
驚いたことに最近、元寇について、
「朝鮮半島で武臣政権による三別抄(さんべつしょう)の乱が
フビライ・ハーンの
日本遠征を遅らせた」
というデタラメが流布しています。
「元寇」は、ご存知の通り1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の二度にわたっての蒙古襲来事件です。
当時世界最強と言われたその蒙古の大軍団に、鎌倉武士たちが果敢に立ち向かい、これを打ち払った事件です。
ちなみに歴史用語としては「蒙古襲来」が本来の言葉で、「元寇」は明治以降になって使われだした言葉です。
理由は2つあります。
明治以降、ChinaやKorea半島が「自分たちは倭冦によって被害を受けていた」と言い出したことです。
これに対してて「その前に君たちが日本を襲ったではないか。それこそ元寇だ」と言い返したことがはじまりと言われているのが、そのひとつ。
もうひとつは、蒙古(もうこ)という言葉は、昔は「ムグリ、コクリ」といって、元寇の際にやってきたこの二つの民族が、日本国内で長く恐怖の対象となっていたことです。
文永の役も弘安の役も壱岐対馬、博多で行われた戦いですが、なんと東北地方にまで、「なんだかわからないけれど、とにかくおそろしい恐怖の対象」のことを「ムグリ、コクリ」と言いました。
もちろん「ムグリ」とは蒙古のことで、「コクリ」は高句麗のことを指します。

ところが明治以降、日本はその「コクリ」を日本の領土の一部に併合したわけで、そうなると「コクリ」も日本人となります。
同じ日本人なのに、恐怖の対象としておくわけにはいかないということで、「ムグリ、コクリ」と言葉が繋がる用語は避け、「蒙古襲来」という語を、「元寇」に変えたというのが、ふたつ目の説です。
私は、このふたつ目の説のほうを支持しています。
元寇については↓コチラ。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1570.html
さて「元寇」は、元を建国したフビライの指示によって日本が侵攻された事件です。
当時の朝鮮半島は「高麗」で、あたりまえのことですが当時の世界帝国であるモンゴル(なんとアジアから東ヨーロッパまでを版図におさめていた)は、日本にやってくる前に、高麗へ侵攻しています。
「このとき高麗には勇敢な武臣たちによる政権があり、その正規軍である三別抄(さんべつしょう)がモンゴルと勇敢に戦った結果、日本への蒙古襲来が遅れ、その間に日本は戦いのための準備をすすめることができたので、日本は元寇を跳ね返すことができたのだ」というのが、最近の一部の歴史学者(たぶん在日系)の言い分なのだそうです。
聞いて呆れるとはこのことです。
そもそも高麗(936−1392年)は、北の遊牧民たちと濊族によって生まれた国で、もともと朝鮮半島にいた種族とは異なる人々です。
つまり、朝鮮半島に住む人々からみれば、異民族王朝です。
そしてその高麗では、国王があまりに無責任だということで、武臣たちがその国王を殺して体を3つに断ち切って、別な人物を国王の地位に就け、自分たちが政権をとるようになりました。
それが、いわゆる「武臣政権」です。
「武臣」と聞くと、私たち日本人は、日本の武士たちのようなおカタイくて誇りと矜持をもった、しっかりとした人たちを連想しますが、ChinaやKoreaの歴史というのは、このように「良い名前」が付いているものは、たいてい実態はその逆です。
ですから案の定で、この「武臣政権」なるものも、武臣というのがおこがましいほど、無責任でいい加減な連中でした。
モンゴルにチンギス・ハーンが登場し、その勢力が強大になると見るや否や、そくさくとモンゴルの属国(朝貢国)となっている(1218年)のですが、その6年後に、モンゴルの朝鮮への使者を高麗領内で暗殺してしまいます。
それで怒ったモンゴルは、高麗との国交を断絶しています。(1224年)
ここらへんのモンゴル外交のメリハリの付け方は、見習うべき点が多々あろうかと思います。
モンゴルは世界帝国を築き上げましたが、不正不義不実は絶対に許さない。
そういう凛としたものを持っていたからこそ、彼らは世界を制することができたわけです。
