態のクルマがありません。
どのクルマも、全部バンパーが割れ、ボディにはこすり傷、クルマをキレイに乗る事自体をもはや市民があきらめてしまっているかのようで、どのクルマもホコリまみれで薄汚れています。
ところがネタニア市では、どのクルマも、毎日洗車しているのかと思うほど、ピカピカで、クルマにこすり傷もない。
街の壁などへの落書きもない。
怪しげな路上のポスターもない。
街中いたるところの落書きを消したら、街の治安が良くなったという話は、日本でもよく聞く話です。
逆に街が汚いと、喧嘩や暴力が頻発する。
ネタニアは、街がものすごくキレイで、美しいのです。
一方日本人には、市長の行政によって、市が変わるといった実感を持つ都市がほとんどありません。
ところが考えてみますと、昨今の日本では、市の行政を語る前に必要な、肝心の「郷土愛」が育てられていないのです。
実は、GHQの4大教育指令の中に、歴史教育、神話教育の禁止に加えて、地理教育の禁止があります。
「えっ?、そんなことはない。自分は地理の授業があったよ」
と思われる方も多いかと思います。
ところがぜんぜん違うのです。
戦前の地理教育というのは、その地名にまつわる歴史が教えられました。
たとえば博多なら、なぜそこが博多と呼ばれるようになったのか。
広島なら、どうしてそこが広い島という名前になったのか。
その地名の由来が教えられたのです。
人間は、知れば知るほど、それを好きになるといいます。
郷土のことを知れば知るほど、好きになる。
そして好きになれるだけの、誇るべき歴史が、全国津々浦々、どこにでもたくさん、それは必ずあります。
そういうことを教わったのです。
ところが戦後復活した地理教育は、ただ、宮城県の県庁所在地はどこですか、というだけの単なる丸暗記科目になっています。
いまだに4大教育指令が生きているのです。
 *
ネタニアのミリアム市長の市の行政に対する考え方は、実にユニークです。
言葉も違い、宗教も文化も違う市民たち。
まったく新らしく何ら関連もない人達が集まってできたネタニア市民のために、宗教的ドグマや民族的対立ではなく、その地で、誰もが、豊かに安心して安全に暮らせる街つくりを目指したのです。
それは、一部のお金持ちや利権者のためのウシハク行政ではなく、市民こそが「たから」と捉えるものです。
互いにちょっとずつガマンする。
そうして互いが助け合う。
そうすることで、みんなが豊かに安心して安全に暮らせる市をつくろうというものです。
このことをミリアム市長は、なんとかつての日本から学んでおいでになります。
日本は、歴史上、異なる宗教、異なる民族が統合され、平和と安定と発展を築いてきた国ですが、その日本の統治の根幹にあったのが、「民こそが宝である」という考え方です。
誰もが豊かに安心して安全に暮らせるように。
その考え方を、市長はそのまま行政に活かしたのだそうです。
イスラエル ネタニア市ミリアム・フェアバーグ市長
「真の救済を成し遂げた日本人」

ひとつ例をあげます。
道路です。
ネタニアの道路は、要所要所に広い路側帯があります。
そこは市民のための無料駐車スペースです。
駐車違反なんて必要ない。
ちゃんと、広々とした駐車スペースがそこここにあるのです。
最初から、車は単に道路を走るだけでなく、駐車するものだという前提で道路が作られているのです。
日本ではどうでしょう。
高度成長時代に、マイカーブームが起き、いまでは車は(特に地方都市では)一家に一台から、ひとり一台の状況になっています。
ところがその高度成長期に、日本では主として左翼が、道路を作るといえば反対。
クルマ社会になるこにも反対。
路上に駐停車スペースをつくるなど、ただでさえ道路つくりにそもそも反対なのです。もってのほかとされました。
そして左翼の圧力に屈した行政は、全国の道路のほとんどを駐停車禁止にしています。
道路つくりの計画だけで反対反対。
地価も釣り上がり、気がつけば市道の多くは、ようやく片側一車線、悪くすると1.5車線で車が離合するにも不便を感じるような道路ばかりになってしまいました。
なるほど路上駐車はあぶないです。
だからこそ、安全に停めれる駐車帯をたくさんつくる。
ネタニアの行政は、実に合理的な発想だと思います。
