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もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)の歌です。百人一首では66番歌です。
歌を詠んだ行尊というのは、後に園城寺(おんじょうじ)で大僧正を勤めた人です。
園城寺は修験道のお寺です。
滝に打たれたり、お堂に篭ったり、山登りしたり、とにかく霊力を得るためにありとあらゆる荒行が行われます。厳しいお寺なのです。
その園城寺に、行尊は12歳で出家して寺入りして、そのまま厳しい修行に明け暮れました。
つまり行尊は青春の全てを、園城寺での修行に費やしたのです。
つまり、若い行尊にとって、園城寺は青春の全てだったし、行尊の全てであったわけです。
ところが行尊26歳のとき、その園城寺を全焼させられてしまいます。
何もかも全部焼かれました。
原因は放火です。
犯人は比叡山延暦寺の僧兵でした。
どうしてそのようなことになったのかというと、実は延暦寺も園城寺も、ともに天台宗です。
ところが延暦寺がインドからChinaを経由して渡ってきた、いわば正当派を主張する仏教であるのに対し、園城寺は、この天台の教えに我が国古来の神道の教えを融合させようとしたお寺です。
ところがこのことが延暦寺からすれば、おもしろくないのです。
園城寺は邪道だというのです。
それが言論だけのことならば良いのですが、当時の延暦寺はたくさんの荒ぶる僧兵を抱えています。
その僧兵たちが調子に乗って園城寺の焼き討ちをしてしまったわけです。
寺が焼けるということは、寺に備蓄してあった食料も焼けてしまうことを意味します。
行尊たちは、ただ焼け出されただけではなくて、その日から、着替えもなく、飯も食えない状態になります。
こうしたときに、どこかの国や民族のマインドならば、「ウリたちは被害者だ〜、侵略されたアル〜」と大騒ぎするのかもしれません。あるいはテレビに出て号泣するのかもしれません。
けれどここは日本です。
焼け出された園城寺の僧たちは、全員で黙って、近隣に托鉢(たくはつ)に出ました。
托鉢というのは、各家を周って寄付を募る活動です。
そして行尊は、托鉢のために吉野から熊野にかけての山脈を歩いているときに、山中で一本の山桜を見つけます。
その山桜は、風になぎ倒されて、折れてしまった桜の木でした。
季節は春です。
その折れて倒れた桜の木が、倒れながら、満開の桜の花を咲かせていたのです。
おそらく、前年の台風で木が倒れたのでしょう。
それから半年以上経過しているわけです。
にもかかわらず、その山桜は、倒れながらも立派に花を咲かせている。
『金葉集』(521)の詞書に、「大峰にて思ひがけず桜の花を見てよめる」とあります。
(山桜が)風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを(詞書)
折りふせて 後さへ匂ふ 山桜
あはれ知れらん 人に見せばや
もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
深い山中で花を咲かせても、人の目にとまるわけでもないし、誰一人「きれいだね」と褒めてくれるわけでもありません。
風雨に晒され幹が折れてもなお花を咲かせている、そんな生きようとする健気な姿も、誰も見てくれる人などいません。
けれどそれでも、その山桜は精一杯、満開の桜を咲かせているのです。
自分たちも、誰も見ていないところで厳しい修行に明け暮れてきたのです。
誰が褒めてくれるわけでもない。
厳しい修行を、むしろあたりまえのこととして、必死になって頑張ってきた。
その拠点となる寺を、理不尽な暴力によって失ってしまった。
けれど、だからといって、暴力に暴力で対抗したところで、そこに残るのは、恨みの連鎖でしかない。
いま、自分たちに必要なことは、何もかも失ってしまったあとで、もういちど、寺を再建すること。
愚痴や泣き言を言って喜捨を募るわけでもない。
いつもの通りの托鉢をするだけです。
誰が同情してくれるわけでもない。
それでも頑張る。
それでも、人々の良心を信じて托鉢を続ける。
そうすることで寺を復興させる。
だって、あの山桜だって、あのように立派に咲いているではないか。
山桜にできて、自分たちにできないなどということもあるまい。
たった一本の山桜の姿に、心を動かされた行尊は、仲間たちとともに托鉢を続け、立派に園城寺を再建します。
そして厳しい修行を再開し、行尊は優れた法力を身につけ、白河院や待賢門院の病気平癒、物怪調伏などに次々と功績を挙げ、修験者としての名を高めていきました。
そして園城寺の権僧正にまで上りました。
