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東海道新幹線の開業は、昭和39(1964)年10月1日のことですが、実は新幹線の完成予定は、それより10年も前の昭和29(1954)の予定でした。
そして新幹線の工事着工は、大東亜戦争開戦の前の年である昭和15(1940)年のことです。
当初予定されていた新幹線は「弾丸列車」と呼ばれるものでした。
なんと機関車全盛だった時代に、この列車は電気で走り、最大時速は200キロが予定されていました。
東京~大阪間を4時間、東京~下関間は、9時間で結ぶという大構想だったのです。
計画の終着駅は、なんと北京です。
下関から、朝鮮海峡海底トンネル(全長約200キロ:世界最長トンネル)を経て、釜山へ渡り、そこからソウル、奉天(現瀋陽)を経て、以前ご紹介した満州国首都である新京(現長春)へ、分岐した一本が、北京へと到達する大路線だったのです。
満洲の新京までが、35時間40分。
北京までが、49時間10分の旅です。
弾丸列車の総工費は5億5千万円。
このうち1億3200万円がトンネル工事費です。
土地買収費が7000万円。
総予算のうち、用地の買収費が、とても安く感じられるかと思うのですが、当時は、多くの国民が、こうした公共工事のための用地買収に、とても気持ちよく応じていました。
もちろん相応の補償もありました。
そういう次第ですから、むしろ鉄道工事の最大の難関は、用地買収よりもトンネル工事にありました。
なかでも最大の難関が、熱海の新丹那トンネル(全長7880メートル)です。
なぜトンネルがたいへんかというと、場所が、箱根の温泉地帯の地下だからです。
トンネルを掘ると、温泉が噴き出すのです。
「いい湯だな」などと言ってられません。
熱湯が噴き出すのです。
しかも当時のトンネル堀は、手掘りです。
ツルハシとスコップで、穴を掘るのです。
思えば戦中まで、日本人はずっと穴を掘っていたような気がします。
外地では、塹壕堀りに、蛸壺堀り、地下陣地の構築。
激戦の島となったペリリュー島は、サンゴ礁が隆起してできたた島です。
そこに塹壕や防空壕を掘ったのですが、掘ったところは、まるでコンクリートの岩盤を掘るような状況だったそうです。
何日かしますと、鉄でできたツルハシが、ただの大型トンカチのような形にすり減ったそうです。
手は血豆ができてつぶれ、持ち手のところは血だらけでした。
しかも南洋の島です。暑い。気温は連日30度を越え、蚊と蝿が猛烈にたくさんいる。
硫黄島の塹壕堀では、地下に硫黄が吹き出しました。
しかも火山性の地熱で、壕内は50度を超える蒸し風呂でした。
そんなところで、島中に縦横にトンネルを張り巡らしたのです。
川も水もありません。
水はもっぱら雨水を貯めてつかいました。
日中は塹壕堀り、夜は防衛戦のための猛烈な教練が連日行われました。
パラオにせよ硫黄島にせよ、ただ戦って散っていかれたというだけでなく、その戦いの前に、およそ人間技とは思えないほどのたいへんなご苦労があったのです。
なんのためにそこまでみんなが努力したのか。
どうしてそんなたいへんなことができたのか。
単に上からの命令や、上官からムチでしばかれたというだけなら、それだけの事業はできません。
もちろん上官は厳しかったけれど、その上官も一緒になってツルハシを振るっていたのです。
要するに、ここで俺たちが頑張り抜かなくて、誰が祖国を守るのか。
その自覚がひとりひとりの兵隊さんにあったからこそ、できたことです。
本論から脱線していますが、脱線ついでに、もう少し申し上げたいと思います。
私たちは、兵隊さんは「徴兵で無理やり強制徴用された人たち」という誤った認識を刷り込まれています。
けれど当時の兵隊さんというのは「選ばれた人」です。
徴兵検査は、全男子が行われます。
けれど徴兵されるのは、甲種合格者です。激戦の中、丙種一類合格者も後に戦地に行くようになりましたが、甲種合格者というのは、学級でいったら、二組にひとりくらいしか選ばれない、身体頑健、性格良好なまさに健康優良児だったのです。
虫歯があったらダメ。痔が悪ければダメ、太り過ぎもダメ、目が悪くてもダメ。持病があったらなおさらダメ、勉強ができなければダメ、全部不合格者です。
要するに、赤紙を貰えるというのは、まさに国から「優秀な男子」として選ばれたエリートになることだったのです。