いまの日本では、そのようなことをしたら、100円パーキングの会社から猛烈なクレームがつき、反対運動が展開されることでしょう。
しかし、それがそもそも「公益よりも、自分の利益を優先する」という欲得まみれの社会に、いまの日本が陥っている証拠なのだろうと思います。
ではネタニア市の商業はどうでしょう。
日本では、中山成彬先生らが猛反対をした大店法の規制が取り払われ、全国いたるところに大型ショッピングセンターができました。
その結果、地域社会の結合が失われ、商店街はシャッター通りとなりました。
ところがネタニアでは、その大型店の建設を、市の条例が禁止しています。
また商店は、1店舗1品目に限り、一定範囲内には競合する同業店舗の出店はできないこととされています。
つまり、ヤングカジュアルのお店なら、ヤングカジュアルしか扱ってはならないし、フォーマルの婦人服店なら、フォーマルのみで、Tシャツなんて売ってはならない。
食堂も、洋食屋さんなら洋食のみ、お菓子屋さんなら、お菓子だけしか売ってはならない。
しかも一定距離以内に、同種の小売店舗や飲食店舗を設けてはならない。
こうすることで、誰もが、小資本で商店を開業でき、誰でもお店を持って起業することで、誰もが安心して食べていくことができるようにしています。
そして大型SCは、多くの場合、他の市町村に本社があり、大型SCの売上から生まれる利益からの税収は、その市に落ちずに、その会社の本店所在地の税収となります。
ところが、零細店舗が立ち並ぶネタニアでは、商店の売り上げから生まれる利益からの税収は、そのまま市の税収となるのです。
そして市の財政が豊かになることで、新しい道路や、公園や緑地の整備などの行政サービスが充実しています。
もちろん大型SCがないことで、消費者は多品種の商品選択の機会を奪われるかもしれません。
けれどそれ以上に、誰もが安心して生活できるのです。
その土地だけの美味しさを満喫することができる。
市民生活が活性化する。
市の財政が潤い、道路他、公共インフラが整備され、市民が清潔で美しい街に住むことができる。
さて、市民にとって、どちらが幸せな姿といえるのでしょうか。
いまの日本では、大店法廃止後、トップが国会議員になるような、大企業のトップだけが豊かな生活ができ、全国の特に地方における市民経済は、ずっと沈んだままです。
こんな日本に誰がした、と言いたくなります。
 *
もうひとつ、イスラエルに着いて驚いたのがヘブライ文字です。
イスラエルは、ヘブライ語の国です。
空港に着くと、もうそこらじゅうヘブライ語です。
ところがどうみても、私たち日本人には、この文字がカタカナに見えてしまいます。
イスラエルの地ビールのラベル
20160615 地ビール

いま私たちが使っているカタカナも、元は神代文字から来ているという説があります。
私はその説を支持していますが、日ユ同祖論も、なるほどと思えてしまいます。
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2 聖地エルサレム
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エルサレム遠望
20160615 エルサレム遠望

エルサレムは古い街です。
その歴史は4千年近く遡ることができます。
上の写真は、ヘブライ大学のある高台から、エルサレムの旧城塞都市を遠望したものです。
金色のドームが写っていますが、これは回教徒の寺院です。
イスラエルはユダヤ教の国ですけれど、こうして回教徒も、またカトリック教徒も住んでいるわけです。
そしてエルサレムは、カトリック、東方正教、アルメニア使徒教、コプト正教、シリア正教など、様々な宗教の聖地でもあります。
そのエルサレムで、有名な聖墳墓教会に行きました。
そこはキリストの墓、並びにキリストが処刑されたゴルゴダの丘が教会になっているところです。
そしてこの教会の中に、キリストが処刑されたときに、その遺体が置かれた石なども展示されています。
この教会をめぐり、過去、何度もこの地で戦争がありました。
十字軍の遠征も、この地を取り戻すために行われたものです。
いったい、この聖地のために、どれだけの人の命が流されたのでしょう。
それは、何万?、何十万?
