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20160215 武家の娘

英文で書かれた日本文化論として有名なのは、新渡戸稲造著「武士道」、内村鑑三著「代表的日本人」などがありますが、もうひとつ忘れてならないのが、杉本鉞子(すぎもとえつこ)著『武士の娘』です。
この本は、1925年にアメリカで『A Daughter of the Samurai』の書名で出版され、当時はこの本を読むと日本のことがわかるといわれて、全米で大ベストセラーになり、後に欧米8か国で出版されました。
いまでも欧米で日本に留学しようとする人たちにとって、この本は「読んでおきたい定番本」となっているのだそうです。
どのようなことが書かれているのか、ほんのサワリだけご紹介してみたいと思います。
作者の杉本鉞子は、米百俵で有名な幕末の長岡藩の家老の家に生まれた女性です。
その鉞子への教育は、6歳からがスタートだったのだそうで、はじめは儒教の古典の素読(声を出して読む)です。


「当時、女の子が漢籍を学ぶということは、
 ごく稀れなことでありましたので、
 私が勉強したものは男の子むきのものばかりでした。
 最初に学んだものは四書、
 すなわち大学、中庸、論語、孟子でした。」(p.31)
素読の学習中は、畳の上に正坐です。
手と口を動かす以外は、微動すら許されません。
いちど鉞子が素読の講義中に、ほんのすこし体を傾けたことがありました。
師匠は、驚き、次のように述べました。
「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。
 お部屋に引き取って
 お考えになられた方がよいと思います。」
鉞子は、
「恥ずかしさのあまり、
 私の小さな胸はつぶれるばかりでした」
いまの時代は、微動どころか授業中に私語をしたり、さわぐがあたりまえなのだそうです。
それを教師がとがめると、子どもは言うことを聞くどころが、なぜ叱られたかすらまるでわからず、挙句の果てが親が出てきて、「どうしてウチの子ばかり叱るんですかっ!」となるのだそうです。
これは聞いた話ですが、いまどきの小中学校の授業は、教室で先生は仕事だから勝手に授業を行い、生徒たちがその先生の授業をまじめに受けようが受けまいが、それは個人の勝手なのだそうです。
道徳教育など行う必要はなく、教える必要もない。
道徳心は子供達が人間として生まれてきたときに、すでに持っているものなのだから、社会道徳を教えることは、子供達の持って生まれた道徳心を否定することになり、よくないこと、なのだそうです。
私などから見ますと、それは暴言にしか思えないのですが、日教組系の教師たちは、それ以外の一切の意見に聞く耳を持たないのだそうです。
ちなみに、自殺者の最も多い職業が、いまは学校教師なのだそうです。
さもありなんと思います。
これに対し、もともとの日本の教育は、たいへんに厳しいものです。
教師に教えてもらうのは、論語や算学そのものもさりながら、そうした学問を通じて、人としての道を教わるものだとされていました。
人と犬猫などの畜生との違いは、道徳心を持つか否かです。
従って道徳教育を受けるということは、動物から人になることを意味します。
だからこそ道徳教育のことを、「身を修める=修身」と呼んだのです。
そしてそのような背景があったからこそ、鉞子は、師匠の叱責に「恥ずかしさ」を覚えています。
隔世の感がします。
なぜ恥ずかしいのかといえば、それは人としての道を外れたからです。
人でなければ、獣だからです。
人の形をしていても、徳義がなければ、それは動物とかわらない。
ただの家畜になるのか、それとも人として立派に生きるのか。
後者のために授業を受けているなら、人として立派に教育を受けなければならない。
そういうことを鉞子は、わずか6歳で理解していたわけです。
いまどきの「教育」と、ずいぶんな違いです。
そしてこのような「制御の精神」を身につけて育った武家の娘たちは、穏やかな中にも、自然と気品と威厳が備わりました。
ですから武士と庶民では挨拶の仕方から、歩き方まで違っていたし、風呂屋で裸になってもどの階級に属するのか、一目でわかったそうです。
そんな彼女が12歳になると、親族会議によって縁談が決まりました。
婚約者は、アメリカに渡米している兄の友人です。
そこで鉞子は、東京で英語を勉強して、24歳で渡米しました。
その米国で、米国の女性について、彼女がとても驚いたと書いていることがあります。
「婦人が自由で優勢なこのアメリカで、
 威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が、
 夫に金銭をねだったり、
 恥しい立場にまで身を置くということは、
 信じられそうもないことであります。
 私がこちらへ参ります頃は、
 日本はまだ大方、古い習慣に従って、
 女は一度嫁しますと、
 夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任を持つように
 教育されておりました。
 夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、
 自ら判断して一家の支出を司っていました。
 家の諸がかりや、食物、子供の衣服、教育費を賄い、
 また、社交や、慈善事業のための支出を受持ち、
 自分の衣類は、夫の地位に適わせるよう
 心がけておりました。」(p.216)
杉本鉞子は、渡米し、子を産み育て、帰国し、また渡米した人ですが、晩年には米国コロンビア大学の講師を勤め、彼女が住んだシンシナティの人々は、彼女亡きあとも、彼女を「グレート・レディ」として敬愛したそうです。
ですから著者の人生経験の中から紹介された「武家の娘」は、静かで品位を失わない文章と、志操の高さ、謙譲と忍耐の精神と毅然とした姿勢が見事に描かれていて、だからこそいまでも世界で大絶賛されているのです。
日本人として、きちんとした人間教育を受けた人ならば、世界中の良心ある人が歓迎します。
一方、どんなに日本で高い教育を受けていても、人間としての教育を受けずに育った人は、理屈を言う獣です。
そして獣は可愛がられ、ODAなどのお金のバラマキをすれば、どこの国にいても人は寄ってくることがあっても、未来永劫、人として尊敬されることはありません。
杉本鉞子は、武家の教育を受けた女性です。
紹介しました文に「風呂屋で裸になっても武家の娘は一目でわかった」とありますように、ここまで徹底した厳しい教育を受けたのは、江戸の昔は武家に限ったことであったかもしれません。
けれど、社会のリーダー層が、それだけ厳しい教育を受け、しかも腰に帯刀して切捨御免という世の中だったのです。
実際には人を斬れば、相手がどうあれその場で切腹が常識でしたから、武士が刀を抜くことは滅多にありません。
けれど、抜かなくても自然に備わる威厳が、ずっしりとした社会の重さとなっていたことは事実です。
そして、上の重たい厳しい社会というのは、戦後は「特高によって言論の自由を奪われた住みにくい国」とばかり強調され、宣伝されましたけれど、すこし考えたらわかることですが、そういう国は、実は
「悪人にとっては、これほど住みにくい国はなく、
 善人にとっては、何の問題もない社会であった」
ということが、実は本質だったのです。
社会に甘え、ヤクザもどきに肩や腕に墨を入れた偏差値28の若者が差別反対と声高に叫ぶ。それを容認する政治家がいる。
そのようなことで社会がまともになるはずもありません。
いまどきの日本人は、いったい世の中をどうしたいのでしょうか。
日本は人の住む国です。
騒ぎを起こしている者たちが日本の人でないのなら、それは人以外、つまり獣です。
獣は野放しにする者ではなく、飼いならすか、厳しいようですが、殺処分すべきです。
それが国家というものです。
※この記事は、2011年2月の記事のリニューアルです。
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