そのモンゴルは、1231年には、高麗に降伏を勧告する使者を出しています。
これはモンゴルのいつもの手段で、まずあらかじめ、降伏せよと言ってくる。
それで降伏しないなら、いよいよモンゴルが攻めてくるわけです。
日本に蒙古襲来がある43年前の出来事です。
この「いよいよモンゴルが攻めてくるぞ」となったとき、高麗の武臣たちがどうしたかというと、なんと、「モンゴルがやってきたら、高麗国民は海か山に逃げなさい」というお布令を朝鮮全土に出して、国王以下の重臣たち全員を連れて、自分たちがまっさきに江華島に逃げ出してしまうわけです。
江華島というのは、ソウル近くにある島で、朝鮮本土との間には急な潮の流れがあります。
モンゴルは、当時の世界最強軍ですが、彼らは海を渡れない。
そこで、高麗の武臣政権は、国王を連れて江華島に逃げたわけです。
しかし、国民に対する責任という面ではどうでしょうか。
なるほどカタチばかりのお布令は出していますが、その内容も「逃げなさい」というだけで、具体的なものなど何一つありません。それで国民に対する責任を果たしたことになるのでしょうか。
ウシハク国は、政治権力者だけがいい思いができれば良いので、民衆はただの私物であり収奪の対象でしかありません。ですからどうでもいいのです。
日本の武士は、シラス国の武士です。ですから彼らは民衆を守るために命がけで働きました。
けれど朝鮮半島では、武臣といったところで、単に「能書きばかりを垂れている文臣」に対して、「能書きを垂れるのヘタクソな武臣」というだけのことであって、そこに「民衆のために働く」という意識はまったくありません。ただ権力を欲しいままにしただけです。
日本の武士は領地を守るために「一所懸命(ひとつの領地を守るために命がけで懸命になる)」といいますが、その領地には、そこで農業を営んだりして働く領民たちがいるのです。
ですから領主である武士が「一所懸命」になるのは、その土地という場所に懸命になるというだけでなく、その土地に住む民衆(領民)たちのために、懸命になるということを意味します。
ところが朝鮮半島における「武臣政権」というのは、言葉だけ見ると、あたかも武人たちによる勇気あふれる堂々たる政権のようにみえますけれど、中身は全然違います。
能書きばかりで何もしない儒教的文人に代わって、武器にものを言わせて王朝内の権力を仕切っただけであって、そこにあるのは、ただ文臣と武臣と、「どちらが上か」という意識だけです。
そこに「民衆のため」とか、「民衆を守る」といった意識は皆無です。
このことは、昨今の韓流時代劇を見ても明らかで、朝鮮半島における「武士(ムサ)」たちが、民衆のために戦い、働く姿というのは、ついぞ出てきません。
そもそもそういう意識も歴史もないからです。
ですからいよいよモンゴルが高麗に攻めてくるとなったとき、その武臣たちは国王を連れて(連れて行かないと自分たちの権威の正当性を保てない)海を渡った江華島に逃げてしまったわけです。
そこなら潮の流れの速い海にさえぎられ、馬でやってくるモンゴルに攻められる心配がないからです。
で、どうなったかというと、そのような卑怯な振る舞いに怒ったモンゴルは、高麗国内に6回にわたって侵攻し、国内をくまなく蹂躙しました。(下図)

ここで登場するのが「三別抄(さんべつしょう)」です。
「三別抄は臨時編成の精鋭部隊であり、
モンゴルに最後まで抵抗した」
そのため元の日本侵攻が遅れた」
というわけです。
とんでもない説です。
そもそもこの「三別抄」なるものが何なのかということですが、これは、左夜別抄、右夜別抄、神義別抄と武装集団が3つあったから「三別」です。
では「抄」とは何かとというと、これは「書き写す」という意味の漢字でもありますけれど、もともとの意味は「盗む、没収する、ひったくる」という意味です。
つまり「抄」とは、はやくいえば「強盗団、野盗団」のことです。
最近のお馬鹿な学者さんの説によると、この「三別抄」は、武臣政権である催氏の公設常備軍だったというのですが、それがウソであるこは、この「三別抄」という名前ですでに明らかです。
そして、なぜこうした強盗団、野盗団が跋扈したかは、歴史の流れをみれば明確です。