ところが行尊67歳のとき、園城寺は再び延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちにあってしまいます。
寺は再び全焼しました。
このときもまた、行尊らは、高齢となった体を、一介の托鉢僧にして、全国を歩き、喜捨を受け、再び寺を再建しました。
数々の功績を残した行尊は、僧侶の世界のトップである大僧正の位を授かるにまで至りました。
そして81歳でお亡くなりになりました。
その亡くなるとき、行尊はご本尊の阿弥陀如来に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら、目を開け、座したままの姿であの世に召されて行ったといいます。
それは、まさに鬼神のごとき大僧正の気魄というものでした。

園城寺、そして行尊の偉いところは、延暦寺の僧兵たちに焼き討ちに遭ったからといって、報復や復讐を考え行動するのではなく、むしろ自分たちがよりいっそう立派な修験僧になることによって、世間に「まこと」を示そうとしたところにあります。
そしてそのことは、誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、山桜のようにただ一途に自分の「まこと」を貫いて精進していこうとする、冒頭の歌の中に、その決意がしっかりと込められているのです。
ところが最近の百人一首の解説本、どの本を見ても、
「この歌は山中で孤独に耐える山桜に共感した歌」としか書いてありません。
本によって表現こそさまざまですが、いずれもこの歌は「孤独や寂寥感」を詠んだ歌だとしか解説していない。
それはとても残念なことです。
人は、生きていれば、耐え難い理不尽に遭うことが、必ずあります。
何もかも失って、生きていても仕方がないとまで思いつめてしまうようなことだってあります。
けれど、そんなときこそ、
たとえそんな辛さを知る人が自分一人しかいなかったとしても、
たとえ、心が折れてしまったとしても、
1本の山桜だって、花よりほかに知る人もいない。
幹だって折れてしまったけれど、それでも山桜は、なお咲いているのです。
行尊の歌は、そんな、人生の辛いときにこそ、心に沁みる歌なのではないかと思います。
というよりも・・・・
もっと簡単に言ったらこの歌は、
「俺たちはな、
幹が折れたって
立派に咲くんだ。
山桜なんかに
負けてられっかよ!」
と言っているのです。
いま日本は、お隣の国からさんざん叩かれています。
あることないことどころか、ないことないことを言われて中傷され、非難されています。
それに乗る政治家や官僚やメディアもいます。
けれど、だからといって彼らの行う言葉の暴力に、同じく言葉の暴力をもって立ち上がるというのは、違うと思います。
もちろん政治の世界では、情報戦争への対抗措置は必要です。
けれど私達ひとりひとりの個人のレベルでの日本人は、私達日本人自身が、世界中の誰から見ても、そんな中傷を跳ね返すだけの立派な人間になっていくことこそ大事なことだと思います。
それが「雄々しく」ということではないかと思います。
日本人全部なんて、そりゃあ無理だ、と思う方もおいでになるかもしれません。
けれど、戦中の軍人さんたちは、まさにそれをやってきました。
戦後の復興期にもまた、ありえないことをやってきました。
戦争が終わったとき、日本は世界の最貧国状態だったのです。
国土は占領され、東京裁判まで開かれ、WGIPによって洗脳工作まで受け、もう二度と日本は立ち上がることができないところまで追い詰められました。
けれど日本は、みるみるうちに復興しました。
気がつけば世界の経済大国です。
日本人が大東亜共栄圏にしてきたことが間違いではなかったことを、わたしたちの先輩たちは、世界中からありとあらゆる非難を浴びている中で、堂々と焼け野原と成った国土の復興というカタチで、それを見事に証明しています。
これに対し、戦後的価値観はいかがでしょう。
東日本大震災から、もう5年です。
ぜんぜん復興が進まない。
何が正しいのか、どう生きなければならないのかという価値観そのものを見失い、ただ享楽的になっているだけでは、ものごとは解決はしないのです。
「もろともにあはれと思へ」だけでは、かわらないのです。
「花よりほかに知る人もなし」であったとしても、たったひとりでもしっかりとした姿勢を崩さず、立派な日本人になれるように努力をし続けるから、変われるし、成長できるのです。
そういうことが大事だということを、行尊は教えてくださっているように思います。

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