神様は、そのような紛争を望まれたのでしょうか。
国家にも宗教にも、そこには頂点に立つ人がいます。
そしてその人を頂点とする組織があります。
その組織が互いの権益で衝突したとき、そこに紛争が起き、殺し合いになります。
自分が正しい、相手が間違っている。
それは組織の下部に行けば行くほど、過激な対立となります。
そして殺し合いが起こる。
「詔を受けては必ず慎め(承詔必謹)」は、十七条憲法の第3条ですが、だからこそ日本では、黄門様が印籠を出すと、みんな「ハハァ」とかしこまったのです。
ちなみに来年は、大政奉還150週年です。
幕末に、なぜ将軍が大政奉還し、大名たちが廃藩置県に応じたのでしょうか。
それは、彼らが大陸や西欧的な「領地領民を私有する領主」ではなく、どこまでも「シラス国における天子様から、天子様のたいせつな領土領民を預かっている領主」であったからです。
だから全国のお殿様は、将軍を筆頭に、各地の王ではなく、大名だったのです。
大名とは、大名主の略です。
要するに、地域の名主様であって、私的領主である「王」ではないのです。
ところが世界では、王も、宗教上の権益も、領土領民や信者を私的に私有する王です。
世俗の頂点が王、宗教上の頂点が法王です。
そして王の存立や権益が対立すると、そこに暴力が起き、テロが起き、戦いが始まります。
戦乱というものが、民衆にとっての最大不幸とするならば、民衆を幸せにするための宗教が、最大の不幸を招く原因となってしまうのです。
これは洋の東西を問わず、大陸におけるどうしようもない歴史的矛盾です。
その矛盾を、2千年経っても、いまだ解決できずにいるのが世界です。
今回の旅で、十字軍の上陸地点となる港にも行かせていただきました。
イスラエルはとても暑いところです。
日中の気温は40度近くにもあがります。
日差しもとても強いのです。
その炎天下を、十字軍の兵士たちは、全身を鉄板で覆った鎧を着て行軍し、戦ったのです。
鎧(よろい)の中はどれだけ暑かったでしょう。
そして彼らは、その鉄板の中で死んでいったのです。
教会の中にいたとき、頭のなかで「ウシハク」という言葉がぐるんぐるんしました。
人々を幸せに導くはずの宗教が、結果としてウシハク組織となり、幸せにしなければならない人々の命を奪う。
「逆じゃないか!」そう思いました。
このことは聖墳墓教会で収録したビデオで現場からお話させていただきましたので、動画ができましたら、またあらためてご報告させていただきます。
 *
教会のあるエルサレムは、5千年ほど前には「カナン」と呼ばれていました。
そして紀元前千年頃にヘブライ王国が成立しています。
有名なダビデ王やソロモン王が登場するのも、このヘブライ王国です。
同行した中にちょっと特殊な能力を持った方がいて、旅行中にちょっと施術していただきました。
驚いたことに、横になって目を閉じていると、網膜の裏側に、まるでフルハイビジョンのようなくっきりとした映像が浮かび上がりました。
そこははじめは何もない砂漠の窪地のオアシスでした。
そこに小さな石造りの神殿が立ちました。
そして徐々に周囲に民家が立ち並びはじめました。
街ができました。
街は神殿を中心に、見事に発展しました。
街では女達が舞い、明るい日差しの下で人々の笑顔が満ち溢れました。
大勢の軍装した人々の背中が見えました。
街は崩れ去りました。
そこは瓦礫の山となり、「悲しみ」だけが残りました。
施術のとき、ヒーラーさんに、
「いまのは何だったのでしょう?」と聞きました。
「きっと『土地が持っている記憶』じゃないですか?」と笑って答えてくれました。
いまもまだ、ちょっと複雑な気持ちです。
日本に帰ってから、なんとはなしにエルサレムを検索していたら、下の復元図を見つけました。
それは、網膜の内側で、あのときに見た建物そのものでした。
驚きました。
1世紀頃のエルサレム
20160615 1世紀のエルサレム

 *
エルサレムでは、古代の考古学の調査研究が盛んです。
様々な古代の都市の復元図も見せていただきました。
不思議なことに、それらは全部、古代のエルサレムが砂漠の中の石だけの街として描かれていました。
けれど私が見たのは、周囲は砂漠ですが、そこは窪地であり、オアシスがあり、周囲は森であり、その窪地の中の小高い丘に、城や神殿がありました。
