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マサダ砦跡(イスラエル)
20160114 マサダ砦

イスラエルの建国は昭和23(1948)年ですが、その後イスラエルは、これまでに7つの大戦争を勝ちぬき、自国の独立を保ちました。
そのイスラエル軍は、新兵の入隊式を、かつて砦のあったマサダで行います。
右手に自動小銃を握り、左手に旧約聖書を持って、「マサダは二度と陥ちない」と誓います。
マサダというのは、いまから2000年前、イスラエル王国がローマ帝国によって滅ぼされたときに、最後まで抵抗戦をしたユダヤ人たちの砦です。
その「マサダ砦」に、エルアザル・ベン・ヤイル率いるユダヤ人967人の男女が立てこもり、1万5千のローマ軍を相手に3年近くも砦を守って闘いぬきました。
陥落のとき、「投降してローマの奴隷となるよりは死を」と、2人の女性と5人の子供を残して、全員自決しました。
この自決のときの、リーダーの言葉がヨセフスの『ユダヤ戦記』に書かれています。


*******
高邁なる友よ。
我々はずっと以前から
人類の唯一なる真にして義である主なる神以外には
ローマ人であれ何人であれ
奴隷にならないと決心してきた。
そしてこの決意を実行に移して
真なるものとすべき時が今到来した。
我々が自由な状態で勇敢に死ねることは、
神が我々に与えたもうた恵であると、
私は思わずにはおれない。
我々にはまだ、
最愛なる同志とともに
栄光ある死を選ぶことができる。
我々の妻たちが辱めを受ける前に
子供たちが奴隷を経験する前に
死なせてあげようではないか。
自由を保持してゆこうではないか。
糧食のほかは何も残さずにおこう。
何故なら、我々が死んだときの証として
我々が制圧されたのは必需品が不足していたからではなく
最初からの決意に従って
我々は奴隷よりも死を選んだことを
示してくれるだろうから。
******
こうして男たちは自らの手で最愛の者妻や子を殺しました。
そして男たちはくじ引きで十人を選び、残りの者達は首を差し出しました。
選ばれた十人は恐れることなく使命を果たした後、再び籤で一人を選び、死んで行きました。
最後に残った一人は、砦に火を付け、自らの剣を体に刺し貫いきました。
マサダ砦は、この戦いのあと、ローマ軍によって徹底して破壊されまています。
そしてイスラエルの民は、私有財産をすべて没収され、女は辱められ、ローマの奴隷となりました。
こうしてローマは、イスラエルの歴史を徹底して消し去りました。
しかし逃げ延びた人々もいました。
彼らは国を持たない放浪の民となりました。
そして2000年後、彼らはマサダを忘れず、イスラエルを建国しています。
 *
そのイスラエルの建国の英雄に、「片腕の英雄、ヨセフ・トランペルトール」がいます。
トランペルトールは、若いころ、帝政ロシアに住んでいました。
そして徴兵され、日露戦争でロシア兵として、旅順要塞に立て篭もりました。
戦いの途中、彼は日本側の砲撃によって、左腕を根元から失いました。
それでも残った一本の右手で、拳銃を撃ち、最後まで戦ったそうです。
当時のロシア軍では、ユダヤ人が昇格することはありえなかったのですが、トランペルトールはその勇敢さゆえに伍長に抜擢されています。
しかし旅順要塞は陥落し、彼は、他のロシア人捕虜約一万人と共に、大阪府堺市浜寺のロシア兵の捕虜収容所に連れてこられました。
当時の日本は、まだ貧しかったけれど、国際法に準拠して、捕虜たちには、最大限の待遇を与えました。
新鮮な肉や野菜やパンをふんだんに支給し、将校には当時のお金で月額で三円、兵には五〇銭の給料も支給しています。
日本の兵隊さんと較べて、決して多い金額ではありませんが、三食昼寝完全看護付きです。
このとき日本は、捕虜収容を、彼らの宗教によって建物を分けました。
宗教上の対立を持つ彼らの国情を、ちゃんとわきまえての措置です。
このために、約500人いたユダヤ人たちは、同じ建物で暮らすことができました。
 