そしてそれだけ優秀と認められた青年であったればこそ、なおさら、国を守るということに、まじめにひたむきに取り組んでくれました。
諸外国の兵隊というのは、もともとが傭兵からスタートしていますから、いわゆる「荒くれ者」がモットーとされる傾向がありました。
けれど日本の兵隊さんというのは、もともと防人が原点にあり、武士がお手本です。
不真面目な不良や、刺青をいれて中指を立てて乱暴な言葉でデモ行進をするSEALDsのような連中には、日本の兵隊は務まらないし、あの手の連中が徴兵されることは千年たっても日本ではありえないことなのです。
そしてそういう真面目な兵隊さんたちであったからこそ、ペリリューの硬いサンゴを掘って塹壕を造ったし、硫黄島で壕を張り巡らしたし、最後の最後まで頑強な抵抗をしてくれたのです。
彼らの戦いがなければ、日本の大都市への空襲が半年は早くなり、疎開が遅れ、おそらく今行きている日本人の半数は、生まれることはなかったのです。
話が脱線しました。
そんな戦時中も、国内では、難所の新丹那トンネルが掘られていました。
そのため新丹那トンネルは、工事期間に7年半もの期間を予定していました。
ということは、1年で100メートルがやっとだったということです。
どれだけたいへんな工事かわかります。
けれど、どんなに不可能に見えるたいへんなことであっても、少しずつ進めていけば、確実に工事は完成する。
そういうことを当時の人たちはみんな経験的に知っていました。
不平不満を言うのではなく、ただ黙々と作業を進める。
そうすることで、できっこないと思われるような難事でも、必ず道は通じていく。
と、その話はさておいて、逆にいえば、新丹那トンネルさえ完成すれば、かなり建築計画が確実になると思われていたのです。
それにくらべたら、下関~釜山の朝鮮海峡海底トンネルのほうがはるかに簡単でした。
深度さえあれば良いのです。熱湯が出ない。
新丹那トンネルの起工式は、戦時中の昭和17(1942)年3月20日です。
残念なことに、翌、昭和19年3月には、戦況の悪化にともない、工事は中断されてしましました。
当時出された報告書「昭和十九年度新幹線実施方針」には、次のように書かれています。
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目下工事中のものは新丹那隧道其他工事、日本坂隧道其他工事及新東山隧道工事の3件であるが、新丹那隧道其他工事は、未だ完成迄に長期日を要するを以て、工事中止が現在線に影響を及ぼさざる程度に整理工事を行ひ18年度限り中止する」
関係者のみなさんの無念な思いが伝わってくるようです。
そしてこの文の後ろには、
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然しながら「新幹線」の使命の重要性と長期計画たるに鑑み、計画の一貫性を保持し後年度情勢の変化に伴ふ工事の促進に備ふるため計画未決定区間の計画の確立及諸設計を促進せんとする。
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と書かれています。
このときすでに「新幹線」の文字が使われて、さらに「後年の情勢の変化に」応じて未決定区間の「設計」は続けよう、と書いているのです。
どこまでも希望を失わない、新幹線の関係者のみなさまの強い決意が伝わってきます。

終戦後、新幹線の工事は、往年の弾丸列車の計画のまますすめられました。
途中で工事が止まった新丹那トンネルも完成しました。
このトンネルは、いまも東海道新幹線に使われています。
ちなみに、現在走っている新幹線は、ほぼ全線、戦前の弾丸特急予定路線で用地の買収が進められた区間です。
成田空港の土地買収を考えれば分かるとおり、戦後の公共工事では、個人の権利と左翼の暴走に押されて、用地買収は進まないし、ようやく土地の買収ができても極端に地価が吊りあがり、工事費全体が莫大な金額となっています。
このため大規模な道路工事や、幹線鉄道整備などがなかなか進みません。
なにせ現行憲法は主権在民をうたっているのです。
「主権」というのは、交戦権を包含する国家権力そのものです。それを個人が持っている。
いってみれば、会社の経営権も人事権も経理処理の権限も、すべてひとりひとりの社員が持っているようなものです。