古都エルサレムの様子については、ヘブライの様々な学者さんたちが研究を重ねていますが、不思議に思うのは、そのいずれもが、人々が「食べなければ生きていけない」という点を無視しているように私には感じられてなりません。
ここに人が住んだということは、ここが谷あいにあり、水が確保でき、周囲に緑があり、広大な畑を営むことができたからに違いないと思うのです。
いまの中東は、砂漠地帯ですが、それは大昔から砂漠だったということではなく、もともとは緑の豊かな大地です。
緑と水があったから、大勢の人々がそこで生活できたのです。
ところが3500年ほど前に現れたヒッタイトによって鉄の軍団が作られました。
ヒッタイトの鉄器軍団は世界最強の軍事国家となりました。
ヒッタイトは、その軍事力を維持するために、鉄の精製が不可欠でした。
そして鉄を得るために大量の木を燃やしました。
森の木を全部燃やしてしまうと、その場所を移動しました。
森を失った山は枯れ果て、肥えた土砂が押し流され、そこは砂漠化していきました。
木は、燃やすのは一瞬です。
けれど、生育するには、最短でも70年かかります。
しかも、森の木を全部伐り倒せば、その森はハゲ山となり、雨が肥えた土砂を流し去り、そこは砂漠化します。
そして一度砂漠化まで土地が荒れてしまうと、その砂漠に緑が戻るまでに5千年の歳月が必要なのだそうです。
中東地域が砂漠化していったとき、やっとの思いでカナンに逃れてきた人々は、そこでやっと低地のオアシスとめぐりあいます。
そしてそのオアシスの中心に、絶対の壊れないようにと石つくりの神殿をつくり、周囲に城塞をめぐらせて、その城の中に住みました。
こうしてソロモン王の時代、カナンは女達が楽しく舞い踊る美しい街となりました。
けれど、その街が豊かになれば、周辺の砂漠に暮らすウシハク王国にとっての垂涎の的となります。
楽しさの中で防衛をおろそかにしたカナンは、周辺のウシハク軍事大国によって蹂躙され、瓦礫の山となりました。
こうしてその地に人々の深い悲しみが刻まれた。
私が見た光景は、そんな何千年かの歴史の記憶だったのかもしれません。
 *
イエス・キリストが殺されたゴルゴダの丘は、いまは聖墳墓教会の建物の中にあります。
じっと見ていると、そこには、深い悲しみと、それでも忘れない希望が置かれているような気がしました。
同じことは、聖墳墓教会の1Fにあるキリストの遺体が置かれた石でも同じ感じを持ちました。
先ほどスピルチュアルな経験を書いたばかりですが、私には霊能などありませんし、そういう世界にあまり興味も関心もありません。
ただそのように感じたから、そのように書かせていただきました。
キリストの遺体が置かれた石にて
20160615 キリストの遺体が置かれた石にて_th

日本は、天孫降臨に際して、天照大御神から邇邇芸命が、
「おまえは、高天原と同じように中つ国を統治しなさい」との天命を受けて建国された国です。
その高天原には、ウシハク統治者も、奴隷にされる人々もいません。
そこにおわすのは、最高権威を持つ天照大御神と、八百万の神々です。
そして、住民(という書き方には問題があるかもしれませんが)、高天原は、すべてが神々です。
全部が神ですから、そこに奴隷はいません。
それと同じ統治を、中つ国で行いなさいというのが、天照大御神の御心です。
エルサレムにも「民衆こそたから」という文化があったのなら、そこに凄惨な殺し合いが起きることもなく、もっと違った中東史が描かれたのではないでしょうか。
──────────
3 マサダ砦(とりで)
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マサダ砦は、イスラエルとヨルダンの国境近く、有名な死海のほとりにあります。
あたり一面、茫漠とした荒れ地です。
そしてマサダ砦は、そんな荒れ地から約500メートルの高台にあります。
マサダ砦周辺
(画面右の山頂がマサダ砦)
20160615 マサダ1
マサダ砦のある山頂(上空より)
20160615 マサダ2

イスラエル軍に新兵が入隊すると、ここで式典が行われます。
新兵は、マサダ砦の上で、右手に自動小銃を握り、左手に旧約聖書を持って、
「マサダは二度と陥ちない」と誓うのです。
マサダというのは、いまから2000年前に、イスラエルがローマ帝国によって滅ぼされた際に、最後まで抵抗戦をした砦のあったところです。
すこし歴史を追ってみます。