モンゴルが攻めてくるぞ!となったとき、高麗国王も、その政権中枢である武臣たちが、自分たちの国や国民を捨ててさっさと江華島に逃げてしまったのです。
朝鮮半島内から、統治機能が消えたわけです。
そこで国内に強盗団、野盗団が跋扈した。
なかでも左夜、右夜、神義と呼ばれる強盗団が勢力が大きく、この三つを総称して「三別抄」と呼んだ、というのが歴史の真実です。
この結果、実におかしなことが起こっています。
実は、意外に思うかもしれませんが、モンゴル族というのはあまり人を殺しません。
もちろん戦いとなれば話は別ですが、彼ら遊牧民は、土地の所有がない代わりに、家畜や人などの生き物がそのまま財産です。
ですから人を殺すということは、財産が減ることを意味します。
ですから無抵抗の民衆は、実はあまり殺さないのです。
一方、朝鮮半島内には、まさに「抄」と呼ばれる強盗団が跋扈しているわけです。
その後の歴史を見てもわかる通り、朝鮮半島の暴徒というのは、小学校まで襲って女児たちを強姦し殺してしまうような鬼畜です。
そして、その「抄」を取り締まるべき国は、江華島に逃げてしまっていて、何もしてくれないのです。
結果、何が起こったかというと、モンゴル軍が「三別抄」と戦い、結果として民衆を保護しました。
朝鮮半島の人々は、「三別抄」に苦しめられ、奪われ、蹂躙され、殺されるだけです。
ですからモンゴル軍が引き揚げるとき、なんと朝鮮半島の民衆は、おどろくべきことに朝鮮半島を捨ててモンゴルに付いて行ってしまったのです。
その数、なんと60万人です。60万人です。とほうもない数です。
当時の高麗の人口は600万人くらいだったと言われています。
ということは、国民の10人に1人が引き上げて行くモンゴル軍に付いて行ってしまったのです。
この高麗人の移動について、かつて日本軍人をソ連がシベリアに連行したようなものを連想してしまう方が多いようです。
けれど60万人ということは、強制連行というよりも、むしろ高麗人たちが、高麗を見限ったと見たほうが正しいと思います。
モンゴル軍は、そうしてついてきた朝鮮人(高麗人。その多くは南朝鮮からの人たち)に、満州南部の広大な土地を与え、そこで農業を営ませました。
彼らはこうして、モンゴル人となったわけです。
自分たちの国の国王や政権が、民のことをまったく考えず、自分たちの贅沢のために民衆から収奪するだけ、それでいて肝心のときには逃げてしまう。
民衆は、自分たちの政府によって蹂躙され、何もかも奪われたところに、さらに悪党たちがやってきて、何も残っていないところから、さらに奪って持って行ってしまうのです。
そんなところにいても、食べて行けないし、生きてもいけない。
だから、朝鮮の民衆は、むしろモンゴルに付いて新天地を求めたのです。
60万の民衆の移動というのは、強制というだけでなく、民衆の側にも意図がなければ、不可能なことです。
要するに、「三別抄と呼ばれる臨時編成の精鋭部隊がモンゴルに最後まで抵抗した」などという解説は、まったくのデタラメなのです。
国王以下高麗の政権がそくさくと逃げてしまったために、「三別抄」と呼ばれる強盗団が朝鮮半島内に跋扈し、高麗に攻め込んだはずのモンゴル軍が、むしろ朝鮮半島の民衆を逆に保護する側となって「三別抄」と戦い、結果、朝鮮人たち自身が朝鮮に愛想をつかしてモンゴルについていって、満州方面に移住してしまったというのが、歴史の真実です。
さて、江華島に逃げていた高麗王や武臣たちです。
彼らは1259年になってついに元に降伏して、その属国となりました。
そしてこのとき、高麗王や武臣たちが元に対して言ったのが、
「高麗は見ての通り何もない国です。
ところが海の向こうには、
日本という
たいへん豊かな国があります。
どうぞそちらを攻めて下さい」です。
まったくとんでもない連中です。
一方、最近のあやしげな学者たちがいう「三別抄という元に抵抗した高麗の正規軍」が、その後どうなったかというと、1273年(文永の役の前年です)に、「元と高麗の連合軍」1万2000によって、全員殺害ないし逮捕されています。要するに、治安を乱すとんでもない強盗団にすぎなかったからです。
