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先日、琵琶湖疏水のことを記事にさせていただきましたが、この難工事に際して、若干23歳の田辺朔郎が工事の総責任者となったというお話を書かせていただきました。
このように若い人が積極的に取立てられたという背景には、実は極めて日本人的なアイデンティティに基づくものです。
そしてそのきっかけは、日本の神話にあります。
ひとつ例をご紹介します。
それは『古事記』にあるお話です。
葦原の中つ国が、大国主神によってウシハク統治になってしまっていることを心配した天照大御神は、天孫を中つ国に降臨させます。
このとき任命された天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は「中つ国は騒々しい」と言って帰ってきたので、次に天菩比神(あめのほひのかみ)が派遣されました。
けれど大国主神の財力に取り込まれてしまったので、3番目に天若日子(あめのわかひこ)が派遣されました。けれどその天若日子も、大国主神に金と女で取り込まれてしまいます。
そこで次は誰を派遣しようかということになり、白羽の矢が立ったのが伊都之尾羽張神(いつのおははりのかみ)です。
そこで高天原から伊都之尾羽張神のもとに使いを送ると、話を聞いた伊都之尾羽張神が次のように述べます。
「恐れ多いことです。かしこまりました。
その道行(みちゆき)は、
私の子である
建御雷神を遣(や)りましょう」
こうして建御雷神を出発させるのです。
このことの持つ意味は重大です。
どういうことかというと、結果として建御雷神は大国主神のもとに使いに出て、
「汝がウシハクこの葦原の中つ国は、
我が御子がシラス国ぞ。
汝が答えやいかに」と迫り、国譲りを成功させるのですが、その建御雷神は、直接指名された神様ではなくて、本来、指名されたのは父の伊都之尾羽張神であったということです。
普通、栄誉の任に預かったとき、「俺が!私が!」と飛びつくのが、あたりまえというか、一般的です。
現に、天菩比神も天若日子も、まさに自分が飛びついています。けれど結果として失敗しています。
ところが、伊都之尾羽張神は、自分が飛びつくのではなく、息子に、その任を譲っているわけです。
実はこのことは、古くからの日本の伝統で、実はこの場合、建御雷神の成功不成功の全責任を、父の伊都之尾羽張神が連帯して保証している、つまり、全責任を息子の建御雷神と共有しているのです。
ということは、建御雷神からしてみれば、自分の任務の達成は、親にも責任が及ぶことになるわけですから、これはもう真剣です。
父の伊都之尾羽張神にしても、日頃から息子(部下の場合も同じ)を厳しく鍛えあげて自信があるから、こうしているのですし、またこのように権限を委譲することで、息子に機会を与えて成長を促しています。
一方、天照大御神にしてみれば、辞令を受けた者が単独で責任を負うのではなく、父という連帯保証人が着くわけですから、安心です。
逆にいうと、その前までの天菩比神、天若日子は、自分で下界への降臨を引き受けています。
「俺が、俺が」です。
任務失敗時の保証(保険)さえありません。
伊都之尾羽張神は武神ですが、なるほどそういう意味では実に武神らしい立派な態度をとっています。
そしてこの後、子の建御雷神の成功によって大国主神が国譲りを承諾することによって、最初に天孫降臨を命ぜられた天忍穂耳命が、降臨することになります。
実は、最初に天忍穂耳命が、途中の天の浮橋から下界の中つ国を見て、「下界は騒々しい」と帰ってきてしまっていますが、帰ったからといって、天照大御神の詔が消えてなくなったわけではないのです。
ですから天忍穂耳命のあとに中つ国に派遣された天菩比神、天若日子、建御雷神は、いわば天忍穂耳命のための
露払いに派遣されているのです。
ですから露が払われれば、当然、最初の命令が生きて、天忍穂耳命が派遣されることになります。
ところが、最初の拝命から、天菩比神で三年、天若日子で八年と、ずいぶんと長い歳月が経ってしまっています。
その間に、天忍穂耳命には子が生まれています。
そこで天忍穂耳命は次のように答えています。
「僕(あ)が降りようと
装束(よそおひ)し間に、
子が生れ出る。
その子の名は、
邇邇芸命(ににぎのみこと)と云う。
この子を降さむ。」
天忍穂耳命が、息子の邇邇芸命を派遣したいと申し出、それが許可された理由は、伊都之尾羽張神と建御雷神のときと同じです。