古代ユダヤ王国が誕生したのは、いまから3000年前、紀元前11世紀頃のことです。
古来、敵を倒すには、敵を分断し、バラバラにして各個撃破するというのが常套手段です。
古代ユダヤ王国は、他国につけこまれて紀元前922年に、内乱が起こり、南北に分裂してしまいます。
北が、イスラエル王国。南がユダ王国です。
分断されたイスラエルは、紀元前721年には北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、紀元前612年には、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされてしまいます。
イスラエルの民(ユダヤ人)は、自分たちの民族の国家を失ってしまったのです。
国家を失うということはどういうことか。
それは、民族としてのアイデンティティも風俗習慣も、先祖を祀る歴史も、個人の私有財産も、すべて奪われ、奴隷として収奪されるということです。
イスラエルの民は、紀元前143年、独立運動を行います。
これがマカバイ戦争です。
マカバイ戦争を勝ち抜いたユダヤ民族は、いったんイスラエルの地の独立を勝ち取ります。
ところが、せっかく作った国家も、内紛につけこまれ、政治的にローマ帝国の属州にされてしまう。
これを不服としたユダヤ人が、再度立ち上がったのが、100年後の西暦66年です。
これが第一次ユダヤ戦争です。
彼らはなんとか独立を勝ち取るのですが、これを不快に思ったローマ帝国は、軍を派遣して、西暦70年、首都エルサレムを陥落させます。
最後まで抵抗したのが、エルアザル・ベン・ヤイル率いるユダヤ人967人です。
彼らは、「マサダ砦」に立てこもり、最後まで抵抗戦を行いました。
包囲する敵(ローマ軍)は、1万5千人の大軍です。
その大軍を前に、マサダの967人は、なんと3年近くもこの砦を守り通します。
しかし衆寡敵せず。
西暦73年には、ついに砦は攻め落とされてしまうのです。
砦の陥落直前、ユダヤ人たちは、投降してローマの奴隷となるよりは死をと、2人の女性と5人の子供を残して、全員が集団自決しています。
その自決に際して、エルアザル・ベン・ヤイールは、次の通り演説したとヨセフスの「ユダヤ戦記」に記載されています。
「高邁なる友よ、
 我々はずっと以前から、
 人類の唯一なる真にして義である主なる神以外には、
 ローマ人であれ、何人であれ、
 奴隷にならないと決心してきた。
 そしてこの決意を実行に移して眞なるものとすべき時が
 今や到来した。・・・
 我々が自由な状態で勇敢に死ねることは、
 神が我々に与えたもうた恵であると、
 私は思わずにはおれない。・・・
 我々にはまだ、
 最愛なる同志とともに
 栄光ある死を選ぶこともできる。・・・
 我々の妻たちが辱めを受ける前に、
 子供たちが奴隷を経験する前に、
 死なせてあげようではないか。
 自由を保持してゆこうではないか。・・・
 糧食のほかは何も残さずにおこう。
 何故なら、
 我々が死んだときの証として、
 我々が制圧されたのは
 必需品が不足していたからではなく、
 最初からの決意に従って
 我々は奴隷よりも死を選んだことを
 示してくれるだろうから」
そして男たちは自らの手で最愛の者達(妻と子)を殺しました。
彼ら(男たち)の中から籤で十人を選び、残りの者達は首を差し出しました。
選ばれた十人は恐れることなく使命を果たした後、再び籤(クジ)で一人を選び、殺されていきました。
最後に残った一人は、宮殿に火を付け、自らの剣を体に刺し貫いて死にました。
マサダ砦は、この戦いのあと、ローマ軍によって徹底して破壊されています。
そしてイスラエルの民は、私有財産を剥奪され、女を辱められ、ローマの奴隷となりました。
ローマは、イスラエルの歴史を徹底して消し去ります。
60年後の西暦132年、ユダヤ人バル・コクバは、ローマに対してふたたび独立戦争を挑みます。
これが第二次ユダヤ戦争と呼ばれるものです。
バル・コクバは、一時イスラエルを奪還し、政権を奪うのですが、翌135年、ローマ帝国に鎮圧され、滅ぼされます。
そしてイスラエルの民は、各地に離散し、昭和23年にいまのイスラエルが建国されるまで、長い流浪生活を余儀なくされたのです。
ちなみにこの離散生活者のことを「ディアスポラ(διασπορά、英:Diaspora, diaspora)」といいます。