トランペルドールは当時、日本人の所長にかけあって、収容所の中に学校をつくる許可を得ています。
ユダヤの捕虜たちに、ロシア語の読み書きや算術、地理、歴史などを教えるためです。
また、トランペルドールがユダヤ人のために収容所内で、過越の祭をしたいと言うと、所長は横浜のユダヤ人社会と連絡をとってくれて、ユダヤ人捕虜のために種なしパンの粉と、パンを焼くためのカマドを取り寄せてくれたりもしています。
そんなことからトランペルドールは、日本はなんと文明国なのだろう、と考えるようになったそうです。
敵の捕虜たちに対してさえ、これほどに親切に接してくれるからです。
ところがあたりをみれば、周辺の民家には夜、灯りがともらず真っ暗です。
つまり電気さえ通っていない。
トランペルドールは、
「電気もない貧しい小国が、なぜ大国ロシアを相手に勝つことができたのだろうか」と考えこんだそうです。
そして一生懸命日本語を習得して、なぜそんな貧しい日本が、大国ロシアに打ち勝つことができたのか、その秘密を探ろうとしました。
答えは、意外と身近なところで見つかりました。
警備をしているひとりの若い日本兵が言ったのです。
それは、
「国の為に死ぬほど名誉なことはない」
という言葉でした。
この言葉は、トランベルドールに、衝撃を与えました。
ユダヤ人であるトランペルドールにとって祖国はロシアではありません。
しかし彼には、死ぬことのできる祖国が存在していなかったのです。
ユダヤ人である彼にとって、ユダヤ人の国家の建設は、ユダヤ二千年の夢です。
しかしユダヤ人の国家を樹立するとはいっても、その国家は、どのような国家でなければならないか。
夢を現実にするためには、その具体的な青写真ができなければ、同志を巻き込み、新国家樹立をすることなどできません。
そうした問題意識を抱いていたトランペルドールはやがて、
「新しく生まれるユダヤ国家は、日本のような国家でなければならない」と心に刻むようになりました。
明治38(1905)年、日露講和条約によってロシアに帰国したトランペルドールは、やがてパレスチナに渡りました。
当時パレスチナはまだ、オスマン・トルコ帝国の領土です。
彼は、そのパレスチナで、イスラエル国の建国運動の中心的なリーダーになりました。
このとき彼が、具体的に築くべき理想国家図にしたのが、日本でした。
彼は、イスラエルに、日本を手本としたユダヤ人国家を建設しようとしたのです。
これは彼自身の言葉です。
大正9(1920)年、トランペルドールは、パレストナのガリラヤ地方でアラブ人の武装集団の銃撃を受け、息を引き取りました。
最期となったとき、トランペルドールがヘブル語で言った言葉が、
「アイン・ダバル!
 トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ!」です。
意訳すると、
「俺に構うな!
 国のために死ぬほどの名誉はない!」です。
それは大阪の浜寺で、彼が日本人の一兵士から教えられた言葉です。
今日、イスラエルのトランペルドールの記念館にある像には、この「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉が刻印されています。
また、展示されている彼の遺品には、
「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と書かれています。
以前、西村眞悟先生がこのトランペルドールのことを紹介され、次のようにお話されていました。
******
しかし、この精神は、
単に明治の日本や、イスラエルだけのものではなく
普遍的なものである。
およそ危機に直面した国民国家の存亡の分岐点となるのは、
この精神の有無である。
ではこの「国のために死ぬのが名誉である」というトランペルドールや
彼にこの言葉を伝えた日本軍兵士の精神の前提には、
如何なる思いがあるのかというと、既に明らかであろう。
それは「祖国への愛」なのだ。
誰が、祖国への愛なくして、
国のために死ぬのが名誉と思うであろうか。
現在の一見平和に見えて危機感を喪失した日本に生きる我々は、
日露戦争を戦い抜いた日本軍兵士から
イスラエル建国の英雄に語られ、
今我が国にイスラエルから戻ってきた
「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉の意味を
もう一度よく噛みしめる必要がある。
そうすれば、「祖国への愛」を教育で教えることを
重視するか否かは、
実は国家存亡に関わる課題であることが分かるのである。
*******
いまもマサダ砦跡地には、2千年前にローマ軍が放った投石器の岩が残っています。
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