息子を派遣する。
そのかわり、その全責任は、親が負う、というものです。
この二つの神話の事例は、親子関係に基づいていますが、ひとむかし前までは、職場における上司と部下の関係も、親子や兄弟の関係と等しいものと考えられていました。
ですから、先輩は厳しく後輩を育てたし、手柄を立てることのできる大きな機会があれば、そのチャンスを後輩に譲りますし、若手に積極的に機会を与えています。
先日琵琶湖疏水のことを書きましたが、若い田辺朔郎に全責任を委ねた北垣国道京都府知事の決断には、このように神話に書かれた日本的精神が、背景にあるのです。
そしてそのことに誰もが従ったのも、やはり神話に基づく、こうした日本社会の仕組みを、誰もが共有していたからです。
このようことを、幼い頃から教育されて育った若者と、知識偏重で、社会人としてあるべき常識をまったく教えられずに成人する環境と、社会に輩出される時点で雲泥の差が生まれるのは、あたりまえのことです。
人として対等であるということは、同時に対等に扱ってもらえれる自分になるということです。
そこに人としての成長が伴わなければ、対等という概念も育ちようもないのです。
昨今、肩書があれば人を支配することができると、まるでウシハク国の人々のような思考をする人が増えています。
まったく子供じみています。
なぜなら、肩書というのは責任のことを言うからです。
責任を果たすためには、果たせるだけの自分に、自分自身が成長していることに加えて、これを保証してくれる親方がいるから、権限を委譲できるのです。
言い換えれば、肩書があるから命令して人に言うことをきかせることができるのではなくて、周囲の人たちが納得できるだけの社会的背景と、その人自身の成長があるから、みんなが納得して、一緒になって汗をかいてくれるのです。
なるほど命令があれば、言うことをきくかもしれませんが、そんなものはカタチだけです。
命令を受ける側が、真剣になって取り組むのは、そこに納得があるからです。
そして人が納得するのは、そこに納得できるだけの理由と背景があるときだけです。
人は命令によって動くのではなく、みんなのために、自分のためにと納得できたときに、はじめて心を込めた動きをしてくれるからです。
役職の任命も同じです。
誰それを課長にするとか、部長にするとか、あるいは支店長にするとか、人を指名する、人事の発令をするということは、その発令した人事について、発令した上司が責任を持つということなのです。
発令した上司が、安心して責任を委ねられるだけの人格と仕事上の能力が両立して、はじめて肩書が与えられるのです。
なぜなら、その結果責任を、発令した上司が持つからです。
逆にいえば、辞令を受けた者は、自分がその職務をまっとうできなければ、自分を指名してくれた上司に恥をかかせることになるのです。
それが日本的組織観です。
昨今、日本人のような顔をして日本語を話し、日本人らしい氏名を持つ日本人でない者が、会社の人事を牛耳ったりすることがあります。
こうした連中は、権力の行使として、あいつがどうした、こいつがどうしたという噂話で、人事を壟断し、発令はすれども、それによって会社等の業績の低下があっても、一切、責任を負うことがありません。
誰かを支店長に任命して、その支店の成績が下がれば、それは支店長の責任であって、発令者の責任ではないと、しらっと言ってのけます。
全然違います。
そういう者を任命してしまった任命者に責任があるし、任命者は連帯して責任を負っているのです。
日本人のような顔をして日本語を話し、日本人らしい氏名を持つ日本人でない者は、権力行使には興味があるけれど、責任を負うことにはまったく関心を示しません。
「責任なき権力」そんな馬鹿げたものは、この世にあってはならないものです。
責任と権力は、常に一体のものです。
昨今、洋風化に伴って、こうした意識がたいへんに希薄化してきています。
これを憂う多くのお年寄りたちが、口をそろえて、「神話を学べ」と言います。
それは、ただ頭が八つあるキングギドラに酒を呑ませたとか、誰かがウサギと話したとか、そんなことを「学べ」と言っているのではありません。
その背景となっている物語の背骨にあたる日本古来の知恵を学べと、おっしゃっているのです。
『古事記』は、その宝庫です。


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