ディアスポラとは、植物の種などの「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉です。
この言葉は、「難民(refugee)」とは異なります。
難民は、元の居住地に帰還する可能性を含んでいますが、ディアスポラには帰るべき国はないのです。
不思議な事なのですが、この「ディアスポラ」には邦訳語がありません。
これもまた現代日本の教育の欠陥だと思うのですが、要するに、イスラエルの民は、第二次ユダヤ戦争のあと、約二千年にわたって、ディアスポラとなったのです。
そしてマサダの戦いは、ユダヤの神話となり、マサダ砦のあった場所さえも、ずっとわからなくなっていました。
マサダ砦の跡地が発見されたのは、なんと1838年になってからのことです。
ドイツ人研究者によって発見され、伝説の戦いが実際に起こったものであることが立証されました。
マサダの山頂の発掘から、この籤で選ばれた十人が、それぞれ自らの名を署名した陶片が見つかったのです。
そして大切なことは、2千年という長い時間を経由してユダヤ人たちが蜂起して、イスラエルの建国にまで至った原動力のひとつには、このエルアザル・ベン・ヤイールの言った、
「糧食のほかは何も残さずにおこう」という言葉が、熱い情熱となっていたことは間違いありません。
たったひとつの言葉の種が、2千年という長い歳月を経て、二葉となり、育ち、開花していったのです。
実はここに、神話の持つ凄味があります。
神話は民族のアイデンティティとなるのです。
そして神話が間違っていれば、その民族が歪むことを、私たちは強姦が民族の出発点という身近な民族に見ることができます。
逆に、私たち日本人が、古事記に書かれた真実をあらためて世に問い、見つめなおして行くことは、日本人が本来の日本人に帰る指針となるに違いないと思います。
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4 トランペルトール
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イスラエルの建国の英雄に、「片腕の英雄、ヨセフ・トランペルトール」がいます。
そのトランペルトールの碑と、トランペルトールが最後に銃で撃たれて亡くなった地に行ってきました。
トランペルトールの碑
20160615 トランペルトール11
トランペルトールが最後に銃で撃たれて亡くなった地
20160615 トランペルトール2

トランペルトールは、若いころ、帝政ロシアに住んでいました。
そして徴兵され、日露戦争でロシア兵として、旅順要塞に立て篭もりました。
戦いの途中、彼は日本側の砲撃によって、左腕を根元から失いました。
それでも残った一本の右手で、拳銃を撃ち、最後まで戦いました。
当時のロシア軍では、ユダヤ人が昇格することはありえなかったのですが、トランペルトールはその勇敢さゆえに伍長に抜擢されました。
しかし旅順要塞は陥落し、彼は、他のロシア人捕虜約一万人と共に、大阪府堺市浜寺のロシア兵の捕虜収容所に連れてこられました。
当時の日本は、まだ貧しかったけれど、国際法に準拠して、捕虜たちには、最大限の待遇を与えました。
新鮮な肉や野菜やパンをふんだんに支給し、将校には当時のお金で月額で三円、兵には五〇銭の給料も支給しています。
日本の兵隊さんと較べて、決して多い金額ではありませんが、三食昼寝完全看護付きです。
このとき日本は、捕虜収容を、彼らの宗教によって建物を分けました。
宗教上の対立を持つ彼らの国情を、ちゃんとわきまえての措置です。
このために、約500人いたユダヤ人たちは、同じ建物で暮らすことができました。
 
トランペルドールは当時、日本人の所長にかけあって、収容所の中に学校をつくる許可を得ています。
ユダヤの捕虜たちに、ロシア語の読み書きや算術、地理、歴史などを教えるためです。
また、トランペルドールがユダヤ人のために収容所内で、過越の祭をしたいと言うと、所長は横浜のユダヤ人社会と連絡をとってくれて、ユダヤ人捕虜のために種なしパンの粉と、パンを焼くためのカマドを取り寄せてくれたりもしています。
そんなことからトランペルドールは、日本はなんと文明国なのだろう、と考えるようになったそうです。
敵の捕虜たちに対してさえ、これほどに親切に接してくれるからです。
ところがあたりをみれば、周辺の民家には夜、灯りがともらず真っ暗です。