そうなると、政府は、個人の用地買収をするときには、いわば外国政府を相手どって用地買収をすすめるようなものですから、用地買収費が極限まで跳ね上がってしまうのです。
戦後の左翼は反日主義者たちは、国や県が大規模な公共工事の計画を発表すると、大挙してそこに押し掛けました。
そして工事の反対運動を行いました。
国や県は穏便に用地を買収しようとして、言い値で土地を買い取ります。
結果、土地の値段が吊りあがります。
新幹線の乗車賃は、空を飛ぶ飛行機と同じです。
飛行機は空を飛んでいるから、そのルートに用地買収費は発生していません。
飛行ルートに用地買収費が発生していない空飛ぶ飛行機と、巨額の土地買収金が必要だったはずの鉄道が、ほぼ同じ運賃でいれるのはなぜかというと、なんのことはない、戦前、多くの地主さんたちが、国家の公共の福祉と発展のためにと、進んで用地を提供してくれたからなのです。
だからこそ、いまと違って用地買収よりも工事そのもののたいへんさの方が、工事全体の予算の中で大きな地位を占めていたのです。
もし、新幹線全線が「戦後」に誕生していたのなら、どうなっていたのでしょう。
いったい乗車賃、特急券代は、いくらになったのでしょう。
はたして新幹線は開業できたのでしょうか。
ちなみに、戦前の日本の鉄道計画は、以前の記事でお伝えした、東京発で日本海を一周して樺太から北海道を経由して東京に至る「日本海大環状線」があります。
そして今回ご紹介した「北京線構想」もありました。
それだけではありません。
なんと北京~南京~ベトナム~カンボジア~マレーシアを経由してシンガポールに至るという大鉄道網を、アジアに建設する、という大計画が作成されていました。
その一部が、日本が作ったマレー鉄道であり、朝鮮半島を縦断する鉄道であり、大連~新京にいたる満州鉄道であり、東北本線であり、東海道本線であり、山陽本線でもあります。
つまり「一部実現」しています。
そしてそれらは、いまにいたるも、まだ接続されていないだけでなく、鉄道路線そのものも、ほとんど伸びていません。
日本が作った当時のまま、その先が進んでいません。
もっとも戦後は、支那に◯共という、人の命をなんとも思わない嘘つき国家が誕生し、周辺国の民衆を平気で虐殺するような暴虐国家がアメリカの援助でできてしまったし、それに従うチンピラ国家の◯国、◯一族だけが酒池肉林の贅沢をする軍事国家の◯◯鮮ができてしまったいま、この鉄道は、むしろ完成してくれなかったほうが、良かったと思います。
完成していたら、どれだけ日本や東南アジアの諸国が迷惑したか計り知れないからです。
大東亜共栄圏、八紘一宇とかいうと、やれ戦争だ、日本の侵略だといわれますけれど、私は思うのです。
この大東亜の大環状線が、日本を始め、東洋社会の全ての国から、本当の意味で喜びと安心と安全をもって、敷設される、そんな時代がくることこそ、東亜の民衆が本当の意味での幸せを得る日なのではないか。
そんなふうに思います。
いまの日本には、反日であることを正義とするおかしな人がたくさんいますが、もし「民の幸せこそ国家の幸せ」とし、法治主義に貫かれた帝国日本の精神が東亜に定着していたなら、どうなっていたでしょうか。
支那に共産党政権は誕生せず、人民解放軍もなく、当然、億単位の人が殺されずに済んでいます。
その支那は、戦前の構想では、中原の支那と、チベット、満洲、南モンゴル、東トルキスタンが、別々の国家となるはずでした。
朝鮮半島も南北に分断されずに済んでいます。
ベトナムが南北に別れて戦争する事態も起きていません。
ビルマやカンボジアの内戦もありません。
ウイグルの虐殺もない。チベットの虐殺もありません。
そして東亜のヒト・モノの交流は、いまよりももっともっと盛んになっていたでしょう。
人々は、いま以上に豊かになり、約束がちゃんと守られる社会が、みんなの力によってできていたものと思います。
米国による力の外交は、蒋介石を支持し、後には中共の毛沢東を支持し、東亜諸国を紛争と敵対の関係にし、多くの人命を奪い、結果としてその米国がいま、中共政府と敵対関係になりつつあります。
果たして、戦後の東亜社会というものは、本当に良い時代を迎えたということができるのでしょうか。
果たして、左翼の反日は、本当に人々の幸せを招く思想と行動なのでしょうか。
※この記事は2009年12月の記事のリニューアルです。

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