そもそも「三別抄」が高麗の正規軍というのなら、その「三別抄」を討伐した高麗軍の正規軍は、いったいどういう人たちなのでしょうか。
そしていよいよ1274年、日本への第一回蒙古襲来(文永の役)が行われました。
この連中は、壱岐対馬の住民たちを全員皆殺しにしました。
このとき攻めて来た連中は、「モンゴルと高麗の連合軍」とされていますが、なるほどそれは事実なのですが、半分正解、半分不正解です。
というのは、このときのモンゴル軍というのは、実は、もともと朝鮮半島にいて、満州方面に連れて行かれた朝鮮族を主力とする部隊です。
つまり、服装や装備こそモンゴル風ですが、中身は朝鮮族だったわけです。
彼らは、「自分たちの方が、先にモンゴルの一部となり、それだけモンゴルに近いのだから、あとからモンゴルの家来になった高麗人よりも、自分たちの方が偉い」と、高麗の兵たちを奴隷のように扱いました。
大きなバックがついたと思えば、とたんに居丈高になる。
いつの時代も変わら民族性です。
ちなみに、大陸や朝鮮半島の歴史というのは、日本とはまったく異なります。
血筋や血統に関係なく、何処の馬の骨かわからなくても、漢字を使えば漢人です。
同様にモンゴル風の服を着て、モンゴル風の食生活(肉食)をすれば、モンゴル人です。
日本に来て日本語を話せば、それは日本人だという馬鹿な連中がいますが、その発想は、実は、血筋という概念のない大陸や朝鮮族の発想です。
もともとの日本人とは、ものごとの捉え方がまるで異なるのです。
日本は縄文、弥生の昔から、歴史が連続している国です。
ということは、血筋も連続しています。
ですから戸籍や血筋を重んじます。
ところが大陸や朝鮮半島では、とにかく強い者に従っていれば生き延びれます。
ですから血筋や血統などに一切関わりなく、そのときの権力者に従って、ご都合主義的に何々人になることが、生きる知恵です。
それが彼らの歴史であり、伝統であり、文化です。
ちなみに高麗が元の属国となったとき、高麗人、つまり朝鮮族は、モンゴル風の肉食文化を受け入れ、このときにいまの朝鮮料理の焼き肉料理の原型が生まれました。
そして当時は、使う言葉もモンゴル風、名前もモンゴル風に改名しています。
まさに創氏改名を、自分たちから率先して行っています。
文字もモンゴル文字を使うようになっています。
ところがその元が滅びて、Chinaに明朝ができると、今度は名前をChinese風に変え、漢字を使うようになりました。
そして日本が強くなると、日本の庇護下にはいることを積極的に望むようになり、日本語を使い、日本人の名前を名乗るようになりました。
その日本が、半島から引き揚げると、とたんに日本の悪口をいい、日本が教えたハングル文字と朝鮮語を使うようになりました。
彼らには、歴史伝統文化に、連続性もなければ持続性もないのです。
あるのは、いまだけです。
いま、他人より少しでも上位に立つことさえ出来れば、そのためには「何でもあり」というのが、彼らにとっての古来変わらぬ生きる知恵であるということです。
ですから、日本人が彼らとつき合うということは、歴史ある、連続性、持続性のある日本文化そのものが穢されるもとになるのです。
私は日本民族としての血統が大事だから、他国の人を排除しろという議論には賛成できません。
ただ、日本に住むなら、日本の歴史文化伝統を、きちんと受け入れ、尊重していただきたいと思うのです。
日本の歴史遺産を焼いたり壊したり、靖国神社の神池で小便をして、それを自慢気にネットで公開したり、あるいは爆弾を仕掛けたり、そのような行為は、これはその国家に対するテロです。
そしてテロは、いかなる正当性を主張しようとも、世界は一切これを容認しない。
そのあたりのメリハリを、私たち日本人は曖昧にすることなく、きちんとしていくべきであると思います。
外国人だからと差別する意識は、日本人にはまったくありません。
ただし、テロリストは、区別する必要があります。
そうでなければ、日本に住む日本人が、安全に安心して暮らすことができないからです。
※この記事は、2014年6月の記事のリニューアルです。

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