つまり電気さえ通っていない。
トランペルドールは、
「電気もない貧しい小国が、
 なぜ大国ロシアを相手に
 勝つことができたのだろうか」
と考えこんだそうです。
そして一生懸命日本語を習得して、なぜそんな貧しい日本が、大国ロシアに打ち勝つことができたのか、その秘密を探ろうとしました。
答えは、意外と身近なところで見つかりました。
警備をしているひとりの若い日本兵が言ったのです。
それは、
「国の為に死ぬほど名誉なことはない」
という言葉でした。
この言葉は、トランベルドールに、衝撃を与えました。
ユダヤ人であるトランペルドールには、死に値する祖国が存在していなかったからです。
ユダヤ人である彼にとって、ユダヤ人の国家の建設は、ユダヤ二千年の夢です。
しかしユダヤ人の国家を樹立するとはいっても、その国家は、どのような国家でなければならないか。
夢を現実にするためには、その具体的な青写真ができなければ、同志を巻き込み、新国家樹立をすることなどできません。
そうした問題意識を抱いていたトランペルドールはやがて、
「新しく生まれるユダヤ国家は、日本のような国家でなければならない」と心に刻むようになりました。
明治38(1905)年、日露講和条約によってロシアに帰国したトランペルドールは、やがてパレスチナに渡りました。
当時パレスチナはまだ、オスマン・トルコ帝国の領土です。
彼は、そのパレスチナで、イスラエル国の建国運動の中心的なリーダーになりました。
このとき彼が、具体的に築くべき理想国家図にしたのが、日本でした。
彼は、イスラエルに、日本を手本としたユダヤ人国家を建設しようとしたのです。
これは彼自身の言葉です。
大正9(1920)年、トランペルドールは、パレストナのガリラヤ地方でアラブ人の武装集団の銃撃を受け、息を引き取りました。
最期となったとき、トランペルドールがヘブル語で言った言葉が、
「アイン・ダバル!
 トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ!」です。
意訳すると、
「俺に構うな!
 国のために死ぬほどの名誉はない!」です。
それは大阪の浜寺で、彼が日本人の一兵士から教えられた言葉です。
今日、イスラエルのトランペルドールの記念館にある像には、この「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉が刻印されています。
また、展示されている彼の遺品には、
「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と書かれています。
以前、西村眞悟先生がこのトランペルドールのことを紹介され、次のようにお話されていました。
******
しかし、この精神は、
単に明治の日本や、イスラエルだけのものではなく
普遍的なものである。
およそ危機に直面した国民国家の存亡の分岐点となるのは、
この精神の有無である。
ではこの「国のために死ぬのが名誉である」というトランペルドールや
彼にこの言葉を伝えた日本軍兵士の精神の前提には、
如何なる思いがあるのかというと、既に明らかであろう。
それは「祖国への愛」なのだ。
誰が、祖国への愛なくして、
国のために死ぬのが名誉と思うであろうか。
現在の一見平和に見えて危機感を喪失した日本に生きる我々は、
日露戦争を戦い抜いた日本軍兵士から
イスラエル建国の英雄に語られ、
今我が国にイスラエルから戻ってきた
「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉の意味を
もう一度よく噛みしめる必要がある。
そうすれば、「祖国への愛」を教育で教えることを
重視するか否かは、
実は国家存亡に関わる課題であることが分かるのである。
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 *
他にも佐藤正久参議院議員が、自衛隊として初代PKOで派遣されたゴラン高原や、死海などにも行ってきました。
また市街地の模様も面白いものでした。
それらにつきましては、また稿をあらためてご報告させていただきます。
20151208 倭塾・動画配信サービス2

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