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上の絵は、錦江のほとりにある扶蘇山にある皐蘭寺(コランサ)というお寺にある壁画です。
これは660年の百済滅亡の際、略奪、殺戮、強姦などほしいままにする新羅の軍勢の前に、貞操を守るため落花岩から百済の宮女達が錦江(白馬江)に身を投げたという伝説を描いた絵です。
皐蘭寺は身投げした宮女達の魂を慰めるために建てられた寺です。
百済の人々は、国は朝鮮半島にあり、国名も百済ですが、王も人も倭人です。
高句麗や濊族と血が混じった新羅などに対する緩衝地帯として、上古の昔に入植した倭人たちの末裔が住む国が百済です。
ですから百済人は、いまの韓族とは人種民族が異なります。
そして百済も新羅も倭国に朝貢していた国であり、国王の息子(跡継ぎ)は倭国に住んでいました。
ところが新羅王の息子が新羅に帰省したとき、新羅は突然兵を挙げて百済を攻め滅ぼしたのです。
日本は、その百済の復興のために、兵をあげました。
そしておよそ3年半にわたる戦いの末、最後に白村江(はくすきのえ)の戦いの敗戦によって、日本は半島から完全撤退しています。
この百済救援の戦いは、実は古代における東洋社会最大の戦いです。
このときの兵力は、日本/百済連合軍が、4万7000、
対する新羅の兵力は5万でした。
つまり、兵力はほぼ互角で、兵力が互角なら、故郷を取り返したいと強く願っている百済兵と、いざとなれば強力な威力を発揮する倭国兵の勝利は確実なものでした。
強制徴用されていて、単に脅かされて兵に仕立て上げられている新羅兵とは、その強さのレベルが桁違いだったのです。
ですから新羅に対して十分勝てるはずでした。
ところが新羅は、あろうことか唐に援軍を頼みました。
唐が新羅に派遣した兵力は、13万の大軍です。
新羅の兵力と合わせると、なんと18万の大兵力です。
倭国・百済連合軍の約4倍の兵力となったのです。
古代の戦は、兵力勝負です。
武器は基本的に弓矢と手にした刀剣類ですから、単純に兵力の大きい方が勝ちます。
兵力に劣る倭国・百済連合軍は、あきらかに不利な条件下で、それでも3年余りを戦い抜いたのです。
けれど衆寡敵せず、最後は白村江で敗れ、倭国軍と百済遺民軍は日本に引き揚げました。
そして日本は朝鮮半島での権益を喪失し、さらに自国の兵力に数倍する唐軍への対応のために、国防体制、政治体制の抜本的変革を余儀なくされたのです。
こうして近江令法令群が策定され、飛鳥浄御原令が制定されました。
そしてこのとき、倭国は「日本」と、国号を変更しました。
国号の変更は、もちろんChinaが書いた「倭」の文字を嫌ったということもあったことでしょう。
けれどもしかすると、いつまでも百済難民、在来の倭人と区別差別するのではなく、百済難民も在来の倭人も、ひとつ屋根の下でともに仲良くやっていこうではないかという思いがあったのかもしれません。
では新羅のその後は、どうなったでしょうか。
もともと唐が新羅と手を組んだのは、いまでいう北朝鮮のエリアにあった高句麗(こうくり)への侵攻に際して、唐から見て高句麗の向こう側にあった新羅と手を組もうという意思があったからです。
そして唐は新羅と手を組むことによって、666年には高句麗へ侵攻し、668年には高句麗を滅ぼしています。
ところが新羅は、もとの高句麗に派遣されていた唐軍に対して、嫌がらせの数々を行い、あからさまに追い出そうとしました。
新羅はこのとき、元の高句麗の土地においては、唐の兵に対して、ありとあらゆる嫌がらせをするのですが、その一方で唐本国に対しては、ひたすら土下座して降伏外交をしているのです。
つまり二枚舌です。
新羅は、かつての三韓時代においても、日本の朝廷に恭順しながらも、一方では百済を攻め、任那を攻めていました。
そして百済や任那が滅んだあとは、唐と一方で組みながら、一方で唐軍に対して、嫌がらせを続け、ついに675年、新羅は「唐の冊封国(属国)」となることで、朝鮮半島を統一しています。
朝鮮半島の統一は、これが史上最初の出来事となります。
ここで朝鮮半島にとって不幸だったのは、「裏切りと不実」そして「二枚舌を駆使」の王朝が、半島の首となったことです。
7世紀という、世界中の国家というものの幼年期において、こうした裏切りが政権を担うことになったということは、たいへんに不幸なできごとです。
「三つ子の魂、百までも」という言葉がありますが、人も国も同じです。
国や民族が形成される幼年期に形成された性格は、その国や民族の性格を完全に決定づけます。
実際、新羅の二枚舌外交と裏切りは7世紀の出来事ですけれど、かの国は21世紀になったいまでも、その性格は何ら変わるところがありません。
「日本なんて、なくなっちゃったっていいんだよ」と、無責任なことを口走る馬鹿者が、いま日本の政治家や言論人の中に数多くいます。
彼らは、日本が冒頭の絵のような不幸を生むことが望みなのでしょうか。
冒頭の落花岩の宮女たちの絵は、1300年前の出来事です。
けれど千年以上昔のことだからと、笑うわけにはいかないのです。
なぜなら、同じことが終戦の復員のときに、起きているからです。
絵の右端には、女性たちを追い込む唐・新羅の軍勢が描かれています。
要するにChineseとKoreanです。
1300年経っても変わらないということは、あと千年経っても変わらないということです。
だから、日本には国境があるのです。

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